ぼくらの海は、ゼロを越えない。

ソラノリル

ぼくらの海は、ゼロを越えない。

 墨色の海から、廃墟の楼閣が、仰向けに浮かんだ水死体の肋骨のように、白く、しろく、まばらに突き出している。吹き抜ける潮風は穏やかだけれど、深く吸いこめば喉を焼く。きつい刺激臭だ。生まれたときから満ちている、嗅ぎ慣れた世界の臭い。過去の戦争で降り注いだ化学兵器の残滓だ。この海にはもう、魚はいない。

 彼が船のエンジンを切った。碇を下ろすと、船に打ち寄せる波の音だけが、ぼくらの小さな空間を満たす。誰もいない、ぼくと彼だけの海域だ。

 ぼくはドライスーツを身につける。背中の防水ファスナを、彼が手際よく閉じてくれる。おとな用の潜水服は、ぼくにはまだ、少し大きい。

「それじゃ」

 ぼくは右手を上げる。彼は少し笑って、ぼくの掲げた掌に、自分のそれを打ち合わせる。ぼくより少しちいさな、こどものてのひら。一緒に潜っていたときの習慣を、ぼくらは守りつづけている。けれど今、海の中にゆけるのは、ぼくだけだ。黒い海に飛び込むぼくを見送るのは、白く濁った翠の瞳。かすかに笑みのかたちにひらいた唇は、ぼくの名前を乗せたけれど、その細い喉は、もう声を奏でられない。おとなの喉に変わる前に、この海が、彼の声を殺してしまった。

 黒い、くろい、毒の海に、ぼくは潜ってゆく。海底に沈んだ戦前の遺産の回収が、ぼくらの目的だ。過去の大戦で使われた兵器の残骸は、今では貴重な金属資源の塊だ。硝子の破片ひとつでも、街の換金所にもっていけば良い値段がつく。地上には、もう資源がほとんどないから。旧時代の泥を漁って、人を殺したものの欠片を糧に、ぼくらは生きている。

 戦争の原因は、よく知らない。海のかさが増えて、陸が減った。汚染が進み、食べ物も充分じゃなくなった。それが原因なのか、結果なのかも、分からないまま、ただ事実として、今ここに世界は、死体のように横たわっている。腐って、朽ちて、滅んでいく。ずっと昔、死体は埋めて、土にかえしていたというけれど、今は違う。死体はおもりをつけて、沖に沈める。海は今や、巨大なひつぎだ。


――昔、海は、あらゆる生命のははおやとうたわれていたんだって。


 彼の言葉を思い出す。ぼくにとって、この海は死の象徴だ。

 船とぼくを繋ぐロープが、ぴんと張って、これ以上潜ることをぼくに禁じた。崩れた建物の残骸が、まだずっと下まで続いている。ヘッドライトを頼りに、空洞になった窓から中に入った。換金できそうなものを、背中のかごに入れていく。錆びついた銃弾、折れたサーベル……装飾品のひとつでも見つかれば幸運なのだけれど。

(外れ、かな……一旦戻って、船を少し移動させたほうがいいかもしれない)

 きびすを返して、水を蹴る。ロープを頼りに、彼の待つ船に向かって浮上する。黒い水面を照らすのは、スモッグにくすんだ鈍色の光。それでも、闇に沈んだ海の中から見上げれば、それはまばゆく、白くて――

(……――)

 彼の名前を、胸の内で呼ぶ。都合の良い懺悔ざんげだ、と思う。この海の底に断罪なんてあるはずもないのに。

 彼から声とを奪ったのは、この海だ。2年前の、潜水中の事故だった。崩れてきた瓦礫がれきが、彼の小さな体を捕らえた。助け出されるまでのあいだに、彼はこの海の水を、相当量、飲んでしまった。吐かせたけれど、間に合わなくて、体にとけた海の毒は、ゆっくりと彼を蝕みつづけている。

『自業自得だ。おまえが気にすることはないよ』

 彼は勝気に笑った。彼の背は、もう伸びない。彼の体は、おとなにはならない。

『感謝してるよ。おまえが引き上げてくれなかったら、おれは、あのまま溺死していたんだから』

 やめろよ、と思った。そんなふうに、おとなびるなよ、と。

(だって、あのとき、ぼくは、)

 見捨てたのだ、彼を。

(息がつづかなくなったのを言い訳に……ぼくは、きみを助け出すのを途中で放棄して、一度、浮上したんだ。ひとりで。ひとりだけで)

 生きようと、したんだ。


 船に上がると、彼は険しい顔をして、おもむろいかりを上げはじめた。

「少し荒れそうだ……」

 一旦、港に戻らないと。

 見上げた空は、いつのまにか鉛色の雲が重く垂れこめている。この世界に降る雨は、海ほどではないけれど、有毒だ。長く浴びれば、皮膚がただれてしまう。

 ドライスーツを脱いで、操縦室に入った。彼の小さな手が、惑うことなくエンジンをかけ、ぼくにかじを譲る。

 ふと、彼の傍らに、一冊の本を見つけた。先日、ぼくが引き上げたトランクの中に入っていたものだ。換金屋に持っていっても値はつかないだろうと言いながら、彼はそれを、一ページずつ丁寧に真水で洗い、乾かしていた。掌に乗るくらいに小さく、薄い本だった。大部分は、ぼくらの海のように暗く、けれど、上のほうは褪せた青――元々は、きっと、鮮やかに煌めく紺碧だったのだろうと思う――酷く傷んでしまっていたけれど、なんとか文字は拾い上げることができた。今はもう使われていない言語だ。ぼくには、読めない。

「きみは、読めたの?」

 ぼくは訊いた。彼は短く頷いて、ぼくの掌にひとさし指を乗せる。綴られたタイトルは、耳慣れない言葉だった。神話のひとつだと、彼は教えてくれた。

『文字が大きめに書かれていたから助かった。おかげで、おれの今の視力でも読めた』

 彼の幼い指が――おとなになることのない指先が、ぼくの手に言葉を伝えていく。

「どんな話だったの?」

『世界に、まだ神様がいた。海がまだ生きていて、新しい命を生めていた頃の、物語だった』

 複数の作家が綴った物語を集めたものだと、彼は続けた。書き手の数だけ海があって、命があった、と。

「……そう、なんだ」

 じわり、と、彼の指先の温度が、ぼくの乾いた掌に滲む。表紙の色は、まだ紺碧の水面をもっていた頃の海だろうか。

「少し、寂しいな」

『寂しい?』

「ひとは、海から生まれたのに、もう二度と海にかえれないから」

 戻れないから。

 エンジンの音が、ぼくらを包んでいく。窓に、ぽつ、と、水のつぶてが散りはじめた。次いで、遠雷が、びりびりと空気を波立たせていく。雨音がぼくの声を掻き消すのももうすぐだろう。

「ねえ……」

 そっと、雫を落とすように、ぼくは呟いた。なに? と彼は小首をかしげて、先を促す。

「海で死んだら、ぼくらも、神話になるのかな」

 いつか、ずっと遠い未来で。

『ばーか』

 彼の指が、ぱっとひらいて、ぺしんとぼくの掌を打った。そのまま手を握って、たしかめるように軽く振る。ぼくより低い体温。それでも、ちゃんと、あたたかい。

『死ぬことは、楽なことじゃないし、きれいなものでもないだろ』

 海の底で、息がつづかないのは、つらかっただろ。

 生きようとしただろ。

 生かそうとしただろ。

 死ぬっていうのは、さいごまで、生きたってことだろ。

『ははおやのはらにかえれないのと一緒だ。海から出たおれたちは、海の中ではもう呼吸できない。潜ることだって、おもりなしじゃ難しい。この体は海にはじかれる。どうしたって浮いてしまう。おれたちは陸で息をして、生きていくんだよ』

 たとえ、次の命を生めなくても。

「……そう、だね」

 きみより先には死なないよ。

 ぼくは、ちいさく笑ってみせた。おとなに向かうにつれて上手くなった作り笑顔は、彼の純粋さを容易たやすあざむくことができた。ぼくの偽りの笑顔に、彼は素直に安堵の微笑を浮かべた。こどものままの、時を止めたほほえみだった。幼い美しさを越えることなく、彼の命は折り返す。かすみのかかった彼の瞳に、ぼくの姿はおぼろげにしか映らない。それでよかった。それがよかった。

(ぼくの体は、おとなになる)

 体も、心も、変わってゆく。

(ぼくは、もうきみを捨てられない)

 ひとりで水面に上がることは、もうできない。

(かえれない……たしかに、そうだ)

 ぼくは夢想する。

 彼の呼吸が止んだなら、ぼくは誰もいない海域に、静かに船を出すだろう。

 おもりを投げて。

 神様のいない海の中に、なにも産まない体をおろして。

 潜って。

 沈んで。

 その果てで。


(命の消えた海の底で、ぼくは、きみを抱くだろう)

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ぼくらの海は、ゼロを越えない。 ソラノリル @frosty_wing

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