その2

 おれは大きなハンドルを両手で抱ていた。

 眠気と戦いながら、一定間隔で過ぎていく白線を眺めながら。


 おれは高速バスを運転していた。

 ゴーという走行音が響いている。


 アスファルトのでこぼこによって生じる、リズムのない――しかしなんとなく規則的な――振動。一定を保つエンジンモーターの稼働音。それらがアンサンブルとなり、静かな車内の隅々にまで行き届いている。早朝便にも関わらず、車内は満席だった。


 長距離バスの運転手をはじめてもう5年になる。

 収入は、特徴的なスーツを着ていた頃と比べると半分ほどに落ちている。


 しかしおれはこの仕事をなんとなく気に入っていた。


 前みたいに、無理して笑っていなくてもいい。

 女の事を考えなくてもいい――となると、不意の不感症にも悩まない。

 偉そうな奴らは会社にもいるが、人の心を根っこから破壊していく奴らに比べたら真に恐れる相手ではない。


 確かに退屈と言えば退屈な仕事だ。

 しかし今の時代、後述するが、もう渋滞は存在しない。

 運転ストレスはない。

 退屈にイラつくのは、子供だけで十分だ(と思いながら、また昔の自分を思い出してしまう)。


 高速バスの運転手。

 いい仕事だった。

 

 言葉が過去形なのは、今日が最後だからだ。

 実は先月はじめに、おれは会社からクビを宣告されていた。


 この度わが社は、経営がひっ迫したが故のリストラというわけでもなく、高速バスドライバーの大半を切り捨てる。猶予わずか一ヶ月の不当解雇に仲間たちは裁判を起こすそうだが、おれはその気にならず誘いには乗らなかった。


 おれの最後の任務は、およそ80名の乗客を某都市から松本へ運ぶことだ。ゴールデンウィーク始めなので帰省ラッシュ真っ盛りだったが、渋滞という蛇状の生命体はおよそ3年前から姿を消し始め、今では完全に絶滅している。


 もちろん高速道路は毎年のように車で溢れているが、そのすべての車が均等の速度、均等の車間を保ち、整然と走行している。かくいうこのバスも渋滞虐殺に加担しており、コンベアに運ばれているように周囲と協調し走行していた。


 速度メーターの横に設置されたディスプレイに搭載されている〈ナヴィ〉システムは道路交通管制とリンクしており、周辺の道路地図と同時に、そこを走る車すべてを取得し地図上に落とし込んでいる。これは同じくおよそ3年前、車に設置が義務付けられた装置であり、管制はそのシステムから送信されてくる膨大な走行状態を元に、一台一台を自動運転させている。


 おれは第二車線――このシステムが取り入れられてからは追い越し車線という概念は無意味となった――を走る乗用車を見下ろしてみた。その高級外車にはもはや運転席や助手席などといった孤独なシートは存在せず、ソファのようなふかふかの座席が前後向い合せで設置され、搭乗者はワイングラスを片手に窓の外の風景を眺めつつ話に花を咲かせている。


 おれはしみじみと思った。

 いつの間にか、こういう時代なのだ――と。


 お察しかもしれないが、おれはAIに仕事を奪われたのだ。

 今の法律では、バスやトラックやタクシーなど、客や品物を扱う車両についてはまだ完全自動操縦は禁止されている――必ず誰か一人が、動かす必要のないハンドルに手を添えていなければならないのだ。しかし、その義務も今日までだった。


 ちなみに普通車は2026年の道路交通法改正によってその行為が免除されている。そして明日5月1日からは、すべての車両で完全自動操縦が許可される。


 本日、4月30日、最後の仕事。

 おれのクビがこのタイミングということは、つまりそういうことなのだ。それでも優秀な人材には次の役割を与えられたようだが、どうやらおれはそちら側ではなかった。


「次は神林ー、神林ー」


 会社が定めた地点でピタリとおれが告げると、ポンと伝統的な降車ボタンが点灯する。〈聲〉システムはその信号を受け取り、自動でハンドルを動かし車線変更をして、スムーズにバス停に流れ込む――そしてその間、おれは間抜け面で勝手に動くハンドルに手を添えているだけだ。


 ガスの排出音と共に下乗ドアが開き、乗客が降りると、ドアが閉まる。〈聲〉は本線への合流を要請し、管制のマザーが瞬時にその回答を送ってくる。バスが動き出した。高速道路を走る車の隊列にはこのバスがもっともスムーズに合流できる絶妙なタイミングが意図的に生み出されており、バスはそのワンチャンスを見事ものにして、隊列の隙間に自分をはめ込んだ。


 その間、おれは相変わらず間抜け面でハンドルに手を添えているだけだ。


 この内容で1日5時間で週休3日(※2033年時点における日本の平均的な会社員の労働基準)で年間400万円(※2017年の物価基準に当てはめた数値。以下、物価等はすべて同様の翻訳とする)の給料は中々魅力的だったが、ついに来るべき日が訪れてしまった。


 もっとも、おれはいつかこの日が来ることを知っていた。誰にでもわかることだ。しかしおれはやはり間抜け顔で、自動操縦の世の中の流れを眺めていただけだった。


「次は松本インター前ー、松本インター前ー」


 おれの仕事は、その後の2駅を経て、幕を閉じた。

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