その9
おれは入院してから43日目で退院することができた。
大げさな荷物は面倒くさいので実家へ郵送し、リュック一つとなったところで遺伝子整形終了証明書というものを葉瑠から受け取る。
「月に1回は検査した方がいいらしいよ。しばらくは入れ替えた細胞が変な腫瘍をつくらないかチェックするんだって」
ということで、おれは来月の受診予約をする。
「じゃあまた連絡するよ。今週中にでも飲みに行こう」
「退院祝いしなきゃだもんね」
手を振って葉瑠と別れ、おれは医療センターを後にした。外は相変わらず天気がいいが風が強く、せっかく整えた髪の毛がどんどん乱れていく。海も見えるが陽が強いせいで輝き過ぎている。テレビ局の横を通り、ゆりかもめに乗って新橋に向かう。そこから一度某都市へ移動し私鉄へ乗り換え予定だったが、すぐにはせず、一度外へ出てみた。
駅構内を東口方面へ歩いていると、混雑が徐々に膨らんできた。その人の多さを見て、今日は土曜日なのだと思い出す――改札は南口からにしよう。
道を挟んだバスターミナルを正面に外に出る。それでも人は多かった。この街で気候の恩恵を感じるのは無粋かもしれないが、やはり天気はいい。
道沿いに東南口方面へ――センスばかりが煌めき過ぎている色物のバンドマンたちの演奏をテーマソングに歩いていく。
東南口では、今度はセンス皆無のお笑い芸人の卵たちが女性へ声を掛け、ステージに来てほしいと客引きをしていた。困った愛想笑いの清楚な若い女の子と、その様子に自分も困りながらなおチラシを渡そうとする出っ歯の男がいる。
階段を下り、混雑を避け路地に入りつつ歓楽街方面へ向かう。ここからは出勤前にいつも歩いていた散歩コースになる。
バスの運転手をしていた時のおれは、基本的には早朝出勤だった。まだ陽が昇る前にこの駅へ付き、歓楽街あたりをふらついてからバスターミナルへ向かっていた。
渋谷は再開発が終わり、清潔な街に生まれ変わった。しかしこの街は未だ平成の面影から進歩がない。綺麗にしようとしても、この街は変わらず汚れるのだ。“この街”は、きっとどんなに開発をしても――いつまでたっても“この街”なのかもしれない。
休日の昼間。
人々は友達や恋人や家族やあるいは一人で街を歩き、楽しそうに話をしながらそれぞれの目的地へ向かっている。
おれは、この街が好きだった。
整理されず混沌のまま育ってきた都市。駅前から決して移動しようとしない果物屋。真夜中に繁盛する花屋。親切なのか騙そうとしているのかわからない客引きの(ような)男たち。ネオン。
しかし、どうしてだろう。
おれはもう、ここに居てはいけないような気がした。なにかわからないが、一種の罪悪感のようなものが心で渦を巻いている。
汚くて、汚くて、汚くて、汚くて、しかしどこか気高い、そんな街だ。何かを得て何かを失ってしまったおれは、一言さよならと呟いて踵を返し、駅へと向かった。
月曜日の昼間。
遺伝子整形終了証明書提出のため、おれは職業安定所へ向かった。某都市とは異なり開発された、広く歩きやすい道を歩く。おれが小さい頃、“この街”は“この街”ではなかった。綺麗だが街に人は少なく、淡い緑と白が基調のおしゃれな駅ビルにはすでに空きテナントが目立ちはじめている。
なにより目的地までのわかりやすいので、人々の足取りは軽快かつ迷いがない。数少ない人も、あっという間に通り過ぎ姿をけしていく。
職業安定所に到着した。
なぜ仕事がないのか罵倒する男の声がする。なんとか希望する職に付きたいと泣きつく女の声がする。それに対し体を売ればいいと嘲る声がする。
相変わらず職業安定所は荒れていた。
総合窓口で、以前担当してくれた人をお願いする。ソファで待つように言われ、おれは比較的落ち着いた雰囲気の中にあるソファを探した。スーツの男2人が静かに座っている、その横に空きがある。おれはそこへ腰掛け、リュックから証明書を取り出し、面接に備えた。
窓口の方へ顔を上げてみると、あの時の担当が今は別の人の対応をしている。しかしそれもすぐに終わり、おれの名前が呼ばれた――ところがおれが立ち上がろうとした時に、隣のスーツの男2人が腰を上げ、おれよりも先に彼の窓口へ近づいていく。順番を守るよう注意してやろうとした所で、男たちは彼に黒い手帳を見せつけた。
「警察です」
「少しお話を伺いたい。あなたの上司にはすでに内密に連絡をいれています」
彼は振り返って、彼の上司と思わる女性の方を見た。上司の女性は目を背け、書類をゼムクリップでまとめる作業に戻る。
「わかりました」彼は刑事を名乗る2人に毅然とした目で応える。「しかし、もう私の役目は終わりました。おかえりなさい、松村さん」
にこっと笑った担当と目が合った。2人の刑事もおれの方を見る。
担当はカウンター席からこちら側へ落ち着いた様子で移動し、刑事に「少しだけ話を」と呟き、おれの方に向かってくる。
「ギリギリお会いできてよかった」と担当は言った。「私はこれから逮捕されます」
「ずいぶん冷静ですね」
「そうですね。でも、分かっていましたから」担当はクスクスと笑う。
「なにがあったんですか?」
「不正をしました。自然遺伝子所持者自立支援制度の対象者を、私が不正操作をして選定したのです。年間数百人しか対象にならない制度ですが、そのうちあなたを含め十名分ほどですね。気付かれることは前提でした。あぁ、手術を終えてしまえば責任はすべて国が負うことになるので、松村さんは医療費負担などなにも心配しなくて大丈夫です」
刑事の男2人も彼の自白のような話を聞いているが、長居したい風でもない。おれは自然を装って(不自然かもしれないが)グラスをかけてみた。刑事の身分を参照できる――が、その通知は本人たちにも送られるようだ。それは刑事の事を知ろうとしていることを刑事たちも知ることができる仕組みだった。
おれは担当にも視線を向けてみた。
身分証明は表示されない。これについてもなんらかの不正をしているのだろう。
「グラス、似合いますよ」担当は余裕綽々とソファに座り、おれも隣に座るよう促すので従った。「病院では――昔のご友人とは出会えましたか」
その言葉に、おれは自分の間違いに気づいた。確かにおれの人生は調整されていたが、それはどうやらAIだけの仕業ではなかったようだ。なにか見えない部分で大きな力が働いているように思える。
答えないおれに向け、担当は続けた。「彼女とあなたが繋がることは、私の願いでもありました」
「あなたは個人で動いているのですか?」
「我々はそれを明かしません」
誰にでもわかる含みが込められた言葉だ。これはこの担当がおれをからかっているのか、それとも今後の会話の中でも何らかの真意を紛れさせると示唆しているのか――ともあれ後者のつもりで話を聞いておいても無駄ではないだろう。
「彼女はおそらく言わなかったでしょう。実は彼女も数か月前にあなたと同じ制度の対象となり、そして遺伝子整形を受けているんです。もちろん彼女も私が選定しました。私としては、優秀な人間同士が交配し子孫を残してくれた方が助かるんです。わざわざ不正行為をしなくても優秀な人間を増やすことができる」そして視線を正面のどこか遠くへ向け、次には真剣な表情になった。「今の人間は府抜け過ぎている」
担当は足を組んで、そこに両手を絡ませる。
刑事の男2人はごそごそと話し、担当の両脇に立った。そろそろ行くという合図だとわかる――しかし担当は構わず続けた。
「これだけ目に見えて私たちの生きるフィールドが奪われはじめているのに、それを守ろうと奮起する人間が少なすぎます。そして世の中の多くの人間は、一度AIに奪われた仕事はもうAIだけのものだと信じ込んでいる――しかし、実際はそうじゃない。決してそうじゃありません。私はそれを“あなた”のような人たちに証明してほしいんです」
「ちょっと待ってください」おれは少し混乱した。「あなたはAI側ですか? それとも人間の側?」
AIは世の中を調整している。担当はその協力者ではないかとおれは疑いかけていたが――、先の言葉には、どこかAIに対する嫌悪も感じられるのだ。
「その質問が意図する視点の中に私はいません」と担当は言った。
「というと?」
「AIは勝手に仕事をするものですか? ここにいる彼らが“ない”と騒ぎ渇望している仕事とは、自然発生しているものですか?」
担当は両手を広げて周囲を見回すよう促した。職業安定所は荒れている。そうでない人は俯き、気力を失っている。担当は続けた。
「仕事は作られるものです。では、仕事は誰によって作られていますか? 誰が彼らの首を切ってAIを選びますか?」
ここにきて担当は少し興奮しはじめた。刑事が両脇を掴み「そろそろ行くぞ」と無理やり立たせる。
すると突然「ここに来ているお前たちが探している仕事とは!!」と、担当が大声で叫びだした。「誰かがリスクを負って切り開いた“ニーズへ対応すること”へのサポート業務でしかないんだぞ! 誰かの“やりたいこと”にただただ従う存在だ!! そんな仕事は誰にでもできる! そんなものAIに奪われて当然だ!!」
刑事2人はタトゥを起動させどこかとやりとりをしている。そして足に力が入っていない担当を強引に連れ出そうと引きずりはじめた。
「お前たちは目を背けているだけなんだ! 自分の仕事は自分や人間がおこなう価値があると信じているんだろう! しかしそもそも仕事は人が作るものだ! 生み出すものなんだ! 所詮お前たちが考えている程度の仕事なんてものは――」
騒然とした所内は静まり返っており、担当が屋外へ連れ出されるとその静寂がより強調された。その後しばらくは所内もシュンと沈みかえっていたが、徐々に窓口の業務が回りはじめ、おれの名前を別の職員が呼んだ。
おれはそこで制度の手続きを終える。
仕事の紹介は求めなかった。
もう少し、考えてみたかったからだ。
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