Symmetry of Ambivalence II




 おまえは俺の存在を否定することを、もっとも得意としている。俺はおまえのそういった態度に無関心を装うことを、もっとも得意としている。


 俺たちは、実に見事な平行線を描く。


 俺は「ファン・ハウス」のLPをA面だけ七回連続で回し続ける。その間奴が手もつけずに放置し続けたテイクアウトのタイ・フードが、俺と奴との間を果てしなく隔てるようにも思えるパイプ脚のテーブルの上で蛍光灯の熱を間近に浴びて傷み、異臭を放ち始める。


 テーブルの向こう側、ゴミ捨て場で拾った穴だらけのソファに腰掛けたその男は、右手に煙草と安い国産ビールのボトル、左手に何か黒いハードカヴァーの小説のようなものを携え、それに没頭している。テーブルのこちら側、板張りの床の上に両膝を立てて座り込んだ俺は、真正面からそいつを研究する。時折煙草とビールで交互に唇を満たす以外では、奴はまったく動かない。読んでいる本のページすら捲っていない。本当に読んでいるのか、と思う。そもそも小説などを読むような男でもない。俺が何を勧めても、この男は読んだためしがなく、だからそれは誰か俺の知らない人間に勧められたものに違いなかった。最近知り合った女か何かか。この部屋の外におけるその男の近況を、俺はあまりにも知らない。そしてこの部屋の中における俺の存在は、あまりにも稀薄だった。


 男の視線が持ち上がり、こちらを向く。それは俺をまっすぐと突き刺し、突き抜け、どこか俺のはるか後方に焦点を合わせる。俺たちがこうしている間、奴の目には俺という存在がまったく映らない。表情の褪せたその男の顔には、妙に光を失った瞳が二つ埋め込まれている。作り物のように。あるいは死体のように。そのプラスチックのような肌の表面にナイフを走らせたら、ちゃんと赤く生ぬるい液体が滲み出てくるだろうか。それを試してみたいと思い、それが試されることはなく、俺のジーンズのポケットに忍ばせてあるアーミーナイフは常に己の肌ばかりを切りつける。毎晩俺にだけ、傷痕は増える。


 俺の左腕、俺の脇腹、俺の胸、俺の首筋が、無数の切創や擦過傷に覆われていることについて、奴はまったく関心がない。俺は毎晩、自分の皮膚に傷をつける、そして俺は安堵する。目に見える傷や、体感できる痛みは良かった。その男に存在を否定され続ける間、俺はそうして、自分が実在することを確認できた。俺はそうして、奴の無関心に対して無関心を装うふりをし、奴と共有する時間と空間を生き延びた。


 俺たちの同居を提案したのは、奴の方だった。俺たちは同じバイト先を転々としていた。大抵クビになるのは奴の方で、俺はその度一緒にバイトを辞めた。その頃の俺は、その男の行くところにはどこにでもついて行き、その頃の奴は、決して俺を拒絶することがなかった。だから、俺が実家を出て、奴が「俺の部屋に来て一緒に暮らせばいい」と言ったときも、俺は当たり前のようにそうした。


 俺は当時すでに廃墟となりかけていた古いビルの一室で暮らしていたその男の元へ行った。俺たちは、一年間同居した。だが、三ヶ月前、ビルの解体が決まったとき、奴は一人で出て行った。これからどこで暮らすのかも、誰と暮らすのかも、俺には伝えずに、奴は一人で出て行った。


 奴は俺たちの共存を破棄しようとした。そして俺はそれを受け入れた。それが奴の理想とする、俺たちの関係におけるもっとも美しい結末なのだと、俺が信じていたからだ。


 だが、俺がこの部屋に越して来た次の日、奴はここへやって来た。それ以来、奴は毎日ここにいる。奴は毎日、ここへ通いつめる。そしてただ、そこにいる。俺が必ず二人分買って帰る晩飯には目もくれないくせに、俺の冷蔵庫にあるビールは断りもせずに飲む。普段は読みもしない本などを手に取って、俺の知らない「誰か」の存在をちらつかせる。感情の一切がキャンセルされた、振幅ゼロの眼差しで俺を見る。俺の存在を再否定するためだけに、奴がそうしているのではないかと、俺は疑い始めた。奴は毎日、ここへ訪れた。俺は毎晩、皮膚に新しい傷を作った。


 俺が再生作業を怠れば、レコードの中央へ到達したプレイヤーの針は行き先を失う。たちまち部屋中に無音が氾濫し、脳内でケミカルが叛乱する。それらは計画的に引き起こされる発作への連鎖だ。俺の視線の先、短くなりすぎた煙草に指を焦がされそうになったその男は、煙草の先端をソファの上に擦りつけ、またそこにひとつ穴を増やす。変則的なアクションに室内のテンションが傾く。直後、奴が静かに瞼を閉じ、俺はそのタイミングを逃さない。


 男が再び目を開けるまでのごく短い時間に、発砲スチロールのテイクアウト容器を蹴散らしてテーブルを乗り越え、俺は奴の上に来ている。鼻先にまで迫った俺の顔を見、しかし奴はまったく動かない。拒絶も甘受もない。身体中の筋肉を弛緩させたままで、ただ少しだけ唇の両端に力をこめ、笑う。


 腕を伸ばし、掴み、引き寄せ、勢いを利用して奴をソファの上に押さえつける。俺はすぐにその男を自分の下に支配することができ、それはいかにもたやすい。たやすすぎる。それが奴による否定行為のひとつに過ぎないことを、俺は知っている。奴の右手から投げ出されたボトルがフロアに小便臭い安ビールを垂れ流し、たちまち俺の鼻腔から喉までがその男の吐息と同じにおいで満たされる。俺の影に覆われ、男は不意に空になった右手を掲げて俺の前髪に触れる、だがそのとき、奴は確かに俺の腕の内側に走る傷のひとつに、その形を確かめるように指を這わせた。


「喰えよ」


「別に喰いたくなんかない」


「……その本をおまえに勧めたのは、どんな女だ」


「これか。おまえに勧められた」


 俺は男を解放する。


 床に転がり落ち、俺はまた膝を立ててそこに座り込む。綻んだTシャツの襟刳りに右手を突っ込み、鎖骨の辺りを力任せに十分ほども掻き毟っていると、背後で本を閉じる音が聞こえた。男はビールの水溜りの上に本を据えた手をこちらへ寄越し、古傷を掻き崩して血を滲ませている俺の指先を掴むと、俺の独りよがりな反復運動を抑止させる。奴がその気になれば、俺は腕力ではまったく敵わない。だがその圧倒的な力とは裏腹に、男の手は生命力も不透明に感じられるほど体温が低い。肩越しに伸びたその冷たい手を胸の前できつく握り返し、俺は膝を抱える。


 あとは、奴が吐き出した空気を俺が吸い込むという、単調で気が狂いそうな行為を、繰り返す。


 俺たちは、見事な平行線を描く。


 決して交わることなく。いつまで続いても。どこにもたどり着くことすらなく。


 それでもただ、俺たちは互いに寄り添う。


 この上なく、美しい形状を描く。





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