[短編集] ベタベタ
アオイ
ベタベタ
身体中がベタベタする。脳みその真ん中が、ベタベタする。
これは、季節病の一種なのではないかと、僕は考える。
茹だるような暑さに頭がおかしくなるとか、そんな漠然とした感じでもない。道路のど真ん中で服を全部脱ぎ捨てるような、非現実的な割には奇妙に実感の伴うセンセーションがあるからだ。
隙間なく立ち並ぶ屋台が歩道側から熱気を封じ込めていて、通りをゆく連中はみな頭をヤられたような浮かれた顔をしていた。僕はその中を、ゆっくりと熱に促されるまま、無抵抗に流されてゆく。右に赤、左に青のかき氷を僕は手にしていて、人込みの中に突発的に生じる切れ目に食い込みつづける間に、溶け始めた氷とシロップが掌を伝った。
水鉄砲を売る露店の脇に、提灯の灯りが届かない薄暗い路地がある。その先に神社へと繋がる細い階段があり、階段の五段目に、男はいる。
階段に腰掛けた男が投げ出しているローカットブーツを僕は見る。確かにあの男だ。昔から無駄な肉のない男だったが、今はさらに痩せている。足首がブーツの中で泳ぐほどだ。屋台で手に入れたばかりの、クリアなライムグリーンのウォーターピストルをジーンズに挿しているのが、腰から胸まで縦に裂けたタンクトップの隙間に覗く。ご機嫌だ。そのウォーターピストルのせいか。僕は自虐的になる。男がこちらに気づき、かき氷を見る。人相の悪い顔になり、久々の再会の挨拶は省かれる。
「なんだそれ。なんで勝手に買ってんだ」
「ブルーハワイじゃろ、おまえは」
「なんで勝手に決めんだよ」
「いつもブルーハワイじゃろうに」
「なんでだよ。メロンとか他にも……」
「小学校の時分からブルーハワイ一本じゃろうがおまえは。迷うても最終的にはブルーハワイじゃろうが」
「万一今日は違う気分だったらどうしてくれんね?」
「ならイチゴやるわ」
「別にええよブルーハワイで」
僕の手からブルーハワイが奪い取られる。僕らは、おそらくそれぞれ違う理由で、少しだけ笑った。話しているうちに男の掠れた声が心地よい響きのイントネーションを取り戻すのを聞き、僕は何か救われたような気分になりながら、男の隣に腰を下ろした。
大の男二人が腰掛けるには、神社の階段は幅が足りない。一メートル半ばかりのスペースに並べば、肘や膝がぶつかる。地上に近くなり、気温が上がる。男の腕と僕の腕とが、汗ではりつく。ベタベタする。
それぞれのかき氷を、それぞれにプラスチックのスプーンで攻略する。僕らはしばらくの間、黙ったまま冷却作業に没頭した。男は時折、向こう側の灯りの下を行く通行人に目をやる。浴衣を着崩した若い女の群れがいる。だが僕らは二人とも、まったくナンパなどには不向きな格好をしていた。男はブーツのせいで臭そうな足をして、不健康なほど細い脚をシミだらけのジーンズで覆っていて、ヴィンテージなのか単に薄汚れているだけなのか不明の破れたタンクトップを着ていて、ワックスでアレンジしたのか単にべとついているだけなのか不明の漆黒の短髪をしていた。僕は穴が空いて黒ずんだコンヴァースと、穴が空いて黒ずんだリーヴァイスと、確実にヴィンテージではなく薄汚れただけのTシャツを着ていて、散髪を怠った前髪で顔を半分隠していた。僕らは、明らかに画面の外側にいた。僕らは、こちら側にいた。今も、昔も。僕らは、自分たちがあの灯りの下を行く連中の中に存在しないことを、いつからか知っていた。だからここで、崩れかけたかき氷の山を征服することに集中していた。今も、昔も。
昨日東京から帰ってきたばかりだ、と男は電話を寄越した。飲みにでも行こう、と言われて家を出たのに、駅前に向かう途中で携帯が鳴った。神社の前の階段で落ち合おう、と男が言って、僕は今夜、祭が催されているのを思い出したのだ。
こいつが上京するまで、毎年夏になると僕らはこの場所で、祭の屋台のかき氷を喰っていた。昔はここに並んで腰掛けても、二人の間に隙間ができたほどで、まったく窮屈だとは感じなかった。不器用にスプーンを動かす男の右手と、その左手に支えられたかき氷を彩る青色だけが、十年以上経っても変わらなかった。
コンクリートがケツを焼く。熱気が氷をいたぶる。流れ出すシロップに僕の両手はベタベタになる。噴き出す汗にTシャツからはみ出たあらゆる箇所がベタベタする。男とぶつかり擦れあう箇所が、ベタベタする。
身体の芯が、ベタベタする。
十年前、僕はその感覚を初めて覚えた。
十年前のその日、熱帯夜の祭に繰り出した僕らは、限られた小遣いでそれぞれ好みのかき氷を買って、ここで並んで喰った。喰い尽したところで、奴のブルーハワイと、僕のレモンとを混ぜたら、どんな味だっただろうかというくだらない話になった。熱にうかされ、好奇心を煽られ、僕らは実験をした。人工着色料で変色した舌を互いにべろんと出し、笑い、そのまま互いの舌を絡め取り、互いの味を舐めあった。舌は外気よりも冷たかった。だが相手の鼻息のせいで顔面の毛穴からは後から後から汗が噴き出した。奴が僕の喉の奥へと舌を突き刺してきて、僕が咳き込むまで、その実験は数分間も延々と続いた。
ガキの戯れは、翌日には忘れ去られる。僕らはその後、二度とそんな遊びはしなかった。それでも僕は、十年経った今でも、その時の光景を、湿度と熱と感触を、驚くほど正確に、フレーム刻みで確実に、思い起こすことができる。だが共有できない感傷は、退屈だったし、残酷だった。僕がその「つまらないガキの戯れ」を記憶しているという事実は、きっといつか僕を惨めにするだろう。毎年、隣でその男がバカ面を下げてブルーハワイを喰っている間、僕がその回想をしていたという事実、そういう僕を置いて高校卒業と同時にその男が一人で東京に行ってしまったという事実、そうして僕が信じられないほど寂しい夏を三回過ごしたという事実――。
ぬるい風が抜け、埃と焦げたソースの匂いを煽る。僕は発熱を続けながら、発泡スチロールのカップの中に僅かに残った赤い残骸とシロップを一気に掻き込む。熱は僕の中で容赦なく生まれ、蓄積し、神経をくたくたにした。いくら氷を掻き込んでも足りない気がした。
鼻先を突っ込んだカップの向こう側、こちらを見ている男と目が合う。半分以上残ったブルーハワイが溶けて、ちょっとした海みたいだ。
「おまえのブルーハワイな。島が沈没しとるわ」
「なぁ」
「あ?」
「ブルーハワイとイチゴ、混ぜよったらどんな味かの?」
男は笑い、舌を伸ばす。そこに乗せられた氷は、数秒ももたない。静かに腰からウォーターピストルを引き抜き、男は銃口で僕の前髪を分ける。
暑すぎる。身体中がベタベタする。脳みその真ん中がベタベタする。
僕らは、一気に発病する。
十年前のあの日も、同じように耐えがたいほど気温が高く、夕闇の訪れた神社の前の階段で、僕らはこうして死ぬほど密着しながら、死ぬほど汗をかいていた。
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