憑依

枕木きのこ

憑依

 妻を殺してしまった。

 先刻、仕事から帰宅し、着替えを済ませ飯を食らおうと思ったところ、それが用意されていなかった。妻はテレビドラマを見ながら、「だって遅いから」と一言落とすと、その口でせんべいを噛み砕き始めた。

 引き金と言えば、それが引き金だった。ただ、往々にしてそうであるように、決してそれだけが要因というわけではない。

 結婚して十一年。思えばそれ以前から、私と妻はすれ違いの多い関係だった。デートの日にちを一日間違えていたり、お昼を和食にするか洋食にするかで譲り合ったり、よく十五年も最も身近な存在として関係を続けているなと思ってしまうほど、性格も、趣味も、時間の感覚も、ずれていた。

 きっとひとえに、愛のおかげなのだろうが、その瞬間、私はそんなことを考える余裕がなかった。

 世間はもとより、家庭においても肩身の狭い思いをしながら煙草を吸っていなければ、思い切って禁煙さえしていれば、そのガラス製の灰皿で妻の頭を思い切り殴ることなどなかっただろう。

 いや、人身事故による電車の遅延がなければ。

 あるいはそもそも、急な残業を言い渡されてさえいなければ。

 私は妻のことを殺すことなどなかったのだろう。

 しかしドラマや小説と違って、奇跡も、殺人も、本当に些細なきっかけで起こるものなのだ。


 初めて見る他殺体が妻、という人間は、世の中にどれくらいの割合で存在するのだろうか。そもそも他殺体を見てしまう割合はいかほどか。

 これまでに、祖父母、そして父を亡くしたが、どれもこんなに無残ではなかった。もちろん、それらは病死であったし、亡くなってしばらくのち、綺麗に整えられたものしか知らない、という意味である。妻もきっとそうなるだろうが、それは、いつだろうか。

 報道で流される意味合いの「事件」という単語を、これほど身近に感じたことはない。いっそ生前の妻よりも身近な話だ。私は殺人犯人として捕まってしまうわけだが、獄中生活というのはブラック企業よりどれくらい辛いのだろうか。あるいは逆なのか。

 血の付いたままの灰皿をそのままに、返り血を浴びた眼鏡だけ綺麗に拭くと、換気扇の下へ移動して煙草に火をつけた。思ったよりも冷静であるが、うるさく言うはずの人間はもう起きてこないのにこうしてわざわざ移動してしまうあたり、突発的な殺人よりも、連続的な習慣のほうが恐ろしく思える。

 立ち上る煙を眺めながら、まあ、いい機会かもしれない、と考えている。会社を辞めるにも、人間を辞めるにも。私はもう、疲れ果ててしまったのだ。

 次第にそれのごとく、意識が不明瞭にぼやけていく。ともすれば周囲との隔たりさえわからなくなり、自己が霧散していく感覚があった。疲弊感か麻痺かも判然としないまま、とりあえず、この一本を吸ったら警察に届けようか、それとも旅に出ようか、思案を巡らせている。

 ——じりりりりり。

 目覚まし時計の音にハッとすると、一瞬前と比べてずいぶんと灰に変わった煙草が、今まさにぽとりとそれを落として、慌てる。

 壁掛け時計を見ると午後十時四十七分。二、三分ぼんやりとしていたようだが、こんな時間にアラームを掛けた記憶もない。煙草をもみ消すと、寝室へ移動する。

 近づくほどにうるさくなるあたり、妻によく似ている。近すぎるのも、いいものではない。

 トン、と頭を叩くと、

「いたっ」

 妻の声が聞こえてきたので、思わず振り返ったが、逡巡するに、今の声はリビングではなく目の前から聞こえた。視線を戻すと、

「もう、何よ」

 妻の声ははっきりと、その目覚まし時計から聞こえてきている。

 私の頭は疑問符に溢れたが、その行間にわずかながら、殺せてなかった、という一文が紛れ込む。それが前向きなのか、後ろ向きなのか、あまり深く考えなかった。

「え、なにこれ、あなた、でかくない?」

 妻はあまり状況を理解できていないようだ。もちろん私もである。

 一応の事実確認のため、

「そりゃあお前、目覚まし時計になっているから」

 答えてみると、

「ああー、なるほど」

 気の抜けた返事が小さく鳴る。

「なるほどってお前」

「理解はしてないけど、まあ、納得はした」

「俺には無理だ」

「私、あなたに殺されたのよね――?」瞬間、寂しそうに聞こえたが、「でも、仕方ないよ。きっとこれは神様のお慈悲。私たちがちゃんと、同じように時を刻めるように。もう一度、チャンスをくれたんだわ」

 妻はそうはっきりと、私に告げるのであった。


 妻が目覚まし時計になってしまって、私に困るところはなかった。却ってそれが悩みの種になってしまうほど、平穏であった。

 妻の抜け殻は、関節ごとにばらばらに崩して、夜中のうちに近所の山奥へ埋めた。それは妻の勧めであった。目覚まし時計になった妻は、人間としての妻であったときの意識や記憶をきちんと引き継いでいたために、自分が死んでいることをよく理解していた。すなわち、仮に目覚まし時計としてどれだけを過ごしたところで、人間の姿には戻れないということを、である。

 そうならば、このせっかくの機会を、私の逮捕と言う形で終わらせてしまうよりも、お試し感覚であれ人間と目覚まし時計の共存を経験してみよう、という心持らしかった。こういう楽観的な部分も、私たちが根本から理解しあえなかった要因ではあるが、今回の私は従順だった。一応、一度殺してしまった負い目がある。

 目覚まし時計には、当たり前だが手足はない。今までのように食事を用意し、洗濯をし、掃除をし、ということは、今の妻には不可能である。せいぜいが、朝、決まった時間に起こしてくれるくらいのものだったが、それも妻の性格が憑依したせいであまり信用はできない。ともに寝過ごし、遅刻し、私だけ怒られてしまう、ということがたまにあった。

 しかし私は妻を怒りはしない。何せ目覚まし時計である。怒ったところで変わらないのはこれまでと同じだが、そんなことで怒って夜中に騒音を鳴らされても困るからだ。妻の姿がない以上、近隣から苦情を言われ謝罪を行うのは私なのである。そんな面倒ごとをわざわざ作成する気には到底なれない。

 何より、妻に手足がなくなったことでこれよりも身体的自由が多分に増えた。生活費も単純計算で半額。となれば、好きなときに風俗に行ったり出会い系の女たちと連絡を取り合え、発散の形は今までよりも柔軟性を持ったのだ。何も妻にあたる必要はないのである。もちろんアラームを止めるときだって至極優しく、撫でるように押してやったものだ。

 そうして私たちは、人間と目覚まし時計という特殊な形ではあったが、順調に生活を続けていた。

 ——はずであった。


 目覚まし時計を壊してしまった。

 先刻、仕事から帰宅し、着替えを済ませ飯を食らおうと思ったところ、うっかり食材が切れていることを忘れていた。妻はテーブルの上で時を刻みながら、「なんか太ったしいいんじゃない」と一言落とすと、秒針をくるくる回して遊び始めた。

 引き金と言えば、それが引き金だった。ただ、往々にしてそうであるように、決してそれだけが要因というわけではない。

 妻が目覚まし時計になって二か月。思えばそれ以前から、私と妻は目線の異なる関係だった。いわゆるサブカル色の強い漫画を好んだり、やたらと服にこだわり散財したり、よく十五年も最も身近な存在として関係を続けているなと思ってしまうほど、見えているもの、見せたいものが異なるのだ。

 きっとひとえに、愛のおかげなのだろうが、その瞬間、私はそんなことを考える余裕がなかった。

 言ってしまえばほとんどが八つ当たりだった。不意に掴まれた妻は遊びをやめて音を鳴らしたが、私はそれを無視して思い切り壁に投げつけた。すると妻は人間のころよりもずっとばらばらになって、床に散らばったのだ。

 すっきりしたか、と言えば、微妙なところだった。

 私と妻は、夫婦になってはいけなかったのだ。妻の、そしてもちろん私の、性格に問題が多すぎた。二人とも最初から、正確に時を刻んでなどいなかったのだ。

 自首しよう。

 理解などされないだろうが、私は妻を二度も殺した。これは、状況に甘んじることなく、妻との離別をきちんと身体に刻み付けるほか、脱却する術はないということだ。私と妻が、加害者と被害者になったのだと盲目的に理解するしか、もはやないのである。


「——あれ?」

 しかし、神と言うのは、どうやら私には優しくなかった。

 すぐ近くで、妻の声がする。

「今度は眼鏡になったみたい。きっと私とあなたが、同じものを見れるように――」


 私は妻をケースにしまい込むと、目を瞑り、深いため息を吐いた。

 明日、これを山奥に埋めたら、コンタクトを買いに行こう。

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