第五章 閉式の辞03

 手短な伝言だけを残し、私は通話を終える。手にした携帯を上着のポケットへ滑り込ませて見上げれば、空はすっかりと朱色に染まりきっていた。


 校門の手前に立って眺めるこの景色。五年前にこの学校へと赴任して来てから、もう何度も何度も繰り返し目にしてきたはずの、いつもの光景。

 しかし、どうしてだろうか? 今だけはその様に、変わらぬ日常と言うものを感じられそうもない。


「不思議なものだ」


 春を間近に控えての夕暮れ。通り抜けていく風の、未だにどこかが冷たい当たりを受けながら、私は思いにふける。


 榎本正成。


 その名前が記された一枚の証書を、不在だった校長室の机に残してきた。正しいあて先がその場所なのだと無理矢理にでも決めつけた上で、例え無作法でも構わないと私はそうしてきた。それは──


 せめて。


 贈り主が込めていたのかもしれない何かが、今度こそ今の校長へ正しく伝われば、と。

 そんな想いがあっての事で。そしてそんな行動の一部始終は、やはりどうにも私らしからぬ所業なのだと自覚せずにはいられない。


「これでは、水城の事をロマンチストだと笑ってはいられないな」


 軽くぼやくと、私は口元を小さく吊り上げたままで、空に染められた朱色の校舎に背を向ける。


 これで良かったのかは分からない。短く残したあのような伝言で、誤って証書を持ち去ってしまった私のこの感情までもが、贈り主へと伝わるのかは分からない。


『あなたの証書は無事、宛所へとどきました』


 たったそれだけの伝言に、どれだけの意味を持たせられたのか? どだい私などに、分かるはずもない。


 同僚達から昼行灯などと揶揄されていた、前年まで校長職にあった一人の教育者。

 常に控えめで、しかし常に朗らかで。彼が肩書きを誇示していた場面など、あの一時を除いて私の記憶にはついぞありはしない。


 そんな在り方だったせいか、当時は教頭だった今の校長にも、まったくと言って良いほど頭が上がらず。

 そうして何度となく、部下になるはずの教頭にやり込められていた姿ならば、嫌というほどに覚えているというのに。


 そんな彼が、なぜ一年も前の出来事にこだわったのか? どうして今回のような騒動を引き起こそうと考えたのか?


 それは。


 その行動の全ては当時の教頭──現在、校長という肩書を持つ者による不可解な採決によって当校を追い出された、榎本正成という一人の生徒を想っての事だったのか?


「違う、そうではない」


 断言などできない。それでも不思議と、直感に頼った確証だけなら存分にあった。


「恐らく、榎本のためではなかったはずだ」


 私の与り知らぬどこかで、彼と榎本にの間に特別な接点が有ったという可能性も否定はできないのだろう。

 しかしそれでも、私には彼の行動が不本意に学校を去った一人を慮っての物だったとは、どうしても思えないのだ。

 それならば、彼の目的は何だったのか?


「……可不可」


 そうして思い起こすのは、いつだったか退職を間近に控えていた彼が、私の前でこぼした言葉。


『教頭は物事の可不可にこだわりすぎる。彼が校長という立場になるのなら、私はそれが気がかりでね』


 それは、偶然二人になった際に聞いた、どこか本音の響きを感じさせられる憂慮の言葉。

 白や黒ばかりでなく、もっとグレーでも良いのだと。工藤君も少しだが、教頭と同じきらいがあると。できることなら、君はそんな教育者にはならないでいて欲しいと。

 それは当時、教頭からの受けが悪かった私を思いやって出ただけかもしれない、彼らしいとも言えるのだろう歪な世迷い言。


 だからこそ想像してしまう。


 榎本正成の退学。

 生徒が暴力を振るうに至った経緯を聞き、最後までその処分内容に懐疑的であった、一年前の彼の態度。

 しかしそれでも、教頭の掲げた最悪の処分を覆すに至れなかった、彼が校長であった時の最後の在り方。


「可不可。間違えられたままの可不可」


 伝えたかったのだろうか。彼は今の校長に、『可不可の過ち』を気付かせたくて、このような真似をしたというのだろうか?


「馬鹿げている」


 一年。丸、一年なのだ。たとえ当時の教頭が、校長の言葉に耳を傾ける姿勢を持ち合わせていなかったとしても。それでもたったそれだけの事に、一年をかけてどうする。


「在り得ない。ならば全て、ただ私が思い描いているだけの下らない妄想だ」


 分かっている。私には、あの青年のような聡明さなどない。だから本当の事を読み解けるなどとおごってもいない。だがそれでも、どうしても考えずにはいられない。


 もしも仮に。


 あの人は、壇上に立つ“今”の校長に向け、一年前の誤った『可不可』の証を突きつけようとしていたのだとしたら。

 そうすることで、影で自らを昼行灯などと揶揄していた部下にすらも、彼は彼なりの不器用さでもって、教育の手を差し伸べようとしていたのなら。

 それならば──


「あなたは愚か者です」


 断言できる。彼が伸ばしたのかもしれない教育の手は、校長という肩書を持つ生徒の元へ届きはしなかった。その一部始終を、私はこの目で見届けていた。


 式の最中、榎本正成の名前を聞かされた。信じられない思いで、私は咄嗟に舞台上の校長の様子を伺い──そうして更に信じがたい光景を目の当たりにしていた。


 壇上に立つあの男は、『榎本正成』という、自らの傲慢で退学にした生徒の名前など、覚えていなかったのだ。


 舞台の中央に立ち、これまで通りに次の卒業生へと渡す証書を両手で持ち上げる男。その一枚に記された名を確認する素振りは確かにあった。

 だがそれでも、壇上の男はこれまで通りに証書を渡す準備を整えていただけ。もしもあの時、呼び名どおりの者が目の前に立ったなら、その顔面に貼り付けた笑顔をどう扱うつもりだったのか?


 あの時も私には理解などできず。元より理解などするつもりも無く。

 そうして私は、体育館中に響くほどの声で返答を返し、恐らくは現れぬだろう者の代わりに壇上へと向かう決心を固めた。


 そして結果は、見ての通りの有様だ。


「こんな方法では、何も伝わりはしません」


 一教育者として、私が尊敬していた一人の人物。そんな彼が仕掛けたのかもしれない、後任に向けられた一年越しの不器用すぎる教育。


 ただ闇雲に場を荒らしただけ。そんな結果となった尊敬する師の在り方に、私はどうにも抑えられなくなってしまう。


「らしくなかったとして、だから何だ」


 呟きと共に腹を決め、ついさっきしまったばかりの携帯電話を、荒々しい手つきでポケットから引きずり出す。


 この学校に赴任する以前。去年の教頭と似たような過ちを犯したことのあるこの私が、今さら彼に何を言えるというのか?

 分からない。分からないがそれなのに、どうにも止められない。


 フリップを開き、リダイヤル操作をこなし、先刻と同じ相手先に発信を始める。


 繰り返される呼び出しの音。


 私の考えは、間違っているだろうか? やはり、ここに来てもまだ分からない。どうしたって一つも分かりはしない。だがそれでももう、構いなどしなかった。


 気が付けば、繋がらないコールは終わりを迎え、先刻同様に留守番電話の案内を聞く。


 段取りが整った旨を知り、私は口を動かす。信じられないほどに、唇が重々しかった。


「度々、失礼します。工藤です。お伝えし忘れた事がありましたので、再び伝言を残させていただきます」


 当然だが返答は無い。構わず続ける。


「あなたは……何を考えていたのですか? どうしてこのような、馬鹿げた真似をされたのですか?」


 私は何を言おうとしているのだろう? 我ながら、どこまでも理解する事ができない。ただただ燻る感情だけが、音となって喉の奥から溢れだしていく。


「何を伝えたかったのですか? 今の校長に……去年までは教頭だったあの者に、何かを残そうとされていたのですか?」


 声が震え出しているのが自分でも分かったが、もう知ったことではない。


「もしも、そうであったなら。それは……!」


 ただただ抱えた何かに気圧されるまま、鈍重な言葉を回し続ける。


「それは、あなたの伝えたかった何かは、生徒達の一年と引き換えにするほどに、価値のある物だったのですか!?」


 許せなかった。


 生徒達。

 これから高校生活最後の一年を迎えようとしている、多くの教え子達。そんな彼らにとって、短くも長い一年を暮らしていく事になるはずの居場所。

 その割り振りは、果たして彼らの人生において、軽んじられるべきものではないはずだ。

 だというのに──


「だとしたら、あなたは何と馬鹿げた事をしでかしたのですか!?」


 学力によるクラス分けなら構わない。

 人間関係を見てのクラス分けなら構わない。

 それが、生徒達の将来を少しでも想っての割り振りだというのなら、それならそれは何もかもが構いはしない。


 だがしかし、これは違う。違いすぎるではないか。ならば私は教育者として、彼の愚行を許すわけには行かないではないか。


「利己的な理由を込められたのですか? 生徒達には関係の無い、我々だけの下らない事情を土台に据えられたのですか?」


 動悸が治まらない。ただ早鐘のように打ち続ける胸の鼓動に煽られるように、押さえ込んでいた何かが身体のどこかからあふれ出してくる。

 だがそれでも。私は、伝わるとも知れないこの伝言を、締めくくらねばならない。


「もしもそうだと仰られるならば。それであれば私は、あなたを尊敬していた一教育者として、申し上げなければなりません」



 ──あなたは、教育者失格です。



 最後にそれだけを音に乗せ、私は小刻みに揺れる指先で終話のボタンを力任せに押し込んだ。


「前科者の私が、一体どの面下げて──」


 最後の部分だけは、なぜだか声にできなかった。過去に犯した自らの過ちを今と重ねて見る、そんな自分がどんな顔をしているのか、私にはもう分からなくてもよかった。


「やはり、らしくないな」


 呟き、そしてもう一度だけ見上げる。そこは未だ朱色に染まったままの空が広くつながっていた。


 ひょっとしたら。

 今の私の一言も、尊敬していた師に向ける『可不可の証書』に成り得るのだろうか?


 ガシッ


「何か盛り上がってるとこ悪いんだが……」


 唐突な物言いと共に後ろから肩を掴まれ、泡を食って振り返る。そこに見たのは、


<秋人>

「立て替えてきたコーヒー代……返してくれ、頼むから」


<工藤>

「ふぁ?」


END



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だて男にーさんの鬼推理 #2「カフカの証書」 花シュウ @hana_syuu

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