その4

 職業安定所に行ったその足で、おれは手近なウェブ喫茶に向かった。


 ウェブ喫茶とはコーヒー喫茶店とネットカフェが合体したような場所で、カウンターの一席ごとに小さな仕切りのあり、それが何列か設置された内装になっている。

 希望者は個室を利用することもできるが、ネットカフェほどの収容はない。


 カウンター席には消毒済みのガラス体眼鏡グラスがヘッドフォンと一緒に備え付けられており、これを使えばわざわざポケットからディスプレイを取り出す必要もない。


 おれはイスに座ると眼鏡をかけ、左手の甲に目を落とした――が、それよりも目につくのは、視界一面に広がる広告バナーだ。窓の外に広がる街を見れば、生身の目では見ることができないホログラム広告やどこかのアーティストが手掛けたファンタジックな気泡イメージを堪能することができる。


 注文したコーヒーが届き、スーツ姿ということもあり、傍から見たおれはさぞかし前向きなビジネスマンであることだろう――などと、窓ガラスに薄ら浮かび上がった自分を見て自虐してみる。


 おれは職業安定所の担当者のリップサービスを少しだけ真に受けて、民間の求人情報を漁った。左手の甲を右手でつつき、ネットブラウザを立ち上げる。それを右手で掴んで、手の甲から外に引っ張り出す。


 空中に解き放たれたネットブラウザをタップし、高速バス運転手時代と同じような待遇を条件に、検索をかけてみる。すぐにヒット内容が一覧で表示された――が、すぐさまおれは絶望を感じた。どの仕事のタイトルにも、必ず冒頭に『要遺伝子審査』と記載があるのだ。


 おれが初めて就職活動に取り組んだ時には、こんな項目は存在しなかった。たった5年のうちのことだ。それぞれの企業も生き残りをかけて必死なのはよくわかるが、これはあまりにも……。おれは背もたれに体重を預け、天井を仰いだ。


 しばらくそうしていると、ふと、タトゥの通信光を感じた。

 身体を元に戻してグラス越しにタトゥを見ると、着信ホログラムが起動している。

 職業安定所からだ。


『もしもし? 松村さんですか? ああよかった、繋がった! 突然ではありますが、すぐこちらに来ることはできませんか?』担当者はやや興奮している。


 おれは落ち着いた口調で、ゆっくりと返した。「……どうしたんですか?」


『いい知らせです! 滅多に権利が与えられない自然遺伝子所持者自立支援制度の対象者に、あなたが選ばれました! これで遺伝子整形と体内メンテナンスを、特定の条件を満たす場合に無償で受けることができます! 私は今まで何千人と職業案内をしてきましたが、こんなことは初めてです! ぜひこの素晴らしい機会を活用してください!』


 元々おれは遺伝子整形や体内メンテナンスには否定的だ。しかし、処置に300万円程かかるものが無償となる話など、確かにそうそうないものかもしれない。これが見知らぬ人間から持ち掛けられた話ならまず断るが、相手は公的機関でもあるし、もう少し詳細を聞いてみてもいいと思った。


「特定の条件というのは?」


『日本国籍の企業に10年以上在職することです! 制度を受けながら外資系企業に就職や10年以内に転職した場合は、所得の20%を税金として30年間支払うことになりますが……。また、この制度を利用してなお無職となった場合は犯罪として扱われますので、この点だけはご留意ください』


「なるほど。無償で受けられる代わりに、10年間、私の資質、知識、経験は国のモノになるというわけですね」この条件は一般的な奨学金制度などと同じ方式で、そこまで難しいものでもない。「遺伝子整形や体内メンテナンスを行うと、具体的に私はどうなるのですか?」


『ある意味なにも変わりませんし、ある意味すべてが変わります』


「というと?」


 担当者は嫌味なく笑った。『みなさん同じように心配されます。私も自分が行うときは心配でした。しかし、考えてみてください。人間だれしも、一年間一人で人と関わらずに過ごした場合、心を病んだり暗い性格になったりします。逆に親しい仲間と毎日笑い話をしていれば明るい性格になります。遺伝子整形や体内メンテナンスも、それと同じなんですよ。環境が変われば人は変わります。元来人に安定しているものなど何一つ存在しません』


「確かに」おれは納得した。「脳をこね回すならまだしも、どちらも身体の環境を整え理想的なパフォーマンスを発揮するための処置だ。例えば、肩こりが起こりにくくなるといったような」


「その通り。人はそれだけで性格や集中力が変化します。私は早い段階でそう気付くことができたので、社会の流れに先駆けて体内メンテナンスに踏み切ることができ、今はこの仕事を任されています。なにより私は仕事をしているというよりも、単純に目の前の人を救いたいと思っています。今の目の前の人とは、松村さん、あなたのことです。松村さんの行動は、私の行動でもあります。松村さんの悩みや喜びは、私の悩みでもあり喜びでもあります。もちろん、必ずしも制度の利用を押し付けたりはしません。松村さんの選択を私は尊重しますし、例えそれが一般論では不利益を生じさせる類のものであっても、松村さんの選択にはあなたの何かを守るための確固たる選択であると私は理解します。しかし、どうでしょう。想像してみてください。松村さんが抱える過酷な環境が、今ようやく改善されようとしているのです。理想とする人生が、この制度によって大きく実現に近づくのですよ』


 おれは返事をせず、担当者の言葉をじっと聞いていた。返す言葉もないくらい、誠意ある接客だ。


『期限はまだ十分ありますが、もし遅いか早いかの選択であるなら、ぜひ今すぐ来てください。詳しい説明はその時のお話します。では、お待ちしています』


 通話が切れ、ホログラムが再び求人情報を表示する。おれはその一番下の項目に、不思議だが目がいった。そしてハッと思い出して、自分が2歳か3歳くらいの時にクレヨンで描いた解読不明の文字と絵の画像(正しくは母親の自撮り画像)をタトゥから引っ張り出した。


 そうだった。

 ここにあるのは、物心つく前の、純粋な自分の夢だったのだ。


“うちゅうひこうしになりたいです!(宇宙船と自分の絵)”


『ガニメデ開拓船運転士……運転は自動で行われますが、あなたの役割は、一人の宇宙飛行士として(また一人の人間として)操縦席から地球へ情報(あるいは感想)を言葉で送信することです。募集条件:何らかの長距離運転業務の経験(5年以上)、未婚であること。試験内容:筆記、面接、遺伝子審査』

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