ゲート

ソラノリル

ゲート

 4時間だけ、家に帰った。終電と、始発の、あいだだけ。

 家に帰れるだけましだと、頭の中で、誰かが言う。姿の見えない、この国の「空気」が、僕に言う。

 軋む車輪が、僕をオフィスに輸送していく。うつむいていた視線を上げれば、車窓の向こうに、ゲートが見える。びた鉄のゲート。そこに書かれた『WORK OR DIE』の文字を眺める。ずっと昔、海を越えた遠くの国に築かれた収容所を、僕は思い出す。かの収容所にもゲートがあって、それをつくったのは、ゲートの内側の人間だったらしい。僕は見たことがないけれど、そのゲートの文字は、ひとつだけ逆に書かれているのだという。作らされた収容者の、せめてもの抵抗だったらしいと聞いた。でも、この国に立つゲートを作った人間は、『OR』を『AND』に変える抵抗もできなかったのだ。この国のゲートの中には、銃を持った兵隊はいない。この国で働く人は、兵隊に殺されるのではなく、この国の空気に殺される。心が窒息して、呼吸ができなくなって、死んでいく。

 この国には2種類の人間しかいない。『働かなければならない人間』と、『働かなくても良い人間』だ。ゲートに書かれた『WORK OR DIE』の文字を、僕は最初、『働かない者に生きる資格はない』という意味だと思っていた。けれど、それは僕の思い違いだったと、気づいたのは、いつだっただろう。正しくは、『働いて苦しむか、死んで楽になるか』という意味だ。今、僕は、そう解釈している。働く以外の生き方を、人生を、僕は許されていないから。


――なんで、この国は、安らかに死なせてくれないんだろうな。


 かつての同僚が呟いた言葉を思い出す。


――死ぬときですら、楽をするな、なんて。


 そう言って力なく笑った同僚は、昨日の残業中に、オフィスの窓から飛び降りて死んだ。自殺者の統計表に数えられた、匿名の数字のひとつになった。

 この国では、死ぬまで、楽になることを許されない。毎年、何万人も自殺しているのに、安楽死は認められていないのだ。僕たちは、さいごまで苦しんで死ななければならない。認めたら自殺者が増えるとでも思っているのだろうか。もし、そうだとしたら、ほんとうに救いようのないロジックだ。

 一年で数千人が病死するウイルスが流行したら大慌てで防ごうとするのに、一年で数万人が自殺する空気が蔓延まんえんしていても誰も動じない。僕たちは既に、治療の見込みがないほど、この国の空気に蝕まれてしまっているのかもしれない。

 この国で働く人間のほとんどが、幸せになることを諦めているのかもしれない。幸せになる未来を望めないから、他人が幸せになることを許せないのかもしれない。

 俺の給料を上げろ、ではなく、あいつの給料を下げろ、と言う。

 俺の休みを増やせ、ではなく、あいつの休みを減らせ、と言う。

 みんなで落下し、みんなで絶望し、みんなで不幸になろうとする。

 そうして、みんな、死んでいく。滅んでいく。きっと、そう遠くないうちに。


――ほんとうは、死にたくなんかないよ。生きていたいよ。でも、生きることは働くことで、働くことは苦しむことなんだ。苦しみから逃れるには死ぬしかない。命と引き換えにしなければ、解放されないんだよ。


 先にいくよ、と彼は言った。いくよ、じゃなくて、出るよ、じゃないかと、僕は、窓の向こうに落ちていく彼の背中を見送りながら思った。命を通行証にして出てゆくのだから。ゲートの向こう側へ。


(……一緒にゆこうって、言ってほしかったな)


 電車が駅へと到着する。オフィスの扉を、僕はひらく。

 この国の空気を吸って、僕は今日も働く。働いていく。

 『WORK OR DIE』のゲートの内側で。


 いつまで、息がつづくだろう。


「おはようございます」


 死んだ同僚の机には、彼を押し潰した仕事が、僕の机に雪崩れている。

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ゲート ソラノリル @frosty_wing

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