第四話

 蝉がまるで潮騒のように鳴いている。日の光が首の後ろに当たっている。僕は裏庭にある墓の前に座り込んでいた。


 いつからそうしていたのかは分からない。どうしてここに来てしまったのかも分からない。ただ僕は毎日のようにその墓に通っていた気がして、だから今日もここにやって来ただけだった。


 いつも通り墓に手を合わせようとして、あれ、と僕は考え込んだ。


 ――この墓は、誰の墓なんだっけ。


 たしかこれは僕の母様の墓で、でも母様は――姉様は生きているし。


 ――誰だっけ、この人。


「シノくん」


 姉様が僕を呼んだ。僕の母様でもある姉様だ。振り返ると、姉様の隣には八房もいた。


 ――まあいいか。どうでもいいや。


「どうしたの、姉様、八房」


 駆け寄ると、姉様は優しく頭を撫でてくれた。


「八つ時だよ。庭で一緒にお菓子でも食べようじゃないか」


「やった、食べる!」


 下草をさくさくと踏んで、屋敷の方へと歩いていく。蝉の声が遠ざかっていく。


「八房にもクッキーを分けてあげようね」


「よかったな、八房。クッキーだぞ」


 八房は嬉しそうに尻尾を振りながら、バウと鳴いた。僕は八房のがっしりとした背中に手を置いて歩きながら、ふと姉様に尋ねた。


「ねえ、姉様。姉様は、姉様で母様だけど、僕はどっちで呼べばいい?」


 姉様は振り返り、立ち止まった。そのまなこにはいつも通り優しい光が宿っている。


「そうだね、好きな方で呼ぶといいよ、シノくん」


 少し屈んで、姉様は答える。さら、と垂れてきた姉様の長い黒髪に、僕はどきどきしてしまっていた。


「姉様がほしいときは姉様と、母様が欲しいときは母様と呼ぶといい」


「うん、姉様」


 僕は姉様の腰に抱き着いて、顔をすり寄せた。姉様は少し苦笑したようだった。


「もう、そんなに胎を恋しがって。さては弟が欲しいのかい?」


 そう問われて、僕は頭のどこかが冷える思いがした。僕は姉様の目を見て即答した。


「要らない」


 姉様の腰により強く抱きついて、僕は姉様に囁く。


「僕だけの母様でいて」


 姉様はそんな僕を抱きしめ返してくれた。僕はホッとして体の力を抜いた。


「いいさ、私は君だけの母様だ」




 クッキーを口に放り込む。外だからちょっと暑いけれど、日陰になっているからまだ涼しい方だ。母様は向かいでカップを傾けている。僕はクッキーの一枚を八房に投げてやった。


 お茶を楽しんでいる僕たちに、一人の男性が歩み寄ってきた。――父様だ。


「フセ」


「あなた」


 僕は父様を睨みつけた。僕たちの時間を邪魔するだなんて、父様であっても許されることじゃない。


 二言三言話すと、父様は屋敷の中へと戻っていった。僕は唇を尖らせた。


「姉様、どうして父様なんかと話すの」


 拗ねた顔を作る僕に、姉様は肩をすくめて答えた。


「夫婦だからね、仕方がないのさ」


 むー、と僕は唸る。八房も不満そうに僕の太ももに顎を乗せていた。




 その夜、僕は部屋を抜け出して、父様と母様の寝室へと向かっていた。姉様が父様に取られてしまうのが許せなくて、いっそ二人の間に無理やりにでも割り込んで邪魔をしてやろうと思ったのだ。


 いつもは絶対に入ってはいけないと言われて鍵がかかっているはずのその部屋は、今日に限っては何故か鍵がかかっていなかった。中からは何か物音が聞こえる。僕は扉の隙間から部屋の中をそっと覗きこんで――咄嗟に目をそむけた。


 何だ、何をしているんだあいつは。


 シーツが擦れる音が聞こえる。姉様と父様の声が聞こえる。ベッドの軋むような音が、か細い悲鳴のようなものが聞こえる。僕は扉を背にへたり込んで、両手で耳を塞いだ。


 あの男、あの男め! 姉様に汚い手で触れるな! 姉様はお前のものじゃない!


 怒鳴り込みたいのをぐっとこらえて、僕は自分の部屋へと逃げ戻った。部屋では八房が起き上がって、不思議そうに僕を見ていた。僕は八房に抱きついた。


「八房、八房……」


 怒りと悲しみで体が震える。八房は僕の感情が分かっているのか、静かにされるがままになっていた。


 荒げていた呼吸が徐々に落ち着いてきて、僕は改めて八房の顔を正面から見た。


 八房は大きな犬だ。気性は穏やかだけど、もし誰かに噛みついたのなら、きっと人を殺せてしまうほどの大きな犬だ。


 僕は不意に名案のようなものが浮かんで、八房に語りかけた。


「八房。お前、父様を殺せないか?」


 八房は無言のまま僕の目をじっと見た。


「殺せるんだな」


 バウと八房は小さく鳴いた。それだけで僕たちは通じ合えた。僕は八房の前足を持ち上げて乞うた。


「どうしたら殺してくれる? 何か欲しいものはあるか?」


 八房はきょろっと扉の方を向くと、また僕の方を向いて尻尾を一度振った。


「何? お前も姉様がほしいの?」


 バウ、とまた八房は鳴いた。どうやら肯定のようだ。


 僕は少しだけ考えて、答えた。


「いいよ、お前にも姉様をやるよ。はんぶんこだ」


 八房は僕の味方だ。辛い時もずっと僕の味方でいてくれた。こいつとなら、姉様を分け合ってもいい。そう思えた。僕は八房に額を寄せた。


「その代わり、あの男には絶対に姉様はやるなよ。姉様は僕たちだけのものだ」





 それから父様は、肺結核を患って、苦しみ抜いてあっという間に死んでしまった。


 それが八房の仕業だったのかは分からない。だけどどうにも八房が誇らしげにしているので、きっとそういうことなのだろう。


 慌ただしさとほんの少しの悲しみをもって葬式が済んだあと、僕は新しい父様に引き合わされることになった。


「さあ坊ちゃん。旦那様と奥様がお待ちですよ」


 いつかにも聞いた言葉をもって、お手伝いさんたちが僕を父様と母様の部屋に連れていく。僕は俯きながら、自分の浅はかさを恨んでいた。


 父様を殺したところで新しい父様が来るのなら意味がないじゃないか。どうしてこんな簡単なことに気付かなかったんだ。


 扉が開く。僕は唇を噛みながら、顔を上げた。


 部屋の中には二つの影があった。一人は黒色のセーラー服姿の姉様。もう一人は――


「やつふさ……」


 ぶちのついた大きな犬――八房が、姉様の隣に置いてある椅子にお座りの姿勢で座っていたのだ。


「約束は違えるものではないよ、君」


 混乱を極める僕に、姉様はいつも通りの笑顔で微笑んだ。


「この身は約束通り、八房のものとなったのさ」


 姉様は八房に、愛おしそうに口付けした。そうしてから言葉を失っている僕に、姉様は右手を伸ばしたのだ。


「つまり――君は今日から、犬畜生の息子ということだ」


 背筋にぞくぞくっと何かが走り抜ける思いがした。口元が緩み、目尻に涙が溜まる。


「順序はあべこべになってしまったがね、まあいいさ。些細なことだ」


 僕は姉様に駆け寄った。姉様はいつも通り僕を抱き止めた。八房も椅子から飛び降りて、僕の隣に寄り添った。


「いいこ、いいこ。いつでも好きな時に産みなおしてあげようね」


 僕は姉様の腹に、顔を埋めた。


「大好きです、父様、母様」

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