『俺が彼女と別れられない理由』
中田祐三
第1話
例えばあんただったらどうする?
付き合い始めて三年の一人暮らししてる彼女がここ一週間連絡が取れなかった。
もちろん心配するよな?
当然彼氏なら会いに行くよ。
だがここからがちょっと特別なことなんだが、その……おそらく十ッ中八,、九の確立で俺は彼女に何にも無いことは分かっていた。
……たとえそれがどんなに腹立たしく馬鹿らしいことだったとしても……だ。
「ああ面倒くせえな~、本当に……」
億劫な足取りでアパートの階段をあがり、通路の一番奥にある部屋のインターホンを鳴らす。
これは酔った勢いであいつがぶっ壊したので、俺が付け直した物だ。
うん、調子は良好……っと。 数回、鳴らしてもやつは出てこない。
しかし電気メーターは回っている……。
扉に耳を貼り付けると微かにだがテレビの音が聞こえた。
間違いなくやつはいる!
そしてそれは俺が想像したとおりの結果だということだ。
ため息をつきながら合鍵をドアノブへと差し込む。
そういえば色気のあるような用事でこの合鍵を使ったことは一度も無かったなと、何故かそれが思い出された。
まあいい、まず開けたらあいつに蹴りを入れ……その後換気だな。
玄関を開けたその瞬間、内部と外部の隔たりを感じた。
ボンヤリと煙が充満する玄関を通り、2DKの部屋の扉を開けるとそこはまさに戦場のようだ。
ざっと見ただけでピザの食べ残しが三枚。 ビールの空き缶ざっと十缶。
さらに空瓶三本……日本酒。
おっとスピリタスの瓶が一本……今回は観測史上最大って感じだな。
そして、これか……。
チラリとテーブルの上を見る。
ドライフラワーを握ってクシャクシャにしたようなものが一つまみほど置いてあり、その傍にはパイプ……。
予定通り、テーブル横で胎児のように丸まって寝ている間抜け面な彼女の頭を軽く蹴る。
「おら、起きろよ……バカ女」
「痛っ!ひどいじゃないですか……友和さん!」
俺がいきなり来たことなど当たり前のように白音は抗議してくる。
「丸々一週間もメールも返さない電話も出ないバカにそんな口を叩く権利なんかねえよ‥常識的にな」
その言葉を聞いて白音がのっそりと携帯を確認する。
「あちゃ~、そんなに立ってました? 確かに五日目くらいから記憶がおぼろげになってきましたけど」
明るく返す白音に俺はできるだけ冷たく質問をする。
「これは一体どうしたんだ?」
テーブルの上にあるもの指差す。
すると彼女はニッコリと笑って 「ご安心を。前に没収されたときの隠し分です。」
「ご安心を、じゃないだろう……馬鹿」
何も悪びれない白音にそう言い返すことしか出来ない。
「とにかくだサークルのみんなも心配してるからそれをトイレに捨てて来い……」
アホ女が返事をする前に、テーブルに広げられていた『持っていてはいけないゴミ』をその袋ごと汚物が流れる下水道へと流し込んだ。
「ああ……持ったいない」
まるでお菓子を地面に落として食べ損ねた子供のような感想を抱く白音の頭を軽くはたき、バスタオルを頭の上からかける。
「ふえ……なんですか?」
「風呂に入って来い……お前、臭おうぞ」
しかめ面の俺に成る程と言わんばかりに、
「……そうでしょうね~、それじゃシャワー入ってきます。でもそのまえに……」
「言ってるそばから酒を飲もうとするんじゃねえ!」
強めに頭をはたく。 いつの間に用意したのか一升瓶を小脇に抱えラッパで飲もうとしたのだ。
「いや~だってお酒飲まないと動きたくないんですもん」
「こ、この……アル中女が……」
思わず絶句する。 あれだけ飲んで吸って堪能したというのにまだ動きたくないのか……。
「だいたい友和さんは真面目すぎるんですよ、前はそんなじゃなかったのに……」
「いつまでも花の大学生気分なままで入られるわけないだろう?俺ももうすぐ三年だぞ?……それに昔のことは言うな」
ぶっきらぼうに返すと、
「私は昔の友和さんも好きなんですけどね」
恋する乙女の顔で言われても俺にとっては嬉しくない。
「それなら前の俺みたいな人間と付き合えばいいだろ?俺と別れてな」
相手にせず軽口で返す。
「いい加減シャワー入ってこいよ、その間に部屋の片付けくらいはしておいてやるからさ」
「は~いわかりました。ちゃんと待っていてくださいね……置いていっちゃイヤですよ?」
白音の最後の言葉を聞かないふりをして手を振る。
「さてと……まずは寝室からはじめるとするか」
一番汚いのは居間なのだが、寝室から始める。
理由は特に……無い……きっとな。
それにしても汚い。
仮にも女の部屋なんだろうか……引っ越してきた時はもう少し小奇麗……いや、考えるのはやめよう。
それにこのベッドに建設された『脱ぎ散らかした服で拵えたピラミッド』を解体しなければならない。
そしてそれは全体的にアルコールが巻かれていて発酵臭をさらに進化させた異臭を放っていた。
「あいつは酒で何かの化学実験でもしてるのか?」
一人で呟く。
洗濯物に高笑いをしながら酒をふりかけているあいつを想像した。
妄想を振り払い、慣れた手つきで洗濯物を仕分けしていく。
これは色物。
これは手洗いが好ましいもの。
これは汚れがひどいから別洗い。
さすがに下着は無かったが……ずっと履きっぱだった可能性もある。
おっともう一本酒瓶が落ちている。 ひょいと拾い上げてガラス越しに覗き込む。
「ワインか……」
俺はワインには詳しくない。
だがこのワインは出来損ないのようで、コルクの破片が赤い液体の中で溺れたように沈みこんでいた。
体質的に俺は酒を飲めない。
だが酒に溺れてアル中寸前の白音の気持ちはわかる。
俺もまた別のものにかつて溺れていた。
まるでこのコルク片のように溺れ、沈みこんでいた。
けれど俺は浮上することができた。
半年前までの自分がどれほどまでにガキで馬鹿だったかを強く認識し、できることならもう一度あの頃からやり直したいと思っている。 そう……いっそのこと二年前から……。
「……どうしてこうなっちまったんだろうな~」
何も無い部屋に響く呟き。
手だけは止めずに……。
ふと風呂場の扉が開く音が聞こえた。 片付けはとりあえず寝室のほうは終わっている。
服も仕分け終わった。 シーツも代えのシーツに変えたしベッドが少し湿っぽいのは窓を閉め切っていたのでこれはしょうがないだろう。
そして染み付いていたアルコール臭とはまた違う煙の匂いも持参した消臭剤で消し去った。
芳醇な香りが広がると同時に俺自身の決断も固まる。
やはり白音とは別れることにしよう。 俺はもうあいつの面倒は見切れない。
部屋の惨状を一瞥してそう決めた。
が、しかし決めた瞬間からすでにぐらついている。
白音のことはもちろん好きだ。 だがこのまま付き合い続けていれば必ず不幸なことになるだろう。
俺にとっても白音にとっても。
そして自分と別れた後の彼女を考えるとさらに気持ちは迷う。
男と女の子とはこうも論理的には行かないものなのか……。
心地よいシャワーの音はこちらにまで聞こえてくる。
「それでも……いや……しかし……」
無益な思考への旅立ちは唐突に打ち切られた。
風呂場のほうから何かが倒れる音が聞こえたからだ。
反射的に俺は寝室から風呂へと走りこむ。
「ご、ごめんなさい……アルコールが急に回ったみたいで……」
困ったような泣きそうな顔で白音は下着姿で床にへたりこんでいた。
この様子では今すぐ外に出るのは不可能だろう。 内心のため息を隠しながらも白音を抱きかかえてベッドへと運ぶ。
最初に寝室を片付けておいて本当によかったと思う。
「あれ?寝室の方から片付けてくれたんですか?」
部屋まで運び、そこで一旦彼女を下ろす。
ベッドに寝かすために掛け布団をめくるためだ。
「ああ……そうだよ。 まったく、先に寝室の方を片付けてよかったぜ」
「そうか~、えへへ~」
「…………?」
微かに白音が笑う。
何故だ? とは思わなかった。
ああやっぱりなという言葉がふいに脳内に浮かんだ。
「とりあえずここで体調良くなるまで寝ておけよ、その間に俺は居間をって……うわっ!」
満面の笑みで突進してくる白音に押し倒された。
最初は何が起きたか理解できなかったが、じっとりとした感触のベッドと自分が先ほど撒いた消臭剤の香り、そして胸に感じる柔らかい温もりで気づく。
「な、なにを……むぐわっ!」
文句の言葉は乱暴なキスで塞がれた。 俺の唇を強引に舌でこじ開けられ中に何かぬるっとしたものがアルコールの匂いと混じって流し込まれる。
思わずそれを飲み込んでしまう。
「なっ……これはワインか!まさか……さっき落ちていた……」
「あったりで~す。そしてもう一杯どうぞ~!」
もう一度口付けをされて押し流される液体によって唇は崩壊し、それは口内に流れ込んでくる。
「そ、それ以上は……やめろ」
俺ははっきり言って酒に弱い。
どれほど弱いかというと、すでに足腰に力が入らず胃の辺りがかっと熱くなっているほどだ。
「ええ……いいですよ……これ以上入れたら勃ちあがれなくなりそうですもんね」
いそいそと白音が自身の背中に腕をまわす。
「おい……待て、何故さっきから俺の上にまたがって下着を脱いでいる。何をする気だ……こら」
「ナニをする気ですが何か?」
ニパーッという表現が似合うほどに良い笑顔だった。
いつのまにか俺の服もめくり上げられていて、さっきまで温水を浴び、火照った白音の熱く細い指がツーっと俺の胸を滑っていく。
や、やばい……流されてここでしてしまったらますます別れが言いづらくなる!
必死で抵抗しようとしたが、力が入らない。
アルコールと白音のせいだ。
彼女の白くしなやかで柔らかい全身が俺の上をゆっくりと這いずり回る。
その感覚とアルコールの酩酊が抵抗を失わせていく
じっとりと汗が滲んだ手のひらの感触がますます理性を侵食していく。
「ねえ……友和さん……?」
穏やかなのに硬質な声が耳に入ってくる。 ゾクゾクとするようなその美しい音が歌のように感じられた。
「……私と別れるつもりだったんでしょ?」
「な、なにを……」
図星だった。 普段はアルコールその他で頭が半分回っていないような女なのに何故かこういうことはには鋭いやつだ。
だがちょうどいい。 このままいつもみたいに流されるのではなく、一気に言ってしまうとしよう。
なあに、大義名分はこちらにある。
『お前みたいなどうしようもない女とは付き合えない』と一言そう言えばすむことなのだ。
「じ、実は……うっ、あああっ!」
言いかけたその時に彼女が片手で俺自身を強く掴んだ。
面長の俺の顔のように長くなってしまったあれをもてあそぶようにニギニギとして身を乗り出し、見下ろしてくる。
「ねえ?友和さんよく思い出してみて?誰が貴方に処女を捧げたか、まだ何も知らない私に色々と教えてこんな女にしたのは誰?」
攻撃的に笑いながら白音は大きな瞳と大きなおっぱいで押してくる。
そして決定的な一言が彼女から振り下ろされた。
「……そして誰が私にアルコールとアレを教え込んだのを……」
「そ、それは……」
口ごもることは敗北を意味していた……けれど、俺は何も言い返すことができない。
事実の前にはいくら詭弁を弄しても覆すことは難しい。
「は~い理解できましたか?それじゃもう聞く必要は無いですよね?それにね……」
たっぷりと間を取って、ニヘラ、ニコニコ、エヘエヘとも違う私欲も矜持も交じり合った卑しい笑顔で白音が最後を紡ぐ。
「私が気持ち悪いくらい貴方を愛しているのか知っているでしょう?」
最高に美しく最低に笑う白音に俺はもう何も返すことはできなかった。
俺が彼女に酒とアレを教え込んだのだ。
当時、自意識過剰で馬鹿だった俺は善意のつもりで久しぶりに再会した彼女に色々と教え込んだのだ……得意げな顔で。
だが俺はアレを止めることができた。 しかし彼女は違った。
それに気づいたときには白音はどっぷりとアレと酒に嵌っており、久しぶりにあった彼女のどんよりとした瞳は忘れることは一生できないだろう。
俺と出会わなければ、いや付き合わなければ彼女がこんな風になるはずはなかったのだ。
その罪悪感が白音を見捨てられない理由の一つだ。
「……ああ、そうだったな」
もう拒否することはできない。
酩酊による興奮とスイッチの入ってしまった彼女……そして俺自身も一週間近く彼女のがことが気にかかって発散していなかった。
俺は目をつぶる。
そうすることによって先ほどの自分を隠すように……。
そして再び目を開け、俺は彼女の腰にゆっくりと手を回し滑りこませる。
愛した女を簡単に嫌いになれるはずがないじゃないか……。
事後の後、俺は罪悪感と自己嫌悪、発散による爽快感が微妙に混ざった状態で白音の膝に顔をうずめていた。
別れようと思っていた女の膝を借りている自分はひどく情けなく滑稽だろう。
それでも俺はそれを止めることができなかった。 矛盾する状況がますます自分自身の覚悟の無さを如実に表していてますます落ち込んでしまう。
「友和さんはそのままでいいんですよ」
そういって慰められるとますます死にたくなる。 が、それでもその言葉が嬉しい自分もいた。
自身のことなのに男と女はどうしてこう非論理的なものになってしまうのだろうか?
「それじゃ欲求不満と酔いも消えたようだしサークルに顔を出しにいきましょうか?よろしくフォロー頼みますよ部長さん」
まだ俺達が普通だった頃のように女の子らしく笑って促す。
ああ最初はこの笑顔を好きになったんだった。 まったく騙されたものだ。
だが同時に彼女なりの気遣いなのだろうということには気づいていた。
「そうだな……サークルのマドンナが居ないんじゃ男連中が寂しがるからな」
いつまでも未練たらしく落ち込んでいてもしょうがない。
気を取り直して『本当の意味での軽口』を叩きながら立ち上がった。
「あまりそういうこと言わないでくださいよ……私はメイク兼裏方として演劇サークルに入ったんですから」
困ったように眉を下げる白音の肩に手をポンと置き、
「もう、諦めるんだ……白音は可愛いからな、どうしたって男連中の目には留まるんだ」
「……そりゃ私だって好きな人に可愛いって言われるのは嬉しいですけどなんとも思ってない人に言われても……その……嬉しくないんですけど」
彼女の独白に気づかないふりをして玄関から出る。
その後を白音がパタパタとついて出てくる。
「準備はできたな? 出発するぞ」
そして大学に向かうために駅へと歩き出す。
人があまり居ないスペースの座席へとまっすぐ進む。
座り込んで一息をついた。
やや遅れて白音も一人分を開けて着席する。
大学はここから電車で20分というところだ。
ガタタン ガタタン
ガタタン ガタタン
「…………」
「…………」
電車に乗っても二人の会話は特に無い。
それはいつものことなので気にしない。
ただ静かに電車が駅に着くのを待つだけだ。
「……ねえ友和さん?」
珍しく白音が話しかけてきた。 少し驚いたができるだけ穏やかに返事をする。
「うん?なんだ?」
「こんな女で……ごめんね」
ポツリと言った言葉は驚くほどはっきりと耳に入ってきた。
「……俺がお前をそんな風にしちまったんだ」
いくら言い訳を重ねたところでそれは事実だ。 だが同時に俺は別れないとは言わない。
どんなに白音に対して負い目があったとしても、罪悪感を持ったとしても俺は俺の人生を守り続けなければならない。
自ら落ちていく人間を俺は引きとめはしても助けることは出来ない……たとえ俺が『堕落』の原因だったとしてもだ。
最低のエゴイスト……それが俺の正体なのだ。 彼女のことを悪くは言えない、俺も彼女と同等それ以下のクズでもある。
このまま進めば近いうちに別れが訪れるだろう。
それは俺から言うかもしれないし、白音から言うかもしれない。
あるいは公権力の名の元に白音が俺から強制的に離れることになるか、それとも俺が過去のことで同じように強制的に離れることになるか。
もっと言えば彼女がこの世から居なくなるということだって考えられる。(あの酒量なら考えられる)
そして俺が来年も再来年も白音と一緒にいるのなら……。
それはきっと……。 それはきっと……俺が彼女と一緒に奈落の底へと堕ちることを決めたということだろう。
二人の間に会話はもう無い。
息苦しいほどに……。
その沈黙が二人の未来を暗示しているようだった。
電車はまだ走っている。
まだ駅には着かない。
ガタンガタンと一本道の線路の上を走っている。
俺と彼女は一体どうなるんだろう……?
フワリとシャンプーの香りに混じってあの煙の臭いがした……。
終了
『俺が彼女と別れられない理由』 中田祐三 @syousetugaki123456
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