第二話
姉様の第一印象は最悪だった。
突然現れて、自分を「姉様」と呼べだなんて。実の姉でもないくせに馴れ馴れしいにも程があるだろう。
だけど不思議と僕は彼女に惹かれていくのだった。
「やあ、シノくん。今日は何をしているのだい?」
長らく続いていた咳のせいで学校を休んでいた僕に、姉様はよくちょっかいをかけにきていた。
「読書。見てわかるでしょ、姉様」
突き放すようにそう言うと、姉様はひょいっと肩をすくめた。
「つれないね、ほらここに姉様がいるんだ。もっと私と遊んでみたりしないのかい?」
そんな姉様の言葉に、部屋に閉じ込められて退屈だった僕は目を輝かせた。
「遊んでくれるの?」
「おうともさ。何をして遊ぼうか。何でも好きなことをしようじゃないか」
僕は本をぱたんと閉じて、偉そうに胸を張る姉様に詰め寄る。
「じゃあ外で……!」
「それは駄目だ。咳風邪を引いているのだろう? 外で遊ばせるわけにはいかないね」
にべもなく断られて、僕は唇を尖らせた。咳風邪だと部屋に閉じ込められてから二週間。いい加減部屋で時間を潰すのも限界だというのに、酷い話だ。
「それじゃあ姉様とお話しようじゃないか。これでも話題は豊富なつもりだよ」
無難なところで話をまとめ、姉様は僕の向かいの椅子に座った。そうして自分が話をすると言ったくせに、特に話をすることもなく再び本を広げた僕をにこにこと見ているのだった。
そんな姉様の視線に耐えかねて、僕は目だけをちらりと姉様に向けて口を開いた。
「どうしてそんなに僕に構うの」
「おや、そんなの決まっているだろう」
姉様は手を伸ばして、僕の額をつんとつついた。
「私が君を愛しているからさ」
「愛っ……!?」
僕は一気に真っ赤になった。そんな僕を見て、姉様はひどく楽しそうに笑うのだ。
「姉が弟を愛して何か悪いことでもあるのかい?」
なんだそういうことか。僕は息を吐いた。
僕は動揺を誤魔化すように本に目を戻した。姉様は相変わらず楽しそうに僕を見つめている。僕はもう一度姉様の顔を窺った。
つくづくこの人は分からない。僕につきまとって、行く先々に現れて。その上、「愛している」だなんて。
だから僕は姉様を一度試してみようと思ったのだ。いや正確には、僕は彼女を試して、彼女に縋ってみたくなったのだ。
「姉様は」
「うん」
「姉様は、父様や母様のことどう思ってるの」
それは、ずっと尋ねたくて尋ねられずにいた問いだった。答え如何によっては、僕はこの人を敵に回さなければいけないと知っていたからだ。
しばしの沈黙の後、吐き捨てるように姉様は答えた。
「身勝手な人たちだね。自分たちの都合ばかりで子供の都合なんて全く考えていない」
その答えに僕は、それはもうひどく嬉しくなってしまった。この人は僕とおんなじだ。僕の味方になってくれる人だ。僕は嬉しくて嬉しくて、うっすらと涙ぐんでしまっていた。
「本当?」
「ああ」
「本当にそう思ってる?」
「思っているとも」
こらえていた涙が一気にあふれ出した。自然と口が動いていた。
「僕は母様が好きだったんだ」
「うん」
「父様が連れてきたあの人は母様じゃない。あの人を『母様』だとは思いたくない」
「分かるよ、シノくんは寂しいんだね」
姉様は僕に歩み寄ると、僕の前に膝をついて、僕の涙を拭ってくれた。その感情を肯定してくれたのは姉様が初めてだった。
「うん、きっと僕は寂しいんだ」
俯きながら、僕は言う。その肯定だけで、僕が姉様に心を開くのには十分すぎる力があった。
毛むくじゃらの獣が器用に前足で扉を開けて部屋に入ってきたのはその時だ。
「八房」
名前を呼んでやると八房は何故か僕のところではなく、僕の前に膝をついている姉様に飛びかかった。
「こら、八房!」
慌てて引きはがそうとするも、八房は勢い余って床に倒れてしまった姉様を組み伏せたまま尻尾を振るばかりだ。姉様は笑って、八房の頭を撫でた。
「おやおや、そんなに盛って。ややでも孕ませたいのかい?」
「やや?」
首輪を引っ張って、何とか姉様の上から八房をどかしながら僕は首を傾げる。
「赤ん坊のことだよ。赤ん坊が女の胎(はら)に入るのを孕むというのさ」
何を言われているのか僕には全く分からなかった。当時の僕はそういうことに対して全くもって無知だったのだ。
「おや、シノくんは子供がどうやって生まれてくるか知らないのか」
姉様は気だるげな動作で起き上がり、そのままカーペットの敷かれた床に座り込んだ。
「子供はね、女の胎に宿って、そこで成長して生まれてくるのさ」
そう言うと、姉様は自分の腹の少し下辺りを、円を描くように優しく撫でてみせた。
「中で赤ん坊は暴れてね、内側から蹴ったりして大変だそうだよ」
「胎……」
「そう、ここだよ。中の音を聞いてみるかい?」
姉様は僕の手を引いて、自分の腹へと僕を引き寄せた。僕はされるがままに姉様の膝の上に頭を乗せ、姉様の腹に耳をつけてみた。
しかし耳を塞いだときに聞こえるあの「ざあざあ」という音がするばかりで、特別な音など何も聞こえない。
「音なんてしないよ」
「そりゃあ中に子供はいないからね」
じゃあなんで腹の音なんて聞かせたのか。
それを問おうと視線を姉様に向けたが、姉様は優しく微笑んだまま、僕の頬を撫でるばかりだ。
姉様は膝枕の姿勢で横になる僕を見下ろして囁いた。
「でも温かいだろう?」
その通りだった。姉様の腹はとても温かくて、触れているととても落ち着いた。――ずっとここに触れていたいと思うほどに。
「……うん」
僕は小さく頷き、姉様の腹にすり寄った。
温かい。気持ちいい。ずっとこうして微睡んでいたい。
しばらくの間そうしていた後、ある可能性に思い至って、僕はぽつりと呟いた。
「……姉様も」
「うん?」
「姉様もいつか、誰かの子供を産むの?」
姉様は一瞬考えるような顔をして、それからどこか遠くを見て微笑んだ。
「産むのだろうね、きっと産むのだろう」
僕はカッと頭に血が上るのを感じた。だけどもそれが何なのかはその時の僕には分からず、ただ姉様の膝の上で体を縮めることしかできなかった。
僕が何の前触れもなく血を吐いて倒れたのは、その数日後だった。
慌てて駆けつけてきた医者からは――肺結核だと告げられた。
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