Silence/Static




 何も変わらない。


 何も起こらない。


 絶望的なまでの幸福感は、退屈で、怖い。


 おまえが廊下の先で扉を開けたまま、こちらに背を向けて立ち、排泄するのを俺は見ている。汚れたように黒ずんだ踵と、どこでそうなったのか誰にもわからない、酷く破れたジーンズに覆われたふくらはぎを繋ぐその鋭い骨格を見る。長く、細い脚をしている。そして、何か酷い病を抱え込んでいるように、白いTシャツから伸びた腕にはまったく血気がなかった。高い位置から放たれる小便の饐えたにおいは、五、六メートルほど離れた部屋まで届く。やがておまえが用を済ませて手も洗わずに振り返るとき、俺の視線は部屋の隅で赤みがかって瞬く旧型のブラウン管テレビの画面に戻っている。


「あ、なんだよ。年明けてるじゃねぇか」


 男ばかりが五人ほど雑魚寝している狭い部屋に踏み込んできて、おまえは拗ねたような口調で言う。俺はテレビを見たままでいる。すぐに俺の背後におまえが腰を下ろした気配がある。


「ハッピーニューイヤー」


 おまえの息が耳の付け根に触れて、俺は少し緊張した。やがて、おまえのアルコール臭い息とともに、その唇が接近し、俺の頬に触れる。そしておまえはバカみたいに笑う。俺は少し不機嫌になり、テレビを見るふりをしながら、他の連中がみな泥酔して眠ってしまっているのを見やる。誰かがひどいいびきをかいていて、テレビの中のアナウンサーの言葉はまるで聞き取れなかった。


 三十分前と何も変わらない。昨日と何も変わらない。年が明けるその瞬間はいつも、テレビの電源が切れるみたいに、世界が突然終わるような気がした。俺たちは昨日からずっとここにいた。朝特別早起きして中古レコード屋に行き、ポケットにあったコインで買えるだけのレコードを買い、それらを部屋で回し続けて、それからみんなで一緒にテレビの年越しスペシャルを見て、くだらない話をして、安い酒を飲みすぎた。おまえは俺たち全員から「今年最後のキス」を奪おうとし、俺にだけ拒まれ、癇癪を起こした子供のように喚き、隣の住人に警察を呼ばれそうになった。いつもと同じ、何も変わらない。年が明けても、まったく変わらない。何の魔法も、何の地獄もない。昨日の延長だけが、この部屋の中にある。


「なぁ今年の抱負もう決めた?」


 床の上に散乱するビール缶の隙間に細い脚を放り出し、おまえは俺の肩に後ろから顎を乗せてテレビに視線を流し、尋ねる。


「就職かな……とりあえず。こんなこといつまでも続けてらんないし」


 俺は答える。テレビの中に、どこか遠くの国で打ち上げ花火をやっている光景が映し出される。録画だ。何時間も前に、そこではもう時計の針が零時を指していて、新しい年に切り替わっていた。だがそのとき、俺はきっとこいつらとバカな話を繰り広げて飲んだくれ、この世の終わりなどという危機感とは程遠いところにいただろう。俺はおまえの顔を間近に見る。睫毛の長さが異常だな、と感じる。おまえはそれを見せつけるようにゆっくりと瞬きする。俺はテレビに視線を戻して言う。


「おまえは? 抱負」


「何がいいかな……」


「煙草やめるとか」


「禁煙か。いいね」


「無理だろ」


「いやマジで。約束する。一切断ち切る。もしできなかったら、俺、おまえと別れるよ」


 これは今年の抱負の話などではない。


 来るべき、俺たちの最後についての話だ。


「本当だよ」


 絶対に、約束する。


 新しい年になれば、何かが変わるだろうか、と、終わらない世界を見てしまうと必ず余計な期待を抱く。たとえば、煙草自体流行らなくなったりして、この男がそれをやめたりするんだろうか、とか、俺が普通にこいつとキスしたりする日が来るんだろうか、とか、おおよそあり得ないようなことを漠然と思い、なぜか本当にそれが実現しそうな気までする。


「今年はいい年になりそうだな」


 おまえの予言が当たったことは、今まで一度もない。


 何も変わらない。


 すべてが終わるまで。


 背中から、おまえは俺の心臓の位置を見つけ出し、人差し指を突き立てる。


 俺は顔を持ち上げ、振り返る。半分落ちかけた瞼でテレビを見ているその男と、真正面から向き合い、


「……何だよ」


 今年一回目のキスで呼吸を止める。


 昨日と何も変わらない。おまえが俺の中で溜息をつき、静かに笑うのを聞きながら、俺は怯える。


 俺は今、ものすごく幸せだと思う。





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