第五話

 父様と一緒になって庭を駆けまわる。四つ足の父様は僕よりもずっと足が速くて、鬼ごっこでも手加減されているのだということを僕は知っていた。


 だけど素直にそれを認めるのも癪なので、僕は前を走る父様に飛びかかって転ばせようとした。すると父様はちょうど体の向きを変えてしまったところで、僕は派手に転んでしまったのだった。


 膝小僧に血がにじむ。少し痛むがこれくらいなら大丈夫だ。ぱんぱんと土を払うと、膝の怪我はもうきれいに治っていた。


 僕は、何度も何度も姉様に産みなおしてもらっていた。姉様が強い子になるよう願ってくれているおかげか、生まれなおすごとに、僕の体はどんどん丈夫になっていくのだ。特に怪我がすぐ治る体になったのはとても便利だった。どれだけ無茶に遊びまわっても問題がないのだから当然だ。


 さんざ遊びまわってから僕は、庭のベンチに腰かけていた姉様のところへと向かった。姉様は泥だらけの僕を見ると、少しだけ困ったような顔をした後、ハンカチでそっと僕の顔を拭った。


「ねえ、シノくん」


 僕の頬に片手を添えながら、姉様は不意に泣くのをこらえているような顔をした。


「君は父様を殺したことを後悔していないかい?」


 僕はきょとんとして、首を傾げた。


「父様? それって誰のこと?」


 八房父様が僕の脇に顔を差し入れてくる。僕は父様の首に抱き着いた。


「父様ならほら、ここにいるじゃない」


 姉様は目を細めた。その様子はどこかホッとしているようにも見えた。


「そうだね、変なことを言ってごめんねシノくん」


 その時の僕は、姉様が何を言っているのか、全く分からなかった。


 だけどその日から僕の視界の端には妙な影が映り込むようになっていったのだ。




 ――シノ。


 名前を呼ばれた気がして振り返る。手の中のゴムまりにじっとりと汗がにじむ。庭の茂みの影から真っ黒な何かが手招きしているように見えた。


 ――シノ、シノ。


 聞き覚えのある声だ。懐かしいような気もする。でも誰の声かは分からない。僕は声の主を確認しようと茂みに歩み寄り――後ろから誰かに目を塞がれた。


「……姉様?」


「あれは見てはいけないよ」


 見上げると、姉様は夜の闇のような黒々とした瞳で僕を見ていた。


「いいね、シノくん?」


 そんな姉様の目を見ていると、あの影のことなどもうどうでもよくなって僕は自然と頷くのだった。


「うん、姉様」


 僕は茂みに背を向けて、姉様にすり寄った。


「それより母様。僕、また母様に産みなおしてもらいたい」


 姉様は穏やかな顔をして、僕の頭を撫でた。姉様の手が気持ちよくて、僕はえへへと笑う。


「いいよ。今よりずっと強い子に産んであげるからね」




 温かな羊水の中で揺蕩っていた。手足を丸めて、できるだけ姉様に負担をかけないように縮こまる。何十回も生まれなおしているのでもう慣れたものだ。


 姉様と繋がったへその緒が愛おしい。歩くたびに伝わってくる振動が愛おしい。僕は今、大好きな姉様と一心同体になっているのだ。そのことが強く感じられて、僕は作られたばかりの口で微笑んでみる。


 どれだけの間、そうしていただろうか。ぐんぐんと体が大きくなり、もうすぐ生まれなおすというところでそれは現れた。


 それはいつか見たあの黒い影だった。胎の中で揺蕩う僕は目を閉じているというのに、その影の姿ははっきりと僕の目に映っていた。


 ――シノ。


 手の平ほどの大きさのそれは僕の名前を呼んだ。


 何だこれ。何なんだ。


 それが何者なのかは分からなかったけれど、どうにもそれは不快なものように思えて、僕は身をよじってそれから逃れようとした。


 しかし黒い影は徐々に大きくなっていく。どうやら影は外側からこの胎に浸み込んできているようなのだ。


 影が僕の腕を掴む。声がはっきりと僕の脳に響いた。


 ――シノ、戻っておいで、シノ。


 急に胎の中が寒くなった。絶えず聞こえていた姉様の鼓動が聞こえなくなり、ごうごうと流れていた血の流れも止まっている。影は僕の中に入ってこようと迫ってくる。


 嫌だ、駄目だ、これに触っちゃ駄目だ。


 僕は逃げ出そうとして必死に暴れた。すると、めりめり、と何かを裂くような音がして、何か水のようなものが噴き出る音がして、明るくて寒い場所へと僕は放り出された。


 最初は目が見えなかった。髪の毛からぽたぽたと雫が垂れる。足元はぬるぬるだ。全身からはむせ返るような鉄錆の匂いがしている。


「父様、母様……?」


 やっと目が慣れてきて、それから周りを見回すと、僕の真下には姉様がいた。正確には、腹が破れて死んでいる姉様の体があった。姉様の体は妙に捻じ曲がってしまっていて、床に大きな血だまりを作っていた。


 一目見て僕は理解した。


 ――僕は、姉様の腹を裂いて出てきてしまったのだ。


「あ、ああ……」


 僕は上半身だけになってしまった姉様に縋り付こうとした。滑る床を踏みしめようとするたびに、足元でまだ生温かい血が跳ねる。


「うわあ、わあああ……」


 母様の頭を抱き上げる。軽くなってしまった母様の体は僕の力でも易々と抱え上げることができてしまった。泣きながら母様の顔を覗き込む。母様の体は全身が脱力してしまっていて、口や目もぼんやりと開いたままになっていた。僕は母様を強く抱きしめて、泣き叫んだ。


 声が枯れてしまうほどに泣き叫び、足元の血だまりが固まり始めた頃、僕は父様がすぐ隣に伏せているのにようやく気がついた。


「父様! 母様が、母様が……!」


 僕は震える足を必死に動かして、父様にしがみついた。しかし、父様はぴくりとも動かない。


「父様……?」


 それどころかいつも温かいはずの父様の体は冷え切っていて、父様の足元にも血だまりができていたのだ。


「な、なんで、なんで……」


 二人から後ずさり、勢い余って尻餅をついてしまう。


「旦那様が、犬に浚われたあなたがたを助けると言って、八房様を殺したのです。その銃弾が貫通してフセ様にも――」


 いつの間にかそこにいたお手伝いさんが僕にそう言った。お手伝いさんの顔は逆光で見えない。僕は混乱して、問い返した。


「旦那様? 誰、それ……僕の父様は八房だよ……?」


 お手伝いさんは僕を見た。不思議そうな顔で僕を見た。


「あなたの……本当のお父様のことですよ?」


 そう言った途端、僕の前からお手伝いさんは消えてしまった。目の前にあったはずの父様と母様の死体と一緒にだ。


 僕は歯をがちがち鳴らしながら、体を掻き抱いた。


 何だ、なんで、どうしてこんなことに。


 僕には何もかもが分からなかった。だけど父様と母様がもういないということだけは理解していた。


 よろめきながら立ち上がろうとして、僕は何か硬いものを蹴ったことに気がついた。見下ろすと僕の足元には一丁の拳銃が落ちていた。――きっと父様と母様を殺した銃だ。


 ――そうだ、そうすればいいじゃないか。


 僕は落ちている拳銃を拾い上げ、両手で頭に銃口を向けた。


 手が震える。歯が鳴るのが止められない。だけどもうこうするしかないんだ。


 僕はきつく目を閉じると、握りこむようにして引き金を引いた。


 乾いた音とともに、僕の体は床に倒れ込む。


 意識が飛んだ。――僕は死んだ。でもそれはほんの一瞬のことだった。


 僕の頭を貫通したはずの銃創はみるみるうちに内側から閉じていく。血も止まり、もう動かないはずだった手の指がぴくりと動き、そうしているうちに額の怪我はすぐに『治って』しまった。


 ――僕はもう死ねないのだ。


 そのことに気付いた僕はもう半狂乱になってしまって、足をもつれさせながら走り出した。扉にぶつかった。壁にぶつかった。裸足のまま外に飛び出して、二人の名前を呼びながら、泣きわめきながら、走りに走った。


 走って、走って、そうしているうちに、いつの間にか僕は、小さな墓の前に座り込んでいた。屋敷の裏庭の奥まった場所にある、あの墓だ。


 僕はもう涙も出なくなった目を見開いて、その墓を見つめた。


 これは誰の墓だっけ。どうしてだろう。思い出せない。思い出せないけど、そう、たしか大切な人のお墓だったはず。


 僕は墓の上に置いてある石に触れた。


 そうだ、これはきっとふたりの墓だ。姉様と八房の墓だ。だったら掘り返さなきゃ。そうしたらきっとまた二人に会えるんだ。


 石をどかし、僕は素手で墓の下を掘り始めた。土は固い。だけど掘らなければいけない。掘り出してあげないといけない。指先が裂け、爪が割れ、ついに爪が剥がれてしまっても僕は掘り続けた。


 十センチほど掘った頃、僕は白い何かを掘り当てた。周りの土を削っていき、僕はそれが何なのかを知った。


 それは真っ白な頭蓋の骨だった。


 最初、それが姉様なのかと思った。僕は骨を抱え上げて、髑髏のくぼんだ眼窩を見つめた。そうして不意に何かに気付いて、僕は膝から崩れ落ちた。


 ちがう。これは姉様じゃない。



「かあさま」


 ――そうだ、僕は、この人の胎から生まれたんだった。

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