第三話

 結核が判明し、僕はより厳重に部屋に閉じ込められることになった。とはいっても僕がそれを不満に思う暇はなかった。咳は日に日にひどくなり、体もまただるさを増して立って動くことすら辛くなっていったのだ。


「シノくん、調子はどうだい?」


「……姉様」


 咳のしすぎで意識が朦朧としていたのだろう。声をかけられるまでベッドのそばに姉様と八房がいるのにも僕は気付かなかった。


「平気だよ。お医者様もすぐ治るって言ってたし」


 それが嘘だということは当時の僕も知っていた。だからそれは姉様を心配させまいとしての言葉だった。姉様はそれを知ってか知らずか、おでこに貼りついた僕の髪を優しく撫でてくれた。


「それより、父様も母様も全然来てくれないことの方が僕は――」


 そう言いかけて僕は口元にシーツを引き上げた。

 僕は今、何を言おうとしたんだ。あんな人たち、来なくたっていいと思っていたのに。


 姉様はベッド脇の椅子を引いて、腰かけた。そのすぐ隣に八房も座る。八房も心なしか元気が無いようだ。


「同じ部屋にいたら病気がうつってしまうからね。みんなそれが怖いんだろう」


 僕の嘘など見抜いている言い方だった。僕はぼんやりと姉様を見上げた。


「姉様はいいの?」


「私はいいんだよ」


 ずきんと胸が痛んだ。姉様の言葉はまるで、僕のためならどうなってもいいと言ってくれているようで、僕は姉様に縋り付きたい気持ちに駆られたのだ。


 僕は重い体をなんとか起こして、姉様に手を伸ばした。だけど僕は自分の体が思った以上に弱っていることに気付いていなかった。


 あと少しで姉様に手が届くというところで、僕はバランスを崩してベッドから落ちてしまったのだ。


「危ないじゃないか、シノくん」


「姉様」


 すんでのところで僕を受け止めた姉様は、ベッドに椅子を寄せて僕を抱きしめた。僕は自分の体が震えていることに気付いた。


「姉様」


「うん」


「僕、死んじゃうんだって」


「……うん」


 姉様はまるで赤ん坊にするように僕の背中をとんとんと叩いた。耐えきれなくなった僕は姉様の腕の中でしゃくり上げた。


「怖いよ、姉様」


 涙が後から後からあふれてきて、姉様のセーラー服を濡らしていく。


「死ぬのが怖い……」




 どれだけの間そうしていたかは分からない。ふと姉様は僕の背を撫でるのを止めた。


「シノくん」


 顔を上げると、姉様と目が合った。姉様は今まで見たことがないような表情をしていた。目は見開いているのに口元は嬉しそうに笑んでいて、僕は背筋に寒いものが走るのを感じた。


「今の体を捨てたいかい? 君が君の母に貰った、病に蝕まれるその体を」


「姉様……?」


 かすかな恐怖を覚えて問い返すも、姉様は答えない。僕は姉様の問いを口の中で反芻した。


 今の体を捨てる?

 捨てるってどういうこと?


「その病気が治るということだよ、シノくん」


 まるで心を読んだかのように、姉様が答える。


「治る……病気が……」


 僕は姉様から離れ、自分の手を見つめた。手は震えている。


 病気が治る。どうやって? もう治らないと思ってたのに。姉様が治してくれるってこと? それに母様に貰った体を捨てるって――


 母様の顔が脳裏に浮かんだ。優しい人だった。大好きだった。あの人がくれたものを僕は――


 不意に喉の奥から熱がこみ上げ、激しい咳とともに口からあふれ出た。吐き出した血がシーツと姉様の服を汚す。僕は息のできない苦しさに喘いで、胸を押さえた。苦しみと痛みで、脳裏に浮かんでいた母様の顔が掻き消える。


「さあ、どうしたい? シノくん」


 体を折り曲げながら、姉様の顔を見上げる。姉様はその白い指で、僕の唇についた血を拭った。僕は苦しくて苦しくて、咄嗟にこう叫んでいた。


「捨てたい、捨ててもいい、こんな体要らない……!」


「――そう、心は決まったようだね」


 姉様はホッとしたような笑みを浮かべた。そうして腕を広げて、僕を招くのだった。


「おいで、シノくん。私の胎を貸してあげよう」


 誘われるがままに、僕は姉様の胸へと倒れ込んだ。姉様は僕を抱き止めた。すると僕はまるで体の輪郭が無くなったかのような心地がして、自然と目を閉じていた。


「そうして私の子として生まれなおすといい」


 姉様の体温が熱い。顔が徐々に溶け、姉様の胸に埋まっていく。骨から肉が緩やかにこそげ落ち、血に染まったシャツがずり落ちていく。どろどろになった僕が姉様の中に吸い込まれていく。残された骨は見る見るうちに縮んで赤子の形になり、姉様の胎へと収まった。


「よしよし、いいこだ」


 腹の外側を、姉様が撫でているのを感じる。気持ちいい。愛おしい。僕は体をぎゅっと丸め、羊水の中で逆さまに浮かんだ。


「うんと強く産みなおしてあげるからね」


 その言葉を最後に、僕の意識はふつりと途切れる。






 生温い水の中、姉様の鼓動を聞きながらずっと揺蕩っていた。僕の周りではごうごうと音を立てて血が巡っている。どろどろに溶けてしまったはずの己の中に、小さな心臓が生まれたのに気付いた。とくんとくんと脈打つそれを守りながら、僕はぐんぐんと己の体が膨らんでいくのを感じていた。


 そうしているうちに、ふと急に明るく開けた場所に出た。


 僕の下半身は相変わらず生温い水に浸っているようだったが、上半身はどうやら空気に晒されているようだ。目を開けるも視界はぼやけてしまってなかなか周囲の様子が分からない。声を出そうと息を吐いたら、空気の代わりに水がごぼりとあふれ出た。


「姉様……?」


 咳き込みながら姉様を探す。だんだん視界がはっきりしてくると、どうやら自分は大きなタライに座らされて誰かに洗われているようだと分かった。少し肌寒いのは全裸だからだろう。


 数度目をこすってみると、僕の体を洗っていたのは屋敷で働いているお手伝いさんたちだということが分かった。だけど姉様はどこにもいない。


「姉様」


 首をめぐらせながら、肺の辺りを探ってみる。だるさも息苦しさもない。体が軽い。意識を失う前に感じていた結核の症状はきれいになくなっていた。体も姉様の中に潜る前と同じ大きさだ。きっと姉様が僕のことを産みなおしてくれたのだろう。だけど姉様はどこに行ったのか。


 不安になってお手伝いさんたちを見てみると、彼女たちは僕についた水気を拭いながら微笑んできた。


 立ち上がらされ、体から滴る水を万遍なく拭き取られる。そうして数歩歩くうちに、いつの間にか僕はしっかりと服を着こんでいたのだった。


「さあ坊ちゃん。旦那様と奥様がお待ちですよ」


「待って、姉様はどこに」


 彼女たちに背を押されて、僕は部屋の外に連れ出される。僕は抵抗したが、生まれなおしたとはいえ子供のままの僕が大人の彼女たちの力に勝てるはずもなく、そのままある部屋の前に僕は連れてこられてしまった。


 ここは――僕の両親の部屋だ。


 お手伝いさんたちが両開きの扉を開く。僕は逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。


 だってこの向こうにいるのは僕の父母だ。僕を叱る父様と母様の代わりにやってきたあの女だ。


「シノ」


 父様が僕の名前を呼ぶ。無視し続けるわけにもいかないだろう。僕は俯いていた顔をそっと上げ――目を見開いた。


「姉様……!?」


 父様の隣にはセーラー服姿の姉様が当たり前のような顔で立っていたのだ。


 僕は混乱して、口を開け閉めした。


 どうして姉様が父様の隣に。だってそこは新しい母様の場所のはずで――


「何を言っているんだ、その人はお前の『母様』だろう」


 言葉を失う僕に、父様は当然といった様子で言った。


「母様がついさっき、お前を産んだんじゃないか」


 僕は父様の顔を凝視した。まるで姉様が最初から僕の母様だったかのような言い方だ。姉様はそんな僕に向かって両腕を広げた。


「そういうことだ。今日から私は君の姉様で、君の母様になったんだよ」


 まだ混乱は収まっていなかったけれど、一つだけはっきりしていることがあった。


 僕はもう、あの女――母様の代わりに来たあの女を『母様』と呼ばなくていいのだ。


「さあ、シノくん。私のことを母様と呼んでごらん」


「……かあさま」


 呆然と呟くと、姉様は包み込むように優しく微笑んだ。


「うん、私は君の母様だよ」


 僕は嬉しさのままに姉様に駆け寄った。そのままの勢いで姉様の腰に飛びつき、姉様にすり寄った。


「母様、母様……!」




 こうして僕は姉様の胎を借りて生まれなおしたのだ。

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