Symmetry of Ambivalence I




 この煙草を吸い終わったら出て行く、とおまえは言う。


 剥き出しのコンクリートの上、踏み潰された吸殻のような格好で、俺はおまえの煙草の先端が焦げ落ちてゆくのを逆さまに見ている。


 それは、自分の死を予期することに似ていた。俺は、その男がいつかそういう風に去っていくだろうことを知っていた。同時にそれは、まったく現実的ではなかった。興味の失せるような遠い先の話だと感じた。確実に生じる未来、だがそれが存在しないと思い込むのは簡単だ。俺はまだ十九で、自分の死を実感するには、その男との離別を実感するには、若すぎるからだ。


 視界が輪郭を失い、指の先はちりちりと痺れはじめ、安い酒を浴びすぎた感覚は次々と離脱してゆく。おまえは俺のことをよく理解している。俺はおまえのトリックに麻痺しかけた頬に、薄ら笑いを浮かべる。おまえは計算高い。いつだってそうだ。数分先じゃない、何日も、何年も先のことまで計算済みだ。だが、おまえはいつも、何も考えていないと言っていた。すべてはアクシデントの連続だ。この世界はアクシデントの連続に過ぎないのだ、と。


 窓辺に立ち、西日のオレンジを青白い顔に反射させながら、黙々と煙草を上下させるその男を、俺は床の上で背中を丸めて倒れたまま眺めている。テレビを観ているような感覚だった。廃墟と化したビルの三階の、この角部屋で、俺はいつもこの退屈で進展のないドラマを見てきた。この一年間、それはずっと繰り返された日常だった。この部屋でその男と共に暮らした一年間について、俺はジェット機が上空を通過するたびに呻く老衰したビルの骨格と、神経質にガタガタと震える窓枠、そしてその脇に立っているその男の横顔、それ以外に何も思い出せない。部屋の反対側の隅が俺の定位置で、俺はそこの床の上に両膝を抱えて座り込み、いつもその光景を見ていた。永遠などというものを信仰したことはなかったが、仮にそれが存在したなら、俺はこの部屋でずっとその男を眺めていてもいいと考えていた。


 俺はおまえに選ばれたのだと思い込んだ。思い込もうとした。おまえは大勢の中に身を置きながら、自主的に孤独を選ぶことを好んだ。だからおまえが「どうせなら俺の部屋に来て一緒に暮らせばいい」と言ったとき、それが「どうせそうやって延々とまとわりついているのなら、一緒に暮らせばその手間も省けるだろう」というおまえの俺に対する皮肉であるとわかっていながら、俺は気づかないふりをした。俺は翌日、この部屋へやってきた。おまえは「本当に来るとは思わなかった」と言って笑った。俺は、そんな風に「アクシデント」の延長で、同居人としておまえに選ばれたのだと思い込んだ。実際、そうに違いなかったのだ。おまえはいつも計算済みだからだ。同居人を迎えるなどという重大な決断を、気まぐれで下すとは思えなかったからだ。


 俺はおまえの部屋に暮らし、おまえのバイト先で働き、おまえがバイトをクビになると一緒にバイトを辞めた。だがおまえは、他の連中に対する無関心さと同等か、それ以上の無関心さを、俺に与えた。ある一定の時期から、この部屋の中における俺の存在自体は希薄になった。おまえは俺に指一本触れさせなくなり、俺の話は一方的で、そして遂には、俺は部屋の片隅からおまえを見るだけになった。詰め寄っただけの距離は同じだけ引き離された。だが引き離しはしても、おまえは決して俺という存在を切り離そうとはしなかった、今日までは。


 今日、午後一番におまえはバイトを辞めた。それにならって俺もバイトを辞めた。バイト先を出て、駅前のリカーショップに入り、一番安いジンのボトルをおまえは買い、日の高いうちから俺たちはそれをあおり始めた。一本のジンボトルに交互に口づけるという、その凶兆としか言えない行為の奇異さに、高揚していた俺は気づかなかった。 ジンボトルが空になるまで俺たちは公園の池の周りを散々徘徊し、酔っ払った足で電車に乗り、一駅先で降り、それから表通りをしばらく歩いた。


 陽が傾いて薄暗くなりかけた路地に滑り込んだ途端、俺は酔っ払った勢いでおまえの肩に凭れた。おまえは何も言わなかった。湿っぽいアスファルトの上に散乱した空き瓶の破片に躓き、足をもつれさせ、俺はおまえの手をとった。おまえは何も言わなかった。俺たちは静かに手をつないだまま、廃墟の玄関口を抜け、三階の角部屋まで行く。俺は背中を丸めて床に転がり、おまえは窓辺へと歩く。おまえはズボンのポケットから煙草を取り出すが、しばらく火をつけない。ようやくライターに火が灯される頃、俺は床の上で半分意識を失いかけている。最初の煙を吐き出してから、おまえは言う。この煙草を吸い終わったら、出て行く。


 その男との記憶がきれいに目の前を流れてゆくのを確認しながら、俺はこのまま自分が死ぬのではないかと考える。白く濁った窓の向こう、西に傾いた太陽と、その窓枠に上半身を凭れさせている男の唇から伸びた煙草の先端にある赤色のまぶしさに、俺はかき集められるだけの神経のすべてを集中させようとする。男が一度吸い込むだけで、煙草は目に見えて短くなる。


 この一年間、俺たちがこの空間に共存したという証拠は、何もない。写真一枚すらない。俺と、そこにいるその男の記憶から消えたら、何もない。ただ、俺がこうして黙って呼吸を繰り返す間、その男の長い指の間で静かに燃えてゆく煙草のように、その日々は俺が何もせずにいるうちに、静かに消費され、消失していっただけのように感じた。


 意識がさらに飛散する。俺はたずねる。


「……どこに行くのか、聞いてもいい」


 おまえは煙草を咥え、息を吸う。煙草は燃える。俺は続ける。


「……あの、契約は、まだ有効か」


 俺たちは以前、死んだら互いに臓器を提供しあうことを酔っ払った勢いで約束したことがあった。俺の心臓や、俺の目玉が、その男の体内に取り込まれ、その男の肉と溶け合ってゆくというそれは、俺の至上の妄想だった。


 おまえは短くなった煙草の先端を窓枠にこすりつける。やがてその顔がこちらを向くが、俺はもう、実際にそれを見ているのかどうかもわからない。


 おまえは足音も立てずに歩み寄り、俺の頭上へ来ると、膝を折る。俺は笑おうとする。


「……あの、契約は、」


 おまえも笑おうとする。そして静かに言う。


「俺がおまえより先に死んだら、有効だ」


 俺は、アルコールに完全に意識を奪われる。その瞬間、男が俺に口づけた。そんな気がした。その男と一緒にこの部屋で暮らした、そんなこともあったような気がした。なかったのかもしれない。


 恐ろしいほど素早く忍び寄った結末を、俺はただ無抵抗に受け入れる。


 煙草を吸い終わったら出て行く、とおまえは言う。


 俺はおまえと共存しようと焦がれ、共存して焦げ落ちる。






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