甦生
感覚はどんどん死んでゆく。
安っぽく雑多な感覚。俺たちは主体性を持たないことを選ぶ。
とうもろこしの粉が焦げるにおいを、俺はまだ嗅ぎ分けることができる。母親が自家製の白とうもろこしのトルティヤを台所で焼き始めたのだろう。昼食時が近いのだと俺は知る。だがそれだけ認識した途端、頭の中は唐突に焦点を失いはじめる。においはやがて麻痺し、それすら感じなくなる。何かを感じていたという曖昧な短い記憶があり、それもやがて消える。そしてただ、俺は真夏の真昼間にベッドの上で毛布をかぶり、セスの白いケツに性器をぶち込みながら、冷や汗をかいている。
感覚は死ぬ。もう、平日に何の理由もなく学校を休むことにも、母親が台所でトルティヤを焼く間にドアを開け放った自室で男と性行為に及ぶことにも、何も感じられない。唯一昂奮に似たものを感じていたこの男とのセックスすら、繰り返すうちに興味は薄れた。もう達することはできないだろうと考えながら、半分萎えたものを無理やり突っ込もうとすると、セスは眉間に皺を寄せてこちらを見ようとし、その過程で部屋の反対側でつけっぱなしになっていた十九インチのアンテナテレビに視線を奪われた。
「包囲したぞ」
サンディエゴ界隈のローカルチャンネルが7つ移るだけの旧型テレビの画面を見る。白く四角い建物の周りにパトカーが何台も停車している様子を、上空のヘリが映している。
高校のカフェテリアが占拠されたのは、一時間前のことだ。マシンガンを持った少年が立てこもっている。教室はすべて封鎖され、生徒たちは事態が鎮圧するまで一歩も外へ出ることを許されないため、今日は抜け出すのにちょっと苦労した、と二十分ほど前にここに来たセスは言った。
「
まるで戦争だぜ、とセスは緊迫感のない声で言い、笑う。俺はセスの青白い太腿を抱え上げ、性行為に集中しようとする。上手くいかず、画面の中にオモチャのように映るパトカーの数を数える。一、二、三、四、五、六、七。水色の夏服を着た警官が二十人ばかり、そのさらに前衛には防弾スーツとヘルメットを着用したSWATチームが十人ほど隊列を成し、カフェテリアの狭い出入り口前を封じ込めている。確かにその光景は、俺たちの貧相な脳みそが想像し得る程度の「戦争」に似ていなくもなかった。
「相手はガキ一人とマシンガンだぜ。いつものことなのにテレビ局のヘリが現場に着いた途端、チョタどもがこぞって顔を出しやがる。無料のPRだ。学校区とPTAのケツを舐めるのにちょうどいい機会だからだ。先月チコが一人、ティントにやられたからな。南のバリオの奴だ。フリオの友達だった。いい奴だった」
セスは、そのテレビの中で繰り広げられる事態のような芝居がかった抑揚の強い発音で言った。それは奴が俺の萎えかけた性器と格闘し、なんとか快感を保とうとしているためではない。それはセスが
立てこもっているのは、とセスは毛布の中で体制を起こし、俺を蘇らせようと工夫しながら言う。
「
未成年のために地上波では名前が公表されていないその立て篭もり犯のことを、俺は知っている。
昨日、ランチの後カフェテリアを出る際にすれ違い、明日は学校に来るな、とその男は俺に言った。まったく発音の濁らない、まったく英語の混じらないスペイン語で言った。
そいつとは、一時間目の英語のクラスで隣の席だった。頭のいい奴で、移民の連中はもれなく苦戦したシェイクスピアのマクベスをそいつは一晩で読破した。そいつの成績は間違いなくクラスでトップレベルだったが、奴は授業前に必ず行われる朝の「宣誓」の間、一度も椅子から立ったことがなく、そのせいで愛国家の白人教師に嫌われていた。
俺はその忠誠の宣誓というやつが嫌いだった。だがその嫌いという感情すらも、やはり希薄だった。ただ、毎朝起立させられ、天井の角で色褪せて煤けた星条旗に向かって、リズム感の悪く気の利いた韻のひとつも踏んでいないあの宣誓を、何ひとつ共感し得ないクラスメイトの連中と声を揃えて復唱するという行為が気持ち悪かっただけだ。
我々はアメリカ合衆国国旗に誓います――すべての人々に、自由と正義を。
子供の頃から言い続けてきたその宣誓を口の中で唱える間、俺は胸に手を当てることすらしなかったが、それはクラスのほとんどの人間がそうすることを怠っていたからにすぎない。俺は宣誓の間、じっと一人で椅子に腰掛けたままで口を結んでいるその男について、仄かな憧れを抱きはしたが、同じことをしたいとは思わなかった。
俺は飽き飽きしている、とそいつは言った。
勝ち目のある遠方での戦争にだけ莫大な金を注ぎ込むこの国に飽き飽きしている。その戦争に行けない自分に飽き飽きしている。黒人やチカノの振りをする白人、白人や黒人の振りをするチカノに飽き飽きしている。朝の宣誓に飽き飽きしている。朝の宣誓から「神」という単語を省くか否かなどというくだらない論争を延々とやっている大人どもに飽き飽きしている。わざわざ教室まで出向いてきて学校で進化論を唱えるなとか言うキリスト教会の連中に飽き飽きしている――
俺は黙ってその男の言い分を聞いた。だが、俺たちは誰一人として、飽き飽きとなどしてはいなかった。俺たちは別に平和主義なんかじゃない。俺たちは戦争を知らないから、平和も知らない。ただいつまでも、実害に遭うことのないつまらない平穏が続いていればいいと思っていた。いくらでもケツの穴を掘らせてくれるからという理由だけで、俺がこの白人男と付き合うように。セスが、このバリオで一番危険とは程遠い俺のようなチカノにケツを掘らせることで、そして無駄なチカノスラングを覚えることで、バリオとのつながりを保ち、身の安全を確保しながら、どこかに属した気になるように。今、俺とセスがこの場所から、テレビの画面を通して、カフェテリアでの「戦争」ごときものを遠巻きに見やっているように。
感情はどんどん死んでゆく。非常識なレベルまで無関心になる。性行為という直接的な快感のみしか実感できなくなるというのは、その他の人間らしい感覚がすべて失われていくということかも知れなかった。野生動物、いや、俺たちはそれ以下だ。この性行為すら、何も生み出さない。何も生まれない。完全なる無意味を追及するかのように。そしてこの無感覚は、俺から放たれる弱い精液を通じて、セスに伝染し、セスの精液からどこかのチカノに伝染する。少しずつ、俺たち全員が滅びていく、その予感だけを、確実に感じる。
どうして俺にその計画を教えたのか、と訊くと、奴は言った。
自分の本意を知る誰かが、目撃証人となる必要があるから。
俺には、意味がわからなかった。
それは俺がいつか、おまえに朝の宣誓などばかげているという話をしたことがあるからか?
それとも、おまえの時代遅れな「世間に飽き飽きしている」というスピーチを、俺が黙って聞いてやったからか?
俺は共感なんかしていなかった。
だが、今はなんとなく思う。
そいつは最後まで感覚を失わないようにもがいていたのではないかと、そいつの言う本意とは、そういうことだったのではないかと、なんとなく、ぼんやりと俺は思う。
少年が現れました!とテレビが叫び、俺の身体は痙攣した。「あ、」とセスは言い、背中を反らせて天井を仰ぐ。俺はテレビを見る。上空のヘリから映し出された少年は、蟻のような形をしている。触覚のように見えるのはマシンガンだ。くの字に折れた触角が持ち上がり、警察官の腕が一斉に前方に伸びる。
一瞬のうちに、蟻は踏みにじられる。
俺はありえないほどに全身を痙攣させ、達していた。そしてバカみたいに昂奮して大声を上げたセスの体重をぐったりと感じた。
頬にぬるい液体が流れるのを感じる。
俺の中に、にわかに感覚がよみがえる。
俺はまだ、そのにおいを嗅ぎ分けることができる。
俺はまだ、滅びたくはないのだ。
滅びたくない。
すべての人々に、自由と正義を。
[短編集] ベタベタ アオイ @highoncheese
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