A Certain Casual Casualty──とある取るに足らない顛末




 見たことのないだろうものを見せてくれるというので、僕は彼についていった。


 皮膚を侵略する初夏の分厚い湿気のせいで、蛹の中のようなぬめった閉鎖感があった。脂肪の塊が押し寄せてくる感じだった。窮屈な空気は、腐り始めたゆで卵のようなにおいがした。背の高い葦原を分ける獣道の奥に、白濁した水を湛えた沼があり、僕らはその縁に並んで座り込んでいた。前方の空が白み始めて、禍々しい色をしていた。


 男は、片目だけを実にゆっくりと開く。


 眠らなくていいのかと訊ねると、男は稀にしか瞬きをしない両目で水面を見つめたまま、もうじき召集の時間だ、と言った。少しも眠くないのだ、いや、眠くないというよりは、ずっと眠っているような気がしている。僕はずっと夢を見ているような気がする。だって夢のような話じゃないか。僕が戦争に行けるなんて、夢のような話じゃないか?


 沼の表面に、青と赤と黄金の配色がきらきらと翻る。悪い病原菌か何かのようなそれは、鉛の管に似た形をした、めだかほどの魚の群れだ。男はそれが海の向こうからやってきたであろう珍しい温水魚であることを教えてくれた。彼は一晩中、魚の話をしていた。昨晩役場からの出征召集通知を受け取った彼が、僕のところへやってきたとき、僕は彼から何かとてつもなく重要な話を聞かされるのではないかと思っていたが、いつまで経ってもそういった話は一向に始まらなかった。おそらく僕は彼の「見たことのないだろうもの」という言葉に、何かたとえようのない壮大なものを漠然と想像していたために、生まれて初めて見るその病原菌色をした魚には短く感動すらせよ、数時間も経った今では落胆せざるを得なかった。


 彼は魚についての話を続けた。この小さな魚は生命力が逞しく、慣れない環境下でもどんどん繁殖する、ただし温度の低い水には弱く、冷たい水にさらされるとたちまち死んでしまう。実にあっけなく死んでしまう。だが、その死に様は実に潔いもので、僕はそれを見るために、時々彼らを冷水に放り込んだりするのだ。


 君は自分の死に方を決めているか、と、やがて彼は言った。僕が黙っていると、彼は、自分はお国のために死ぬのだと嬉しそうに言った。この時代に生まれてよかった。もっと平和な時代に生まれていたらきっと、僕は平凡で曖昧に訪れる死から逃れるために、躍起にならねばならなかっただろう。そうしたら僕はきっと、ずっとずっと苦しむことになっただろう。僕はこの時代に生まれてよかった。


 ああ、君のように、そのくだらない病や老衰で死んでいくなど、なんと辛かろう。誰の記憶にも留まらない曖昧な死をとげねばならない君は、なんと憐れなことだろう。僕の手で冷水に晒されて呆気なく、しかし潔く死んでしまうあの魚たちの方が、まだ君よりましではなかろうか。


 言い終えてから僕の方に向き直った彼の双眸が、その病原菌のような魚と同じ色を翻らせたのを見る。


 だから君を救ってあげよう、と彼は言った。応える隙もあたえられず、僕の首はすでに脂の滲んだ彼の両手の中にあった。


 予告もなく圧し掛かってきた彼の体重を受け、僕の体は一旦激しく硬直し、本能的に自分の身体を支配しようとするその男の力に抗おうとした。しかしながら意気揚々とこれから戦争に行かんとする者とそうではない者の違いは、端的に腕力の差として表れ、僕はたちまち湿った葦の生い茂る地面に背を追いやられた。彼の顔が僕の間近に迫り、その額には魚の細かい鱗を連想させる脂汗の斑点が光っていた。彼は僕の真上で明らかに昂奮しており、開襟シャツから覗いた喉仏は短い呼吸の反復に合わせて小刻みに上下し、怒張して熱を持った股間は、僕の腿に強く食い込んでいた。僕は両方の太腿に可能な限りの力を込めて己の股をきつく閉じた。失禁をこらえようとしたのと、彼から身を守ろうとしたのと、自分が首を絞められながら男の勃起に触れて昂奮しているのを諫めようとしたのがそうさせた。僕は数秒もしないうちに訪れるかも知れない自分の死という、やや非現実的な危機感に曝され、昂奮した。呼吸を途切れさせながら、僕は、自分が今怒り狂う彼の性器で喉を突かれているのだという錯覚を起こした。


 そして、それは起こった。男の肩越し、白み始めた空の向こう、消えていく星と星との間に、確かにこれまで見たこともないようなものを僕は眼にした。


 君にも見えたかい、と彼は言った。僕はその光景を網膜に刷り込むのを怠らないよう、麻痺してゆく感覚の中でしっかりと両目を開くことだけに集中した。自然とそれまで強張っていた全身の力が抜けてゆき、僕は脚を開いて彼を受け入れる。


 あとは、明日の新聞に小さくそのありさまを掲載されるような立派な殺人死体になることに努めた。





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