ぼくらの海は、ゼロを越えない。
ソラノリル
ぼくらの海は、ゼロを越えない。
墨色の海から、廃墟の楼閣が、仰向けに浮かんだ水死体の肋骨のように、白く、しろく、
彼が船のエンジンを切った。碇を下ろすと、船に打ち寄せる波の音だけが、ぼくらの小さな空間を満たす。誰もいない、ぼくと彼だけの海域だ。
ぼくはドライスーツを身につける。背中の防水ファスナを、彼が手際よく閉じてくれる。おとな用の潜水服は、ぼくにはまだ、少し大きい。
「それじゃ」
ぼくは右手を上げる。彼は少し笑って、ぼくの掲げた掌に、自分のそれを打ち合わせる。ぼくより少しちいさな、こどものてのひら。一緒に潜っていたときの習慣を、ぼくらは守りつづけている。けれど今、海の中にゆけるのは、ぼくだけだ。黒い海に飛び込むぼくを見送るのは、白く濁った翠の瞳。かすかに笑みのかたちにひらいた唇は、ぼくの名前を乗せたけれど、その細い喉は、もう声を奏でられない。おとなの喉に変わる前に、この海が、彼の声を殺してしまった。
黒い、くろい、毒の海に、ぼくは潜ってゆく。海底に沈んだ戦前の遺産の回収が、ぼくらの目的だ。過去の大戦で使われた兵器の残骸は、今では貴重な金属資源の塊だ。硝子の破片ひとつでも、街の換金所にもっていけば良い値段がつく。地上には、もう資源がほとんどないから。旧時代の泥を漁って、人を殺したものの欠片を糧に、ぼくらは生きている。
戦争の原因は、よく知らない。海の
――昔、海は、あらゆる生命のははおやと
彼の言葉を思い出す。ぼくにとって、この海は死の象徴だ。
船とぼくを繋ぐロープが、ぴんと張って、これ以上潜ることをぼくに禁じた。崩れた建物の残骸が、まだずっと下まで続いている。ヘッドライトを頼りに、空洞になった窓から中に入った。換金できそうなものを、背中の
(外れ、かな……一旦戻って、船を少し移動させたほうがいいかもしれない)
きびすを返して、水を蹴る。ロープを頼りに、彼の待つ船に向かって浮上する。黒い水面を照らすのは、スモッグにくすんだ鈍色の光。それでも、闇に沈んだ海の中から見上げれば、それは
(……――)
彼の名前を、胸の内で呼ぶ。都合の良い
彼から声と
『自業自得だ。おまえが気にすることはないよ』
彼は勝気に笑った。彼の背は、もう伸びない。彼の体は、おとなにはならない。
『感謝してるよ。おまえが引き上げてくれなかったら、おれは、あのまま溺死していたんだから』
やめろよ、と思った。そんなふうに、おとなびるなよ、と。
(だって、あのとき、ぼくは、)
見捨てたのだ、彼を。
(息がつづかなくなったのを言い訳に……ぼくは、きみを助け出すのを途中で放棄して、一度、浮上したんだ。ひとりで。ひとりだけで)
生きようと、したんだ。
船に上がると、彼は険しい顔をして、
「少し荒れそうだ……」
一旦、港に戻らないと。
見上げた空は、いつのまにか鉛色の雲が重く垂れこめている。この世界に降る雨は、海ほどではないけれど、有毒だ。長く浴びれば、皮膚が
ドライスーツを脱いで、操縦室に入った。彼の小さな手が、惑うことなくエンジンをかけ、ぼくに
ふと、彼の傍らに、一冊の本を見つけた。先日、ぼくが引き上げたトランクの中に入っていたものだ。換金屋に持っていっても値はつかないだろうと言いながら、彼はそれを、一ページずつ丁寧に真水で洗い、乾かしていた。掌に乗るくらいに小さく、薄い本だった。大部分は、ぼくらの海のように暗く、けれど、上のほうは褪せた青――元々は、きっと、鮮やかに煌めく紺碧だったのだろうと思う――酷く傷んでしまっていたけれど、なんとか文字は拾い上げることができた。今はもう使われていない言語だ。ぼくには、読めない。
「きみは、読めたの?」
ぼくは訊いた。彼は短く頷いて、ぼくの掌にひとさし指を乗せる。綴られたタイトルは、耳慣れない言葉だった。神話のひとつだと、彼は教えてくれた。
『文字が大きめに書かれていたから助かった。おかげで、おれの今の視力でも読めた』
彼の幼い指が――おとなになることのない指先が、ぼくの手に言葉を伝えていく。
「どんな話だったの?」
『世界に、まだ神様がいた。海がまだ生きていて、新しい命を生めていた頃の、物語だった』
複数の作家が綴った物語を集めたものだと、彼は続けた。書き手の数だけ海があって、命があった、と。
「……そう、なんだ」
じわり、と、彼の指先の温度が、ぼくの乾いた掌に滲む。表紙の色は、まだ紺碧の水面をもっていた頃の海だろうか。
「少し、寂しいな」
『寂しい?』
「ひとは、海から生まれたのに、もう二度と海にかえれないから」
戻れないから。
エンジンの音が、ぼくらを包んでいく。窓に、ぽつ、と、水のつぶてが散りはじめた。次いで、遠雷が、びりびりと空気を波立たせていく。雨音がぼくの声を掻き消すのももうすぐだろう。
「ねえ……」
そっと、雫を落とすように、ぼくは呟いた。なに? と彼は小首をかしげて、先を促す。
「海で死んだら、ぼくらも、神話になるのかな」
いつか、ずっと遠い未来で。
『ばーか』
彼の指が、ぱっとひらいて、ぺしんとぼくの掌を打った。そのまま手を握って、たしかめるように軽く振る。ぼくより低い体温。それでも、ちゃんと、あたたかい。
『死ぬことは、楽なことじゃないし、きれいなものでもないだろ』
海の底で、息がつづかないのは、つらかっただろ。
生きようとしただろ。
生かそうとしただろ。
死ぬっていうのは、さいごまで、生きたってことだろ。
『ははおやの
たとえ、次の命を生めなくても。
「……そう、だね」
きみより先には死なないよ。
ぼくは、ちいさく笑ってみせた。おとなに向かうにつれて上手くなった作り笑顔は、彼の純粋さを
(ぼくの体は、おとなになる)
体も、心も、変わってゆく。
(ぼくは、もうきみを捨てられない)
ひとりで水面に上がることは、もうできない。
(かえれない……たしかに、そうだ)
ぼくは夢想する。
彼の呼吸が止んだなら、ぼくは誰もいない海域に、静かに船を出すだろう。
神様のいない海の中に、なにも産まない体をおろして。
潜って。
沈んで。
その果てで。
(命の消えた海の底で、ぼくは、きみを抱くだろう)
ぼくらの海は、ゼロを越えない。 ソラノリル @frosty_wing
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