第12話 いちども噛まずにフリーインプロビゼーションなんて絶対言えない


 みなさん、「村上ラジオ」聞きました?村上春樹がDJしてたやつ。


 ねこのきもチェックしてましたよ。そしてあの番組を聞いたことも、もうひとつの契機になっていたのかもしれないと気づきました。


 ネットで「村上ラジオ」の記事をいろいろ読んでいた中で、ライブドアニュースの、こんな記事が目に止まりました。


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村上:もともと文章家になるつもりはなかったんです。どちらかというと音楽のほうに興味があって、それを仕事にしていたわけ。そういう人間が突然、小説を書いて小説家になったので、誰かの小説技法を学ぶというよりは音楽から入ったというほうが近いですね。リズムとかハーモニー、フリーインプロビゼーションとか。書きながらそういうことを意識して、それこそ踊りながらというか(笑)、フィジカルに書くという傾向が僕の場合は強いと思います。だから僕の本を読みやすいという人がいたら、そういう人たちとは割と音楽的に通じているんじゃないかという気がすごくします。僕は文章の書き方は音楽に学んだと言ってるんです。


http://news.livedoor.com/article/detail/15116554/

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「僕は文章の書き方は音楽に学んだと言ってるんです。」


 あー、言ってた言ってた。ねこのきもラジオ聞いていたけれど、たしかにこんな事言ってたわ。


 え、デレク・ハートフィールドじゃなかったんですか。


 まあ正直この発言自体は、何を言いたいのかその真意は測りかねるものではあります。まあいつものことだよね!でもこれはいったいどういうことなのか、ねこのきは気になります!


「僕は文章の書き方は音楽に学んだと言ってるんです。」


 ここを起点として、「断絶後の世界」からの読み方につながるかもしれない、その補助線が引けるのではないのか、そんな思いつきがあったからです。


 ただ、この発言だけでは、あんまりにもふわっとしすぎていて、どこから手をつけていいかわかりません。


 なので、まずその他の要素をねこのきなりに出来るかぎり丁寧に補って、ねこのきなりの解釈を考えてみたいと思います。


 思い起こせば長編小説の「1Q84」の章立ては、それぞれ青豆と天吾というメインの登場人物に交互にきっちり1ダースずつ割り振られた形の24章で構成されていて、BOOK1とBOOK2がまったく同じ構成になってました。


 この構成は、登場人物のふかえりも聞いていたバッハの「平均律クラーヴィア曲集」だとか、あるいは、ショパンの「24の前奏曲」なんかを思い浮かばせる構成です。


 しかしBOOK3ともなると、牛河という人物が絡んできて、この牛河にも章が割り当てられ、今度もそれぞれきっちり10章ずつ章を割り当てたあとに、青豆と天吾のコンビにエピローグで1章使って31章完結。そんな構成になっていました。

 この31という数字には、ちょっと何も思いつかないっすね。


 この構成をどう捉えたらいいのでしょうか、なんかものすごい機械的にわりふっているような印象なのですが。


 ここで、「僕は文章の書き方は音楽に学んだと言ってるんです。」という発言を念頭にしてもう一度考えて見たいと思います。


 うっかりショパンの「24の変奏曲」とか、とりあえずネットで調べてコピペしました。みたいな曲をあげちゃったけど、この構成だけで、「音楽に学んだ」などということは、ねこのきにはあまり納得いかないことだったりするのです。


 にもかかわらずどうにも気になります!の原因が、じゃあどういうことなのかと言うと、「1Q84」のあたりでは、村上春樹は、あらすじ、とかプロット、というものを小説の重要な骨格として、採用していないのではないかと感じてしまうということからなのです。


 もちろん、あらすじが無い、というわけではなくて、たとえ存在していても、そこが小説を支える重要なポイントとなるようには書こうとしていないのではないか、という印象があるのです。


 「騎士団長殺し」でも、それぞれ32章という章立てだけ見れば、きっちりな章の配分という点は「1Q84」から引き続き踏襲されています。


 すくなくとも、この機械的章立ては村上春樹の中でマイブームになっていることは間違いないようです。


 そして、緊密なあらすじやよく錬られたプロットというものの重要性が、どんどん低くなってきているような気がしないでもないのです。


 だから、


「僕は文章の書き方は音楽に学んだと言ってるんです。」という発言をねこのき的に解釈すると「あらすじとかプロットって、今あんまり興味ないんだよね」


 ……的な内容を、ネットで募集した何万という質問を、ずんばらりん、と手際よく捌いていく豪腕無双な村上的文章で表したしたものだったりするのかもしれない、と思えてこないこともない。


 じゃあじゃあ、あらすじとかプロットで支えてきた小説的重量をいったい何を持って支えようと言うのでしょうか。


 そこで音楽?


 「リズムとかハーモニー、フリーインプロビゼーションとか。」


 音楽ねえ、いや、ねこのきも浴びるように音楽聞いていたときありましたよ。ちょっと人生の夏休み的な時期が訪れた時、テレビ見る気力もなくて、ラジオにしてもトーク番組も何だかな、でも何の音も無いのもつらいしなぁ、というので一日中某国営放送のFMをつけっぱなしにしていたことがそこそこの期間続いたことがありました。


 地方は、選局数が限られるんですよ。某公営放送はクラシック番組を長時間流していることが多いんですね。だから、けっこうな種類の曲を聞き流してはいた時期がありました……。


 あんまりいい思い出じゃねえな。


 まあ、その時の記憶と経験を何とか思い出してみるとして、そうそう、みんな大好きベートーヴェン、交響曲の第五番ってあるじゃない。


 あの、だだだだん、てやつ。あの第一楽章は、本当にだだだだんだけでできてるって言えるくらい、だだだだんが繰り返し出てきて、だだだだん以外あんまり印象に残らないくらいだだだだん、なのだけれど、繰り返しというのは、つまりはリズムがあるということにつながります。


 繰り返し、反復がなければそもそもリズムをとして認識することは出来ないのです。


 それに第一楽章がだだだだんだけで構成されているかというと、当然そんなわけではなく、だだだだんの前後に色んな楽器による合いの手が入っていて、前後の関係で、その印象が微妙に変わっているのが、実際に聞いてみるとよく分かると思います。


 前後と言ったけど、実際は色々な楽器が同時に重ね合わされているわけで、それがまあ、ハーモニーという物なんでしょう。ネット活用して聞いて確認してみてね!


 ようし、そんなかんじで、音楽知識のおさらいは完了だぜ!


 え?そんなんでいいのかって?こまけぇこたぁ気にすんな!あくまで一般人として理解できる範囲内での検証をしてみよう、という話なんだからさ。


 フリーインプロビゼーションて何ですか?って現代の叡智グーグル先生によると「即興演奏」ってな答えがあったよ。


 もう一度確認してみます。


 リズムはつまり「繰り返し」。


 ハーモニーというのは、文章で何人も同時演奏、とかはそもそも構造上ありえないので、「前後の関係」。に置き換えてかんがえてみましょう。


 そしてフリーインプロビゼーション君は何かとやらかしてくれそうですよ!おおいに期待が持てそうですな!



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 その年の五月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入り口近くの、山の上に住んでいた。夏には谷の奥の方でひっきりなしに雨が降ったが、谷の外側はだいたい晴れていた。海から南西の風が吹いてくるせいだ。その風が運んできた湿った雲が谷間に入って、山の斜面を上がっていくときに雨を降らせるのだ。家はちょうどその境界線あたりに建っていたので、家の表面は晴れているのに、裏庭では強い雨が降っているということもしばしばあった。最初のうちはずいぶん不思議な気がしたが、やがて慣れてむしろ当たり前のことになってしまった。

 まわりの山には低く切れ切れに雲がかかった。風が吹くとそんな雲の切れ端が、過去から迷い込んできた魂のように、失われた記憶を求めてふらふらと山肌を漂った。細かい雪のように見える真っ白な雨が、音もなく風に舞うこともあった。だいたいいつも風が吹いているせいで、エアコンがなくてもほぼ快適に夏を過ごすことができた。


−中略−


 その当時、私と妻は結婚生活をいったん解消しており、正式な離婚届に署名捺印もしたのしたのだが、そのあといろいろあって、結局もう一度結婚生活をやり直すことになった。

 どのような意味合いにおいてもわかりやすくないし、原因と結果との結びつきが当事者にさえうまく把握できないその経緯をあえてひとことで表現するなら「元の鞘に収まった」というあまりにありきたりの表現に行き着くわけだが、その二度の結婚生活(言うなれば前期と後期)のあいだには、九ヶ月あまりの歳月が、まるで切り立った地峡に掘られた運河のように、ぽっかりと深く口を開けている。


「騎士団長殺し」「1 もし表面がくもっているようであれば」P13-14

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 というわけで、「騎士団長殺し」の第1章の冒頭からちょっと抜粋して引用してみました。


 書き写しながら思ったんだけど、文章が一本の直線である以上、ハーモニーというのは、構造上ありえない、とか言ってたけど、比喩、という要素が入り込んで来ると、元の文章の線は一本でも、読み手が受け取る時の意味合いとしては、比喩的要素による複数の意味合いのほのめかしによって、似たような効果が期待できるのかもな、と考えなおしたりしました。


 まあ、それはともかく、ここは変に意味や答えをすぐに出そうとするのではなく、「断絶後の感性」でこの文章を捉えるというのはどういうことか、その方法をさぐるその第一歩として、「文章の書き方は音楽に学んだ」というその方法を素直に信じて、もう一度この文章を捉え直すことは出来るのか、を試していきたいのです。


 「私」がその当時住んでいた場所と、置かれていた状況を説明する文章から第一章は始まります。


 まず目につくのは「境界」の類語や縁語の繰り返しでしょうか。



狭い谷間

 

谷の奥の方でひっきりなしに雨が降ったが、谷の外側はだいたい晴れていた

家はちょうどその境界線あたりに建っていた


家の表面は晴れているのに、裏庭では強い雨が降っているということもしばしばあった




結婚生活をいったん解消〜もう一度結婚生活をやり直すことになった。


原因と結果


二度の結婚生活(言うなれば前期と後期)


切り立った地峡に掘られた運河のように、ぽっかりと深く口を開けている



 つまり、「境界」という言葉から連想される類語、縁語で類似のイメージをくり返し、リズムを作りつつ、それぞれの意味合いの変化、とその変化自体による意味合いの比喩的、多層的意味合いのハーモニーを生み出して、リズムとハーモニーの統一感を作り出し、時には「風が吹くとそんな雲の切れ端が、過去から迷い込んできた魂のように、失われた記憶を求めてふらふらと山肌を漂った。細かい雪のように見える真っ白な雨が、音もなく風に舞うこともあった。」というかんじにフリーインプロビゼーションしてみせたりする、そんな感じでこの小説始めていくね!という文章になっているような気がしてきました。


 あれ?わりとすんなり当てはまっちゃったんじゃね?まじか?。


 それともうひとつ書き写しながら気づいた事があって、ここで出てくる、


「風が吹くとそんな雲の切れ端が、過去から迷い込んできた魂のように、失われた記憶を求めてふらふらと山肌を漂った。細かい雪のように見える真っ白な雨が、音もなく風に舞うこともあった。」


 という部分なんですけど、雲 − 雪から導き出される白という色を表す言葉は、のちに



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それから私はようやく、ひとつの事実に思い当たった。それは文字通り明白な事実だった。どうしてそんなことを忘れてしまっていたのだろう。免色にあって、私のこの免色のポートレイトにないもの。それはとてもはっきりしている。彼の白髪だ。降りたての雪のように純白の、あの見事な白髪だ。それを抜きにして免色を語ることはできない。どうしてそんな大事なことを私は見逃していたのだろう。


(第1部 顕れるイデア編 :P280−281)

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 てな感じに免色という人物を語るときに、その低音部で繰り返し変奏され、メインの文章に対比して、ハーモニー的要素を作り出していくことになるのかもしれない。

 いやちょっと違うのか。


 それににしても、いまねこのきは、「変奏」「低音部」という言い方をしてしまったけれど、これはいったい何を意味しているのか。


 まあ、何となく、わざと曖昧にしておきたい、というか、あまり意味に引きずられずに、大まかな構造を掴んでおきたい、という気持ちのあらわれなんだと思いますので勘弁してください。


 「変奏」というのは、白という言葉が、ちょっと組み合わせを変えて、しかしそれなりの重要性を持って語られてる感じがするよね、というような意味で、「低音部」というのは、前段の一章の「過去から迷い込んできた魂のように、失われた記憶を求めてふらふらと山肌を漂った」みたいな即興的な部分も、白という言葉を媒介にして、特に論理的な関連性がなくても、何となく比喩的な影響を免色の描写にあたえていなくもない感じがするよね、くらいの意味です。


 そして、便宜上便利だと思うので、雲 − 白、あるいは白 − 魂、みたいな感じで、論理的関連性は無いけれど、小説の描写上の重み付けといった観点から、ひとまとまりとしておきたい言葉のグループを仮に「コード」と呼んで見たいと思います。


 なんか、それっぽいじゃないですか。


 小説「騎士団長殺し」においては、「鳥」のコードと「加護」のコードは、常に関連性を持ちつつ「変奏」され、その文章の「低音部」を支えている。


 みたいな感じ。

 では、この内容を検証してみましょう。



 この小説の「プロローグ」は、「コード」という視点を持って見てみると、けっこう重要なコードだらけなんじゃないかと思うのですけれど、ひとつひとつ検証するとめっちゃ時間掛かりそうなので、とりあえずわかりやすそうな「鳥」と「加護」についてプロローグから、第一部までの間で検証してみたいと思います。


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「ああ、それを今ここに持ってきたよ」

彼はそう言って右手をまっすぐ前に差し出した。彼はとても長い手を持っていた。手の中にはプラスチックのペンギンの人形がにぎられていた。お守りとして携帯電話にストラップでつけられていたものだ。彼はそれをガラスのコーヒー・テーブルの上に落とした。ことん丶丶丶という小さな音がした。


「騎士団長殺し」「プロローグ」P10

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それが包装された絵画であることは一目で見当がついた。大きさは縦横が一メートルと一メートル半ほど。茶色の包装用和紙にぴったりくるまれ、幾重にも紐がそれ以外に屋根裏に置かれているものは何もなかった。通風口から差し込む淡い陽光、梁の上にとまった灰色のみみずく、壁にたてかれられた一枚の包装された絵。そのとり合わせには何かしら幻想的な、心を奪われるものがあった。


「騎士団長殺し」「5 息もこときれ、手足もつめたい」P93-94

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 そう心を決めてしまうと、気持ちは少し楽になった。その夜は、久しぶりに何も考えずにまっすぐ深い眠りに入ることができた。夜中にみみずくの動き回るがさがさという音を聞いたような気がした。しかしそれは切れ切れな夢の中の出来事だったかもしれない。


「騎士団長殺し」「6 今のところは顔のない依頼人です」P115

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「でもあなたは画作に入る前に、まずクライアントと会って話をする。意に染まなかった相手の肖像画は描かない、という話を耳にしましたが」

 私はテラスに目をやった。テラスの手すりには大きなカラスが一羽とまっていたが、私の視線の気配を感じたように、艷やかかな羽を広げてすぐに飛び立った。


「騎士団長殺し」「7 良くも悪くも覚えやすい名前」P128

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「でもそれはいいことだ」と政彦は言った。「みみずくがいれば、鼠や蛇が寄りつかなくなる。

それにみみずくが家に住み着くのは吉兆だという話を、以前どこかで耳にしたことがある」

「その吉兆が、肖像画の高い報酬をぼくにもたらしてくれたのかもしれない」

「そうだといいけどね」と彼は笑って言った。「Blessing in disguise (ブレッシング・ディスガス)という英語の表現を知っているか?」

「語学は不得意でね」

「偽装した祝福。かたちを変えた祝福。一見不幸そうに見えて実は喜ばしいもの、という言い回しだよ。Blessing in disguise 。で、もちろん世の中にはその逆のものもちゃんとあるはずだ。理論的には」

 理論的には、と私は頭の中で繰り返した。


「騎士団長殺し」「8 かたちを変えた祝福」 P142

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 翌日の一時半に彼女はうちにやってきて、我々はいつものようにすぐにベッドの中で抱き合った。そしてその行為のあいだ二人ともほとんど口もきかなかった。その日の午後には雨が降った。秋にしては珍しい激しい通り雨だった。まるで真夏の雨のようだった。風に乗った大粒の雨が音を立てて窓ガラスを叩き、雷も少しばかり鳴ったと思う。分厚い黒雲の群れが谷間を通り過ぎ、雨がさっと降り止むと、山の色がすっかり濃くなっていた。どこかで雨宿りをしていた小鳥たちが一斉に姿を表し、賑やかにさえずりながら、懸命に虫を探しまわっていた。雨上がりは彼らにとっての格好のランチタイムなのだ。雲の切れ目から太陽が姿を見せ、あたりの木の枝に水滴を煌めかせた。雨が降っているあいだ、我々はずっとセックスに夢中になっていた。雨降りのこともほとんど考えなかった。そしてひととおりの行為が終了するのとほぼ同時に雨が上がった。まるで待ち受けていたみたいに。


「騎士団長殺し」「8 かたちを変えた祝福」 P142


-中略-


 免色は少し困ったように微笑んだ。そして言った。「それについて何か私にできることはありますか?」

私はスツールから起ち上がって窓際に行き、雑木林の上を飛んでいく鳥たちの姿を眺めた。

「免色さん、もしよろしければ、あなたについてもう少しばかり情報をいただくことはできませんか?考えてみれば、ぼくはあなたという人について、ほとんど何も知らないも同然なのです」


「騎士団長殺し」「9 お互いのかけらを交換し合う」 P154


-中略-


彼は私にいったい何を求めているのだろう?

 そしてなぜ私には彼をまともにデッサンすることができないのだろう?

 その理由は簡単だ。私には丶丶丶彼の丶丶存在の丶丶丶中心にあるものがまだ丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶把握できていないからだ。丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶

 彼との会話のあと、私の心は不思議なほど乱れていた。そしてそれと同時に免色という人間に対する好奇心は、私の心の中でますます強いものになっていた。

 三十分ほどあとで大粒の雨が降り始めた。小さな鳥たちはもうどこかに姿を消していた。


「騎士団長殺し」「9 お互いのかけらを交換し合う」 P164


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 うん、第1部見ていくって見栄をはっちゃったけれど、どうやらこのあたりで気力が尽きてしまったようだよ。もうぼくは眠いよ、パトラッシュ。


 特に最後の「三十分ほどあとで大粒の雨が降り始めた。小さな鳥たちはもうどこかに姿を消していた。」という箇所。これ自体は9章めのラストだけど、「小さな鳥たちはもうどこかに姿を消していた。」っていつ出てきてたよ、鳥?とページを戻していったら、章飛び越えて8章まで戻っていましたとさ。


 「おおおおおぃ、これはいくらなんでも、いくら丼」て誰だって思うよね。いくら丼おいしいよね。食べたくなるよね、いくら丼


 そして思うんだけど、この部分に至っては、9章に至るまでの記述を元に、


「騎士団長殺し」において「鳥」のコードと「加護」のコードは、常に関連性を持ちつつ「変奏」され、その文章の「低音部」を支えている。


 という事を意識的か、無意識的か、どちらにせよ把握しておかないと、ちょっと受け止めることが難しい表現になっているのではないかと思うのですが。いくらどん。


 ということは、このことは、少なくとも「騎士団長殺し」における、単語、文章の造形において、音楽的構成を一部採用していることのひとつの証明になるのかもしれません。


 具体的に言えば、コード(連想・比喩的結合、あるいは小説内独自の意味付けの単語のグループ)の繰り返しと変奏。リズムとかハーモニー、フリーインプロビゼーションによる表現の進行が重要な要素になっている。そう言えなくもないのかもしれません。


 村上春樹は、「1Q84」以降において、あらすじとかプロットで支えてきた小説的重量を、あらすじがなくなることは無いにしても、この音楽的構成を積極的に導入し、それなりの比重を負わせるようになって来ているのではないでしょうか。


 それは、「あらすじとかプロットって、今あんまり興味ないんだよね。」的な意味合いにおいてなのか、「俺が新しい小説を切り開いてやるぜ」的な野心によるものなのかは、ねこのきにはさっぱりわかりません。


 だから、もう少し、別の視点で、「断絶後の感性」による読みの試みを、また少しやり方を変えてみたりして探って行きたいとは思います。


 でもまだ第3部出ていないしなー。


 

 ならば、僕らは高く繁った緑の草をかき分けて、

 見つけにはいかず、探しにはいかず、

 ひとまずは佐野元春のDVDの発売日を楽しみに待ちながら、

 こう言うべきなのかもしれない。


 第3部マダー? と。



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村上春樹の『騎士団長殺し』を読み終えて、思いつきで感想とか書いてみようとしたけど、例によって全く先が見えない。 ねこのきぶんこ @nrbq

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