のけものがたり

糾縄カフク

のけものがたり

 画面の中ではしゃぐ、さして出来栄えの良いとも言えぬCGを眺め、私はため息をつく。

「――けものはいても、のけものはいない」なんて素敵な言葉だろう。人間の口から出たのなら欺瞞ぎまんたらしいこのフレーズも、動物たる彼女たちが発するにおいて、真実味を増す。


 やがて終わるテレビの電源を消し、不意に声の消えた薄暗い部屋で、私は椅子に深く腰掛け背伸びをする。無論ここには何もない。――彼女たちの笑い声も、周囲を取り巻く豊かな自然も。


 伸ばした腕を左右に揺らしながら、いやそもそも人間とて動物の一端ではないかと自問を返し、そうして人間ヒト人間ヒトたるつけあがりとエゴに辟易へきえきとする。しかし表向きは和気藹々わきあいあいとした物語である筈なのに――、そうして世間も盛り上がっている筈なのに、胸の奥にはきむしられる様な痛みが走る。


 ――なぜだろうか。

 その事をしばし考える。


 全ては容認され、はみだし者はなく、皆笑顔で暮らす平穏な世界。

「すごーい!」「たのしー!」「フレンズなんだね!」それだけで彼女たちは満たされている。


 或いはその時点の思考停止こそが正解なのか。

 世間は皆そこで問う事を止め、肯定の羊水に自らを投げ揺蕩たゆたっている。


 ――だけれども。と。それでも尚、と。私は無様にも立ち止まる。

 皆がはしゃぐジャパリパークの外で、孤絶に一人、のけものとして。




*          *




 そもそも私は、かつてアニメを作っていた。

 デザイン科だった高校の三年から、大学が終わり、社会人を過ごすまでのおよそ十年。


 しかし結果は何一つ出なかった。

 努力はそれなりにしたと思う。高校時代は一人で十分の作品を作ったし、大学に移ってからは、監督として指揮をった。


 一年につき数十分。制作スタッフは徐々に増え、楽曲や素材の使用許可も含めれば、多い時でクレジットは百人を越えた。相当に限界で、相応に頑張ったと思う。――だけれどそれらは何のコンテストにも引っかからず、私の学生時代は闇のうちに終わった。


 いや。もともとが周囲から認められる人間では無かったのだ。

 小学校の一年目で読書感想文を書いた時「その書き方は間違ってるよ」と教師にたしなめられ、それからも自分がやりたい様にやる度に同じ指摘を受けた。


 高校の卒業制作は、隣の研究室から響く「あいつとは関わるなよ」という教師の声を背にペンを走らせた。――それは大学に移っても、社会人になっても同じだった。


 言ってみれば大学在学中の集団制作こそが、今まで私の個性を否定してきた大人たちへの、決死の反撃だった。しかし最後の一擲いってきが失敗に終わった後、私に残ったものは、全ての反動として訪れた、更なる自己嫌悪の波に過ぎなかった。


 だから私の中には「私は間違っている」という認識がびっしりと根を張っていて、ほんの少し湧き上がった肯定感は、さざなみに奪われる石塊いしくれの様に、一瞬で泡沫うたかたに消えてしまう。――それでも尚創作を止める事が出来なかったのは、悲しいかな性分であり病理でもあったからだろう。言ってみれば、それ以外に自らを慰める方法が無かったのだ。




*          *




 二十九の春。最後の自主制作も芽が出なかった私は、暫くコンテンツに触れる事すら億劫おっくうだった。学生時代の縁故は皆それなりの地位についていて、アニメのクレジットで名前を見るのが怖かったからだ。


 皆はもう認められているのに、私は何者にすらなれていない。

 ――やはりあの時、私のエゴで周囲を巻き込んだ事こそが大いなる過ちだったのだ。


 そんな自責を繰り返しながらも、結局は創作を止める事は出来ず、媒体ばいたいを小説に移し活動を続けた。流行りのコンテンツに触れたり、即売会に出たりする程度には心も回復しかけていたその頃、やはり苦悶はぶり返す。


 けものフレンズの監督は、自主制作アニメを作っていた方だ。

 即売会で隣の席になった事もある。そもそもが分母の少ない島の手前、行けば必ずと言っていいほど会釈えしゃくをしあった。


 ――ああ。やっぱり皆うまくやってるんだな。

 失敗したのは私だけで、続けている人は然るべく成功を遂げているのだ。いやいやもし、このクオリティで成功を収められるのであれば、あの日の私とてどうにかなったのではないか?


 そう思った瞬間、Twitterに映る全てのフレンズを見る度に、折りに触れその思いが過る様になった。画面の中の満ち足りた世界は、冬の凍える路傍ろぼうから覗く、暖炉の団欒だんらんの、決して手の届かない遠い世界に暗転した。


 分かっている。単に才能も何も欠乏していたのだ。あのまま続けていた所で、私の作品は万雷の喝采で以て認められる事は無かった。なにせハッピーエンドが書けやしない。皆が望むものを生み出せない失敗作に、必要とされる価値は無いだろう。




*          *




 人はそもそも、互いを無条件に肯定は出来ない。

 タバコが嫌い。咀嚼音そしゃくおんが嫌だ。見た目がダメ。不潔ふけつだ。汚らわしい。話が合わない。


 様々な理由で容認は建前となり、抑えきれない不満は拒絶、そして陰口へと姿を変える。――皆が肯定し合える世界など在りえない。在りえないがゆえに、擬人化した動物たちが互いを肯定し合うジャパリパークは、理想郷として映るのだろう。


 だが私は、ご承知の通り批判をせずには居られない人間だ。

 ありのままで良いなんて訳がない。もしそれが許されるのなら、なぜ私はこれまで、一度として許された事が無かったのか。――自分を許せぬ人間が他人を許せる筈も無く、ゆえにこの結論は必定とも言えよう。


 日常にしても、創作にしても、虚偽の仮面で取り繕った時にしか賞賛は得られない。そんな思念がぐるぐると脳裏のうりを巡り、結論として「私はジャパリパークに相応しくない人間だ」と断じてしまう。


 仮に私がジャパリパークに居たとしても、サーバルちゃんは「すごい」とも「楽しい」とも言ってくれないだろうし、あの楽しげな輪の中に私が居るのは、恐ろしく不釣り合いだ。――だからどんなに周囲が「けもフレ」に熱を上げたとしても、私はそれを見つめる外野にしかなれない。


 そもそも私の信じる「楽しい」は、学生時代に散々叩きつけてきた筈だ。

 それらの一切が世に受け入れられなかった以上、私の「楽しい」は、皆にとっては「楽しくない」のだ。




 だからもしサーバルちゃんが拙宅に来て「すごーい!」と褒めてくれたとしても、私の脳は「いや、これは嘲笑なのだ」と受け取るだろう。


 なぜなら私が本当に凄い存在であるなら、拙作は既に世に認められていて、私はこの様に惨めな思いをせずに済んでいる筈だ。それが一向に出来ていないということは――、少なくとも社会的にかんがみるなら、私にはなんら凄いと呼ぶ価値は無い、塵芥ちりあくたであるという事実をこそ証明しているに過ぎない。


 或いはそう、この甚大じんだいとも言える損失をかえりみずに創作を続ける姿勢自体は、すごいと呼んで差し支えないのかもしれない。だがそれは言ってみれば賛辞では無く、数多の敗戦に懲りる事なくパチンコ屋に通う、どうしようもない依存症患者ディペンダンスを見た時の憐憫れんびんか、やはり嘲笑ちょうしょうの類と見て相違ない(仮にネコに群れ集う世の女子の「かーわーいー!」と同義であるにしても、何れにせよ無味乾燥むみかんそうだ)


 だから私はサーバルちゃんを家から追い出し、恐らくはこう告げるに違いない「お前も僕を馬鹿にしているんだろう」と。――それが残酷にせよ非道にせよ、根拠の無い賛辞に耐えられれない私に出来る事は、せいぜいこれが限度の筈だ。


 ――しかし、と。

 だが若し万が一、幾度追い返し悪辣あくらつな言葉を投げかけても、それでも尚私を褒めてくれるとしたらどうだろう。そんな事をふと考える。

 それは心底私を褒めてくれているのではないか。少なくとも彼女にとっては、私はすごいと呼ぶに足る存在なのではないか。


 毎日やってくるサーバルちゃんを追い返す日々が九十九日続き、百日目の雪が降るある日、ついに鳴らないドアのノックに不安を覚えた私が外に出ると、雪に埋もれたサーバルちゃんが弱りきった表情で「ごめんね。今日も凄いねって言ってあげようと思ったんだ」と微笑んでくれたのなら、私は泣きながら彼女を抱きしめるだろう。それこそ発狂し小ロバを抱きしめる、晩年ばんねんのニーチェの様に。


 だが所詮は妄想だ。そんな事は起こり得ない。

 きっとサーバルちゃんにとっての「すごーい!」は、そんなに重い意味を持ってはいない。目の前に出されたランチタイムのサンドイッチが一瞬で消えさる様に、すぐに次の賛辞に取って代わる。


 分かっている。だからゆえに、私はフレンズである事を放棄したのだし、ただこの温かい世界が続く様にとこいねがったのだ。――生きるべく世界の、生きていて良い生命よ、かくあれかしと。


 満ち足りた世界に私は要らない。ハッピーエンドを汚すだけの不純物は、誰にも知られずひっそりと死んでいけば良いのだ。或いはもしや、端的に餌として食べて頂けるのならそれが僥倖ぎょうこうなのかもしれない。




*          *




 巡る雑考に区切りをつけ、そうして私はもう一度ため息をつく。

 公式が消え、それでも尚アニメとしての成功を果たしたけものフレンズ。


 これは億万分の一とでも評すべき奇跡だ。

 有史以来、どれだけのソシャゲが生まれては消え、忘却の彼方に散っていったか。――いや、名のある漫画や小説ですら、捲土重来けんどちょうらいを期したリメイクでける事さえままだと言うのに。


 実体のある玩具とは異なり、終わってしまったソシャゲに痕跡こんせきは残らない。その記憶を掘り起こし、今一度歴史の表舞台に光り輝かせた実績は、拍手を何度送っても足りないほどに素晴らしい。


 そして燦然さんぜんたるその輝きを目にする度に、私の心は言い様のない苦しみに襲われる。自らの怠惰と醜悪を糾弾きゅうだんされている様で、こうべを垂れ詫たい衝動に震えおののく。


 せめて、どうか、いつの日か。

 全てが許され、愛し合える日を受け入れられる日が訪れます様。そうこいねがいながら、雑文の筆を置く。 ――けものフレンズは愛されるだろう。一度死んだコンテンツが、そうして再び黄泉帰るのは感極まる歓喜だ。


 だからこうして、一人パークの外から拍手を送りたい。

 嫉妬と共に、羨望と共に、決して届かない光を求める様に、惨めに、哀れに。


 ――だって私は、のけものだもの。

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