私たちもまた、不要な記憶から脳が忘れていきます。赤ん坊の頃に見た母親の顔や、就学前に好きだった色。もしかしたら中学生の頃のクラスメイトの名前さえも思い出せないことがあるのかも。
私が挙げた例は、あくまで過去の人生にはあまり関係の無い不要な記憶ですが、この物語に出てくるミルクパズル症候群に罹った者は、過去の記憶から日常のありとあらゆる記憶を無くし、最後には呼吸の仕方すらも忘れてしまい死に至る。そうならないために端子を取り付け、記憶のバックアップをとることしか方法はない。
それにまつわる疑問と、私を見失わないための約束の温かくて、淡い雰囲気のお話です。
静かな、けれど冷めてはいない物語。
近未来、ミルクパズル症候群と呼ばれる病気が広まりつつある世界。
患者は徐々に記憶を失い、その記憶はミルクパズルのようにまっさらになる。
記憶のバックアップとインストールはできるものの、記憶喪失からインストールまでの差分を復活させることはできない。
僅かな差分とはいえ、その記憶は自身の一部。
失くせば自分の同一性さえ揺らいでしまう。
ヒロインはその恐怖を語り、静かに抗います。
そして、そんな彼女に寄り添う主人公。
物語はしっとり進んでいきます。
最終話を読み終えて思ったのは、二人の関係がひどくもどかしい、ということでした。
お互い替えのきかないパートナーでありながら、どこか淡々と接している。
なぜ一歩先に進まないのだろう、そう感じました。
けれど、それこそがミルクパズル症候群。
二人の間には「記憶の喪失」という、失恋や死別とも異なる独特の恐怖が横たわっているのでしょう。
彼との大切な時間を忘れてしまったら、忘れられてしまったら。
それは、ただ別れるよりはるかにつらいのではないか。
この切なさは、本作でしか描けないものだと思います。
ひどく切なく、けれど温かさを感じさせる物語でした。