亡霊が君を愛すなら
育波
亡霊が君を愛すなら
――どうして
途方もない遣る瀬無さが、どっと胸に押し寄せる。
ぐしゃりと、手紙を握り潰す。胸の中で燻る、怒りに似た激情をぶつける対象がどこにもないおかげで、手紙を握った腕が小刻みに震えた。
どうして、と声にならない言葉を紡ぐ。
絶望だ。彼女を失った今、この胸に残るのは、それただ一つ。
虚ろになった思考回路でも変わらないことがある。頬につうと流れた暖かいものには気付かないふりをして、ぽつりと呟いた。
「君がいない世界で、どうやって生きていけばいい……?」
彼女は自分の世界の中心。彼女は自分の世界の要。誰より何より、彼女が大切だった。
* * *
ミュージカル『オペラ座の怪人』の、終日。有名なキャストが揃い、さらに有名な演目のラストの公演ともなれば人が集まるのも頷ける。人混みの中を縫うようにしてエントランスをくぐる。
着慣れないスーツを身に着け、歩き慣れない舞台裏の廊下を歩けば、好奇の目がこちらに向けられるのが分かった。自分に似つかわしくない場所であることは理解しているのだ。自分の身体に穴が開くような錯覚すらしてくる。
真向かいから、着飾った若い女性の集団が歩いてくるのが見えた。おそらく若手の舞台女優だろう。気まずさにさっと顔を背けるが、元々長く癖のついた前髪は視界を闇で覆ってくれるものの、全てを隠しはしない。
「ねぇ、あの人って……」
「そんなに見たら駄目よ!」
「馬鹿ね、前も言ったでしょう」
「彼女の専属スタイリストっていう――」
「ああ……有名な方をお呼びすればいいのに、どうしてあんな人を呼ぶのかしら」
本人たちは隠しているつもりなのだろうが、かなりはっきり聞き取れる。こう言われるのは初めてではない分耐性もついてきたが、やはり気持ちは重くなる。不快になり盛大な舌打ちをしてみても気分は晴れなかった。
そうだ、自分は彼女の頼みでなければこんな所には来ない。望んで来たわけではないし、自分がとやかく言われる筋合いはない。
目指していた楽屋を見つけ、ノックもせず無遠慮に開ける。
「ラグ! 来てくれたのね」
この楽屋の主人である彼女は急な来訪に目を丸くした後、嬉しそうに破顔する。昔から変わらないその様子に、荒れていた心は少し落ち着きを取り戻す。僕は大仰な溜息を吐いて、愚痴を零すように口を開いた。
「……君が僕を呼んだんだろう、ミーシャ」
しがないスタイリストである自分――ラグ=ストラストがどうしてこんな大舞台のメイクとして来ているのかと問われれば、全ての理由は彼女――舞台女優・ミーシャ=クリスティアにある。
幼馴染であるミーシャは僕の一つ上で、若手にして売れている大物舞台女優である。高い演技力と澄んだ高音の伸びは、聞いていて気持ちがいい。それに加え、万人を惹きつける美貌から生み出される笑顔は何より魅力的で、ファンの層を限定しない人気がある。
「君は相変わらず人気者だな」
先程の女優達の会話を思い出して感嘆するように呟けば、ミーシャは柔らかく微笑む。
「嬉しいことだわ、それもラグのおかげね」
大輪の華のような微笑みに、ぐっと胸が締め付けられる思いがする。この笑顔を向けられる度に馬鹿みたいに胸を高鳴らせているのが悟られないよう、少し間を開けて答えた。
「……素材がいいからじゃないか? 僕ができるのは些細なことだけだ」
「珍しい、褒めてくれるなんて」
「気分だよ」
ミーシャを鏡の前の椅子に座らせて、ブラシで髪を梳く。自分で持ってきたメイクボックスを開き、準備を進めつつ尋ねる。
「僕が選んだドレスはどう?」
「いいわ、役に合っていてとても素敵」
彼女は今、純白のドレスを身に纏っていた。ノースリーブの肩口からは細い腕が伸び、腰は細くくびれている。足元にはフリルがふんだんにあしらわれ、動いた時にちらと覗く脚が魅惑的だった。
「メイクはどうするの?」
どこか嬉しそうな響きの質問に、こちらまで楽しくなってくる。
「ドレスの色が大人しいから、赤で少し派手に仕上げようか」
ミーシャの肌の白さを考えれば、鮮やかな赤は白に映えて美しいだろう。
梳いたブロンドの髪の毛に白い花を編み込みながら答えれば、ミーシャが言い出しづらそうに口を開く。
「ねえラグ、今日はとびきり綺麗にしてね」
一瞬何を言われたのか意味を咀嚼し切れず、手を止めて首を傾げた。鏡越しにミーシャの表情を窺うが、よく分からない。
今までのメイクでは不満だったのだろうかと不安で顔を曇らせれば、ミーシャはそれを悟ったのか違うわと首を横に振る。
「……いつもそうしてるつもりなんだけど、どうして今回だけ?」
疑心暗鬼の声音で尋ねると、ミーシャは鈴のような澄んだ声でころころと笑う。
「ふふ、秘密」
「へえ……君が僕に隠し事か」
愚痴のような文句を返せば、ミーシャは目を丸くするとふっと小さく吹き出した。
「ごめんなさい、拗ねないで」
「拗ねてなんかないさ」
こう返してしまっている時点で既に拗ねていることはばれているけれど、いくら年下であろうと男としてのプライドが許さない。
ただしここで問い詰めるのも恰好がつかない。僕は聞き出すことは諦めて、メイクの準備に取り掛かった。
「万が一にも目に入るといけないから、目を閉じて」
そう言うと二つ返事で目を閉じるミーシャ。長い睫毛が鏡台の照明の光で影を落とすのが分かる。
「ラグのセンスだから、きっと衣装に合うでしょうね」
「そりゃあこれでもスタイリストだからね、合わせられなかったら本当にジャンクだ。今日だってここに来る前に言われたよ、若い女性陣にね」
目を閉じている彼女には伝わらないのに、大仰に肩を竦めてみせる。大きいリアクションでどうにかして彼女の気を引こうとしていることに自分で気が付き、やってから恥ずかしさが押し寄せた。
すると、ミーシャはぐっと眉を顰める。彼女は不満や言いたいことがあるとこの仕草をする癖があった。
「皆はあなたのことを分かってないんだわ。自分のこと、ジャンクなんて言わないで」
ジャンクとは――壊れ物。壊れ物には価値がない。上手い言い回しで隠せたと思ったが、ミーシャは自嘲の響きに気が付いたようだ。
「……君がそんな顔をする必要はないよ。僕も気にしていないから」
下地のファンデーションを塗り、艶やかな紅を引く。長い睫毛をビューラーで巻き、上向かせるだけで彼女はさらに綺麗になる。淡くアイシャドウをつけ終わると、知らず息を止めていたようで小さくほうと息をついた。
そっと指の背で頬を撫でると、くすぐったいのかわずかに身じろぎをするミーシャにこちらが動揺してしまう。
「ラグ? どうしたの?」
「い、いや……ごめん、ゴミが付いてた」
「取ってくれたのね、ありがとう」
「…………」
咄嗟についた嘘を彼女は疑うこともなく信じたらしい。心に浮かび始めた罪悪感には見て見ぬふりをして声をかけた。
「目を開けてもいいよ」
「ええ」
ミーシャが静かに目を開けて、鏡越しにメイクの出来栄えを確かめる。
「綺麗ですよ、プリマ・ドンナ」
畏まった口調で言えば、ミーシャは照れ笑いを浮かべた。
「ありがとうラグ、私は友人に恵まれて――本当に幸せだわ」
「……僕はこれぐらいしかできないからね。こちらこそ、喜んでもらえて嬉しいよ」
そう返して小さく笑う。嬉しい気持ちは確かだが、友人という言葉さえなければ手放しで喜んだだろう。
ただ、鏡を見れば流石に身分不相応なのははっきりと分かる。焼けた肌に癖のあるぼさぼさの黒髪――そばかすが散った顔は長い前髪で隠れて目が見えず、印象は暗い。身長は平均より高いはずなのに、猫背のおかげでそうは見えない。細身の体躯はあまりに頼りなかった。
彼女の隣に立つには、自分は相応しくない。それは、誰に言われずとも理解していた。
「もしかして、丁度いい時間だったんじゃないか?」
「ええ、ぴったりだわ」
椅子を引いて立ち上がりやすいようにすれば、ありがとうと返ってくる。
時計を見れば、針はもう開演数十分前を示していた。開演時間を考えれば、キャストはもう舞台裏に集まり最終調整をするべきだろう。
「じゃあ行ってく――」
そう言いかけてドアを開け、出て行こうとしたミーシャが一度固まる。そして、くるりと振り向いた。
「何か忘れ物か?」
ミーシャは視線を左右に泳がせると、口を開閉させて言い淀む。僕はその様子には何も言わず、答えを促すようにじっと視線だけ向けた。
「あのね……さっきの話だけど、今日は特別綺麗にしてほしい理由のこと、秘密って言ったでしょう」
「ああ、言ってたな」
先程の会話を思い返すように、自然を斜め上を見て思案する。つい先程のことだったからか少し考えればすぐに思い出した。
「他の誰にも言っていないけど、ラグにだけヒントをあげるわ」
「なんだよ、ヒントって――」
そんなに言いたくないなら無理しなくてもいいのに。
そう続けて笑い飛ばそうとミーシャの方へ視線を向けた瞬間、僕は金縛りのように身動きが取れなくなった。
「今日はね、ファントムが私を迎えに来るの」
それはもう今まで見た中で最上の、この上ないくらい幸せそうな、世界を魅了した満たされた笑顔で――彼女は笑ったのだ。
* * *
「……え」
ドアが閉まる音ではっと我に返ると、既にそこにはミーシャの姿はなかった。
すごい魅力的な笑顔を残されて放心してしまったのかと思いきや、嫌な予感がする。メイク道具を片付けながら、悶々と思案し始めた。
ファントム、と彼女は言った。そう聞いて思い浮かぶのは亡霊という意味であるのと、まさに今から公演される『オペラ座の怪人』だ。
「迎えに、来る……」
ミーシャが言っていた言葉を反復して、また考える。
ここだ、引っかかるのは。
ファントムは役名であり、劇の中の話なら何ら問題はない。しかし、劇中でファントムが攫うのはヒロイン――クリスティーヌ・ダーエである。ミーシャが言ったのは『私』であり、クリスティーヌではない。
では、ミーシャの言葉が示すのはなんだ。
「……?」
メイク道具を片付け終わると、一枚の封筒が机の上に置かれていた。封蝋から漂う薔薇の香りに引き寄せられるように、封筒を開き中身を確かめる。
中には赤い薔薇の花弁数枚と、一枚の手紙が入っていた。
――親愛なるラグへ。別れの挨拶の代わりに、この手紙を贈ります。きっとあなたのことだから、何をやっているんだと怖い顔をして怒るでしょう。
でも許してね、これが私の生きる道だから。私の一度決めたことは変えない頑固さは、あなたも知っているでしょう?
私は亡霊と呼ばれる彼と一緒に生きていきます。周りは彼を蔑むけれど、私は確かに彼を愛している――
嫌な予感の正体が、分かった。
「……っ」
ひゅ、と知らず息を呑む。居ても立ってもいられず、手紙を持ったまま急いで楽屋を出た。脇目も振らず廊下を駆け抜けると、擦れ違った老夫婦がなんだなんだと身を寄せ合う。
「間に合え……間に合え……!」
言霊の存在は信じていないけれど、今だけはそうであれと強く願う。
手紙を読んだ限りでは、この結論で合っているだろう。ミーシャはこの公演中に攫われるのだ――ファントムと呼ばれる男に。
「……っ、ミーシャ!」
キャストとスタッフ以外は舞台裏には入れない。
公演中だろうと知ったことではない。叫び声と共に、会場であるホールに続くドアを思い切り開ける。
「おい、続きはどうした!?」
「これで終わりか、主人公は――」
扉を開けると、場内は騒然としていた。
どこからか赤い薔薇の花弁が舞い、客は立ち上がって舞台のキャストに非難を浴びせる。キャストも混乱しているのか怒号に怯え、スタッフが金を返せと暴れる客を押さえつけている。
そんな状況でも僕が探しているのはただ一人だ。しかし辺りを見回してもそれらしき影はなく、焦燥感に駆られる。
「嘘だ……どうしてだ、ミーシャ」
――別れの挨拶の代わりに、この手紙を贈ります
手紙の内容を思い出して、絶望感に打ちひしがれる。
今までミーシャのために生きてきた。女優を目指すという彼女の役に立てるのはなんだろうと考えた。彼女は自分を褒めてくれるけれど、周りは僕を貶すけれど、それも当然だ。僕のこの腕は、彼女を飾るために磨いてきたのだから。
彼女以外を飾ることは考えていない。全部、全部彼女のためだけに。
「――どうして」
ぐしゃりと持っていた手紙を握り潰す。
彼女を失った今、強い絶望感に苛まれて心が折れそうでも、一つだけ確かなものがある。一つだけはっきりと言える。
亡霊が君を愛しても、君が亡霊を愛しても、僕は君を愛すことをやめないだろう。
「必ず、君を迎えに行くよ――クリスティーヌ」
ファントムが君を迎えに来たのなら、今度は僕がファントムになろう。
そうすれば何も問題はない。ファントムなど、どうせ仮面を被っていて素顔など見ることができないのだ。
それなら、ファントムが僕でも構わないだろう?
亡霊が君を愛すなら 育波 @starlight1004
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