第五章 暗闇

 廃屋に帰ると、少女は目を覚まして泣いていた。

 ガムテープで覆われた口から小さな嗚咽おえつと、鼻水をすする音が聴こえる。少女はいつまでも泣き続けていた。

 ついに父が怒鳴った!

「やかましい! いつまでも泣くなっ! このガキがぁー!」

 少女の胸ぐらを掴んで殴りかかろうとした。

「父ちゃんやめろっ!」

 とっさに徹は父の腕を掴んで止めた。

「徹、てめぇー!」

 怒った父は徹の顔を二、三発、こぶしで殴った。その後、酒が切れてイライラした父は買ってくると外へ出ていった。


 あまりのことに少女は目を見開いてキョトンとしていた、茫然自失ぼうぜんじしつ……。

 親になんか殴られたこともない、こんな場面を真近に見るのは、おそらく生まれて初めてだろう。きっと、この子は両親に大事に育てられているのに違いない、そう徹は思った。

 父がいないから、苦しそうなので少女のガムテープを剥がしてやった。よほど息苦しかったのか少女は大きく口を開けて深呼吸をした。

「ごめんな……」

 何を言っていいか分からず、とりあえず少女に謝った。

「あのー」

 もじもじしながら消え入りそうな声で……。

「トイレに行きたい……」

 頬を赤らめ少女はうつむいた……。

 そういえば朝からこんな状態で、ずっとおしっこも我慢していたんだ。

「逃げないって約束するなら、ヒモほどいてやるから……」

「うん、約束するから……」

 必死に尿意をこらえながら少女は頷いた。

 廃屋の周りは街灯もなく真っ暗闇だった、月だけがふたりを見ている。


 あんなお嬢様でも、やっぱしおしっこするんだなぁー、ヘンなことに感心して、クスッと徹は笑う。

 徹の住んでいる廃屋にトイレと呼べるようなものはない。父も徹も男だから周辺で適当に済ませている、大きい方は公園のトイレに行っている。まさか、可奈子を公園のトイレに連れて行く訳にはいかない。街灯もない廃屋の周辺は真っ暗闇である。懐中電灯を持ってふたりは外に出た。

「ここでしろ!」

 草むらを指差し、可奈子のヒモをほどいてやる。キツク縛られていた手首は赤く擦りむけて痛々しい、可哀相に……。

「見ないでねぇー」

「俺、見ないから……」

「でも、側に居てください……」

 心細げに可奈子が言う、この闇がよほど怖ろしいのだろう。やがて放尿する音が闇に響く。


 終わった後、手を洗いたいと言うので貴重なやかんの水をかけてやる。

 ガムテープとヒモはほどいたままだけど……父が帰るまでそのままにしておこうと徹は思った。

 おしっこを済ませて、少し落ち着いたのか可奈子はひとりでしゃべり始めた。

「わたし可奈子……」

 クルッとした瞳で徹を見た。

「佐伯可奈子(さえき かなこ)、小学五年生、聖神小学校に通っています」

 聖神小学校、名前は聞いたことがある。この近辺のお金持ちの子が通う有名私立小学校だ。そこの制服だろうか? 可奈子は濃紺のセーラー服に臙脂色えんじいろのベレー帽をかぶっていた。

「俺……トオル、俺も五年生だ……」

「トオルくんも可奈子と同じ五年生なんだぁー」

 にっこりと微笑んだ、そんな可奈子がストレートに徹は可愛いと思った。


「血が……」

 徹の顔をまじまじと見て可奈子がつぶやく。さっき、父親に殴られたとき唇が切れて少し血がにじんでいた。

「こんなのへっちゃらだよ……」

 いつも殴られている徹にとって、これくらいの傷は軽い方である。

 母が水商売に出ていた頃、小さな妹の亜矢が夜になると母を恋しがってグズった。酔っ払ってくだを巻いていた父は、泣き止まない妹に癇癪かんしゃくを起こして叩こうと手をあげた。そんな時、いつも妹をかばって徹が代わりに殴られていた。

 あの時も、とっさに徹は父を止めようとしていたのだ。

 ふいに妹のことを思い出して、徹は目頭が熱くなった……。いつか貧乏から脱出したら、きっと家族でまた暮らせる日がくるんだ。


「可奈子のせいでごめんなさい……」

 少女はうっすら涙ぐんでいた。

 自分の置かれている状況よりも、父に殴られケガをした徹を心配しているのか?

「トオルくん、痛い……?」

 可奈子の指が徹の唇に触れた、瞬間、何故か心臓がドキドキした。

 こんな感情は初めてだった、女の子に触れられてこんなに胸が熱くなったことはない。人に同情されるのは死ぬほど嫌いな徹だったけれど……。

 可奈子の優しい言葉が――何故か心に浸みていくのが分かった。

 その夜、ふたりは手と手をヒモで結んで寄り添うようにして、一緒に眠った。

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