鳥籠

あずみ

鳥籠


 部屋の中は表通りの街灯の明かりが微かに忍び込んでくるばかりで,ただしんと静かだった。ロンドンの夜は騒がしいが,この時間になってしまえば,街は一気に眠りにつく。家や馬を汚す漆黒の石炭の煤が辺り中に敷き詰められているような,重苦しい,湿った夜だった。

 ナタリーはさらさらと衣擦れの音を鳴らしながらそっと鏡台の前に立った。夜闇の厚みがそこだけ薄くなっているのは、鏡が昼間溜め込んだひかりをじわじわと洩らしているからだろうか。薄闇を透かして、胸元のあいた紫のドレスを着ている若い女の姿が肖像画のように収められていた。

 巻いて結い上げた長い金髪。少し色黒の首筋。たよりなく視線を彷徨わせる灰色の瞳。低い鼻。小さめの唇には、控えめに紅が塗られている。本当は、頬に浮いたそばかすも流行の美顔水やおしろいで隠したいのだが、ナタリーは生まれつき肌が弱く、すぐに顔中が吹き出物だらけになってしまうので、そうすることもままならなかった。そして、いくらパッドや針金細工で整えてもごまかせない、体のつくりの粗さが、ナタリーの最大のコンプレックスだった。背が男のように高く、肩幅があり、痩せている。痩せている、と言っても、硝子つくりの道具のような繊細な線の、はかない美少女であったなら、だいぶ印象が違うものなのに、とナタリーは思う。いくら美しいドレスで身を飾っても、胸元の大きく開いたドレスの形ゆえに、ごつごつとした肩と色の黒さが強調され、まるで、田舎娘のように洗練されていない印象を与える。そして、必要なところに肉がついていない、女らしくない体――。

 そのような外見であったため、ナタリーが唯一誇りを持てるものと言えば、花から零れた蜜のような、見事な金髪くらいのものであった。

(誇り? いいえ、違う。価値だわ)

 ナタリーは後れ毛に手を遣りながら、溜息を漏らす。

(私は価値のない娘だった。家は裕福ではないし、私はこの通りの外見の、つまらない女。)

 けれど。

 ジェームズは違った。大勢の大輪の花の中から、ナタリーを選び、求婚してくれた。その頃のナタリーと言えば、みどりなす草原を馬で疾駆するのが好きで、祖父に「世も末だ」と嘆かれた、正真正銘のおてんば娘だったと言うのに、それでもジェームズは優しい笑顔を自分だけに、向けてくれた。

 結婚してからも、変わりのない愛情を向けてくれるジェームズに、ナタリーの心はゆるゆるとほどかれた。持っている愛情が人より多いのに違いない、と、照れ隠しにナタリーは友人に話したものだった。ひたすら愛してくれるから、愛し返す他はない。ナタリーは慣れない化粧を覚え、自分を飾り、ジェームズの恥になるまいとした。ただ、必死で。


「戦争に行くことになった」


 ジェームズが夜食を取りながらそう告げた時も、ナタリーは何食わぬ表情を取り繕って、気をつけて行ってらっしゃいませ、と言った。そうすることが貴婦人だと思っていたし、泣き叫んでジェームズを困らせるような、無邪気な年でももうなかった。ナタリーは、二十一歳になっていた。ナタリーは寝所でそうするように――そうすれば子供ができないと信じられていた――「情熱なき女」の仮面をつけて、氷の彫像の如き顔で夫に接した。否、そうすることでしか、胸の中で荒れ狂う感情に立ち向かう術がなかった。ジェームズはぽつり、そうか、と答えて、それきり一言も喋らなかった。彼のナイフとフォークを使う音だけが、控えめに部屋に響いていた。

 あの時のジェームズの横顔が、忘れられない。

(だから、これは、当然のことなの。)

 ナタリーは、ドレスを脱ぎ始めた。いつも着替えを手伝ってくれる女中には、もう暇を出してしまっていたから、苦労して、自分で脱ぐ他ない。幸い編み上げが前についているドレスだったので、なんとか自分でほどくことができた。ドレスを丁寧にベッドに広げると、リンネルのスリップを脱ぎ、コルセットを外した。途端に息が楽にできるようになり、ナタリーはほっと息をつく。背中を思い切り伸ばしてから、鏡を見つめた。

 ナタリーは一糸、も体に纏いはしていないが、ただ、彼女の下半身は巨大な鳥籠に覆われていた。鳥籠は彼女の腰から膝元まで広がっており、ナタリーが動くたびに僅かに揺れる。パニエだった。それのおかげで、一日中くつろぐことも昔のように走り回ることも叶わない。ドレスを広げるためのそれの中には、おてんば娘だった頃のナタリーが閉じ込められている。乗馬を愛し、狩りや剣を得意とする、毎日が楽しい事の連続だった頃のナタリー。今のように、窮屈な社交界で身を縮めることもなく、あの頃着ていた服のように、伸び伸びとできる生活が、懐かしい。

「今、出してあげるね」

 ナタリーは年の離れた妹に言うような口調で呟き、パニエを外した。

 涙が出そうになるのを、必死で堪えながら、ナタリーは軽くなった足取りで鏡台に歩み寄る。うれしいのか、かなしいのか、困惑しているのか、不安なのか、最早ナタリーにはわからなかった。ただ、後悔することはないだろうという確信だけはあった。

 鏡台の上のこまごまとした道具を入れてある小箱を取ると、ナタリーはその中から鋏を取り出した。

 あいている方の手で自慢の金髪をかき乱して、ほどき、切りやすくする。

 そう、ナタリーは、髪を切ろうと、していた。


 手紙が来たのは、一週間前だった。

 筆不精な夫からの手紙を、どきどきしながら開封すると、夫の字ではない筆跡で、ジェームズが大怪我をした、と書いてあった。幸い、命に関わるほどではないらしいが、ナタリーの迷いをふっきる理由としては十分だった。手紙を読んだ瞬間の、あの、どくどくとこめかみの血管が沸騰するような、手足の先が凍るような、あの感覚よりも怖いものなんて、この世には、ない。

 自分の夫を、迎えに行く。

 可笑しいだろうか。笑う人間は、きっと沢山いるだろう。けれど、他人の言うことなど、どうでも良い。ジェームズは、きっと笑わない。ナタリーが馬に鞭をくれる様子を見て楽しそうに笑ったあの人なら、きっと、おまえらしいと喜んでくれるだろう。もし、そうして喜んでくれて、しかし軍隊に残りたいと言ったら、自分も隊に入ろう、と、ナタリーはそこまで決心していた。そのために、そして道中の危険を避けるために、ナタリーは男物の服と帽子、ウイッグ、そして銀の短剣をこっそりと用意していた。男装するために。

 そのために、髪を切る――。


 水に濡らした髪を、自慢の金髪の巻き毛を、ナタリーは一思いに切った。ぱさり、ぱさりとこがねの糸が絨毯の上に落ちて模様をつくる。広い肩を、痩せた胸を、骨ばった背中をかすめるようにして、髪が落ちていく。

 ナタリーは、泣いていた。涙をこらえることはもうしなかった。短く切り揃えられた髪が、パニエを脱ぎ捨てた体が、とても軽くて、自分の体がいとおしくて、涙がたえず流れてきた。切られた髪が、濡れた頬に――そばかすだらけの頬に張り付いたが、気にならなかった。もう、そばかすなど、色気のない体など、どうでも良かった。

 ジェームズに、会える。会いに行ける。もう貴婦人ぶって話す必要などない。おてんばナタリーのまま、お化粧をしない素のナタリーのまま、ジェームズに、会える。

 鏡の中のナタリーは、澄んだ強さに満ちた眼差しで、立っていた。髪は素人が切ったものでとてもきちんと整えられているとは言いがたかったし、その所為で余計に男っぽい粗い印象を与える外見になっている。けれど、ナタリーの裸の体は、外からのひかりをうけて、仄かに月色に光っているような感じさえした。神々しかった。

(生まれなおした、みたいなかんじがする)

 ナタリーはぐい、と乱暴に、唇を手の甲で拭う。紅が剥がれて、唇の外に赤い線が一本描かれた。自然、口元から笑みが零れる。

(待っていてね、ジェームズ。会いに行くから。抱き締めるから。)

 ジェームズは男装した自分に気づくだろうか。自分を見た瞬間のジェームズの顔を思うと、笑ってしまう。喜んでくれるだろう。怒ってくれるだろう。そうして、抱き締め返してくれるだろう。ああはやく、はやくあなたに会いたい。


 男の姿をしたナタリーが、小鳥のようにそっと屋敷を飛び立ったのは、夜明け前のことだった。

 ロンドンの雲に覆われた朝が始まるその時、彼女はもう、いない。



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鳥籠 あずみ @azumi

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