09 講和条約
「――私は、死んだのだな」
「なにを馬鹿なことを仰るのですか、エル殿下!」
目を開けたエルが焦点も朧にそう呟くと、アトラが突進するような勢いで彼女を抱きしめ、わんわん声を上げて泣き出した。
「……エル殿下か。その方が、呼ばても嫌な感じがしないな。よし、死後、私のことはみなにそう呼ばせるように――」
「早く目を覚ましてください、殿下!」
ぴしゃりとアトラに怒鳴られて、ようやく焦点が定まっていなかったエルの瞳に輝きが戻る。
「む? む?」
彼女はしばらく首を傾げていたが、やがて恐る恐る自分の額に手を伸ばし、そこに穴が開いていないことを確認すると、ようやく状況を理解したようだった。
「い、生きてるのか、私は……?」
「そーですよっ!!」
アトラが目を真っ赤に泣き腫らしながら訴える。
「このような顛末です、殿下」
傍らに控えていたソダグイが、やっと半身を起きあがらせた――とはいえそれにアトラが抱き着いていたため、たいそうやり難そうではあったが――エルに、抱えていたものを恭しく手渡す。
受け取った彼女は、しげしげとそれを眺め、やがて溜め息をついた。
「兜のみを撃ち抜く技量の弓兵だと? これは、
光波外皮。
それはフォマルハウト王家に連なるある一族が献上した品であり、おおよそ王家の焦熱呪法でも破壊不可能とされていた品物だった。
その光波外皮製の兜の、眉間の位置、そして後頭部に、黒々とした破壊の跡が刻まれていた。
その奈落のような穴に指を通し、呆れ混じりの苦笑を浮かべながら、エルはソダグイに尋ねた。
「で、勝者殿は何処だ?」
「はっ、それが……」
ソダグイは、実に言いづらそうに、答えた。
「自ら、牢屋に入っておられます」
◎◎
「この卑怯者! 勝ち逃げは許さんぞ!」
顔を真っ赤にしながら、怒りもあらわに陣地内の牢屋に怒鳴り込んできたエルを、牢内の樽に腰掛けたヤナクは、うつむきがちに迎えた。
といっても、その肩は小刻みに震えており、時折吹きだすような音がエルには届いていたため、彼がいまにも笑い出しそうになっているのを必死に我慢していることがよく解った。
「この、不届き者め!」
格子戸を蹴り飛ばしながら、主人の代わりに罵声を浴びせるアトラをなんとか押しとどめ、エルはヤナクに尋ねる。
「貴様……なぜ私を殺さなかった?」
「あー、そりゃ、殺しちまったら困るからだよ。魔族だろうが人間だろうが、まずは生きてなきゃ、話は出来ないだろ?」
「どういう意味だ?」
どうもこうもないと、顔をあげてヤナクは告げる。
そこには清々しい、南風のような笑みが刻まれていた。
「前提条件として、姫殿下には生きたまま負けてもらわなきゃーならなかったんだ。ついでに言えば、あんたらの兵卒ひとりに至るまで、俺も、俺の配下も傷を負わせるわけにはいかなかった。いやー、これが案外手間でな、おいちゃん苦労のしっぱなしで!」
「なぜ、そのようなこと面倒な罠を張られたのですかな、ハイペリア皇国の皇子殿」
陽気に笑うヤナクを遮る形で、その巨漢をブルンブルンと揺らしながら追いついてきたソダグイが問いかける。
ヤナクは人好きのする笑顔を浮かべたまま、ソダグイに答える。
「そこの黒髪侍従や姫殿下より、あんたのほうがよく解ってそうだもんな。なんのための罠だったと思う?」
「……殿下」
ソダグイが傍らのエルに伺いを立てると、彼女は赤い髪を無造作にかき上げ「構わん、許す」と、言葉少なに許可を出した。
ソダグイは頷き、ヤナクに答える。
「殿下を油断させるため。単身で、あなたと戦う土俵に上げるため、ですな?」
「おー! やっぱりわかるか! その通りだ」
喝采を送るヤナクを、エルが凄まじい目つきで睨みつける。
彼女の眼は、どんな言葉よりも強い詰問の意志を帯びていた。
放置すれば首筋に牙を突き立てると、雄弁に黄金の眼差しは語っていた。
ヤナクは軽く肩をすくめ、それから居住まいをただし、ようやくらしい態度で、エルたちを見た。
すなわち、威厳に満ちたそれで。
「俺の目的はひとつだ。ハイペリア皇国は、フォマルハウト帝国と講和を結びたいと思っている」
「こ」
講和!?
三者三様の、そんな台詞が牢屋の中にこだまする。
アトラはただ驚きに目を丸くし、ソダグイは目付きを鋭くし、そしてエルはいまにも舌打ちをしそうな表情を浮かべる。
「そうか、それで私が敗北するという事実が欲しかったのだな」
「その通りさ。あんたが負けてくれた、あんたの命を一度は俺が握り、見逃した。帝位継承権第一位の運命が左右された。この事実があれば、十分可能だろう、即ち――講和が」
「条件はなんだ、民草すべて、国の一つ丸ごとをかけた大博打だ、なにを代償に要求するつもりだ」
エルの問いかけに、ヤナクは頭を掻く。
「いや、俺もまさか、あんたがあそこまで用心深いとは思わなかったのさ。コウキョ城の包囲までさせて、ようやく一合の隙が生まれるとか、どんだけ用心深いんだよ、まったく苦労したぜ……」
「世事はいい、早く聴かせろ。その上で、断ってやる」
怒りに任せ、帝国の灰燼姫がそう告げる。
その身体には魔力が迸り、いまにも暴発しそうになっていた。
「まあ、そうなるよなぁ……だが、話しは最後まで聞くべきだ。講和の条件はひとつ。ハイペリア皇国を、一己の独立国家として扱うこと。その約定が破棄されるまで、この国民にハイペリア皇族の総意なき負担強いらないこと。以上の二点だ」
「はっ!」
それを、エルは一笑に払する。
馬鹿馬鹿しいと彼女は思った。そんな条件を飲んでやる理由は、帝国にはひとつたりともないと。
しかし、ヤナクはこう続けたのである。
「もし、この条件が呑まれるのなら……ハイペリアはフォマルハウト帝国の同盟国として扱ってもらって構わない」
「――なに?」
「国としての、民としての独立が約束されるのなら、同盟国として協力することを――否、おおっぴらにいえば属国としての扱いを甘んじて受けると言ってるんだ。此度の大陸間戦争に置いて、ハイペリアは全力でフォマルハウト帝国を支援することを約束しよう。この地を中継基地にすることも、軍備を貸すことも、そして俺自身が前線に出向くことも、すべて飲むと言っているんだ。まさか、これが意味するところが解らんほど、頭に血が昇ってるわけでもないだろ?」
彼のその言葉に、その場にいた、帝国のもの全員が絶句した。
ヤナクはつまり、こう言ったのである。
大陸間戦争の要所にして要衝、絶対のアドバンテージを与える国家、ハイペリア。
それが、帝国のためにすべてを尽くすと――
「それは」
戸惑いを隠せないまま、しかし、第一王女という立場上、彼女以外に口を開けるものはなく、エルは、動揺も露わに問いかけた。
「それは、誰が決めた条件だ。皇族か、それとも噂に聞くハイペリアの王コンジョーコウオーの独断――」
「民と、そして俺が決めた」
それまで樽の上に腰掛けていたヤナクが、ずいっと立ち上がる。
長身の青年であった。
褐色の肌は張りに満ち、勇壮な筋肉がその全身をよろっていながら、太いという印象を与えない、まさに弓のようなその男は、遂に名乗りを上げる。
「ハイペリア皇国、元皇位継承権第七位にして――現皇王ハイペリア・ベル=ヤナク・コンジョーコウオー。民の祈りを聞き届け、俺が、それを定めた。故に、どうか異国の姫君よ」
我が願いを聞き入れたまえ。
ヤナクの全身から、銀の粒子が燃えるように吹き上がる。
膨大な量の魔力――それこそが、隠しようもない王としての証だった。
「――――」
その様に彼女は。
エル・ラ・クタニトア・ド・フォマルハウトは、ひどく奇妙な感慨を甘受していた。
(そう、これは――悪くない。私は。私は、私を打ち負かしたこの男のことが――嗚呼……)
「……よかろう。その旨、本国に伝えてやる」
一拍の逡巡のはてに、エルは、口元に兇悪な笑みを浮かべ、そう明言した。
幻夢歴1999年、春の第二週。
フォマルハウト帝国によって行われたハイペリア皇国に対する侵略戦争は、死傷者無し、実害無しの無血をもって、講和という形で終幕を迎える。
それが後に、世界を揺るがす最終戦争――弓聖戦争の発端となることを、このときエルは、まだ知りもしなかった。
灰燼姫エル・ラ・クタニトア・ド・フォマルハウト。
まだ運命を知らぬ、春のことであった──
第一章 終
第二章 星辰の位置が揃いしときに……
ハイペリア弓聖録 ~灰燼姫と銀の皇~ 雪車町地蔵@カクヨムコン9特別賞受賞 @aoi-ringo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ハイペリア弓聖録 ~灰燼姫と銀の皇~の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます