5
お盆明けの登校日、鷲尾は全校生徒の前で表彰されていた。
鷲尾がやっつけたのは、地元の警察がずっと探していた犯罪グループで、玉井さんのような可愛い女の子を連れ去るだけでなく、怪しいクスリを売ったり、集団強盗をやったりもしていた筋金入りの悪党どもだったらしい。
鷲尾が玉井さんを助け出したという話もどこかから広まり、鷲尾はヒーローのように称えられた。クラスメイトの中には、「鷲尾と玉井さんって意外とお似合いなんじゃないか」とからかうやつらまでいた。鷲尾は真っ赤になっていたが、流星の目には、困ったように笑う玉井さんも、
ホームルームが終わり、他の生徒たちが下校し始めた後も、流星はすぐに席を立ち上がる気分になれず、頬杖を突いたまま窓の外を眺めていた。その頬には、治りかけのすり傷やあざが残っている。身体中が傷だらけだった。クラスメイトに「チャリで派手に転んだ」と説明したら、ひどく笑われた。
でも、それは嘘だった。本当のことを説明したところで誰が信じるだろう。「俺も、柴犬に変身して鷲尾と一緒に悪党と戦った」だなんて。
流星は父さんの言葉を思い返していた。
運命を嘆くより、逆手に取れ。
あのときばかりは、「柴犬になりたい」と真剣に思った。犬の嗅覚は人間よりはるかに優れている。柴犬ならば、玉井さんをシャンプーの香りで探し出せると思ったからだ。
でも柴犬になれたのは、その一度きりだった。その後、毎晩父さんと一緒に外に出てみたけれど、何も起こらなかった。一本だけ生えていた胸毛も、気づけばもう抜け落ちてなくなっていた。
「おい、時柴」
鷲尾だ。玉井さんを助けたことを自慢しに来たのか。
流星は聞こえないふりをした。しかしそんなことはお構いなしに、鷲尾はすぐそばまでやって来て、こう耳打ちしてきた。
「お前、あのときのわんこだろ?」
「は?」
流星は目を剥いて振り返った。
「あれからずっと考えてたんだよな。なんであのわんこが、玉井さんの連れ去られた場所に俺を連れて行ったのか。で、分かったんだよ。あのわんこの正体は、玉井さんをよく知ってて、あのとき玉井さんを探してたやつ、つまりお前だ。お前がわんこに変身したんだ。そう考えるのが自然だろ」
「いや不自然でしょ」
鷲尾が流星の脇腹を小突いてくる。ごく軽い力だったが、息が止まりそうなほど痛かった。
「やっぱりアバラ折れてんだな? そりゃあ、わんこの姿であんなに蹴られて無事なわけがねえ。無茶しやがって」
鷲尾は自分の仮説に何の疑問も持っていないらしかった。少しは既成概念に囚われろよ、と流星は心の中で毒づいた。
「人間が柴犬になるわけないだろ」
「ちょっと待て。俺はどんな犬だったかなんて一言も言ってねえぞ。なんで柴犬だったって知ってるんだ?」
流星は答えに窮した。鷲尾のやつ、なんでこんなときだけ鋭いのだろうか。
「えっと、それは……玉井さんがそう言ってたんだよ」
「嘘つけ、ろくに話もしてないくせに。玉井さんが気にしてたぞ。お前が怒ってるんじゃないかって」
それを聞いたとき、流星の心は痛んだ。あの後、玉井さんから花火に行けなかったことを謝るメールが来た。流星の返事は、「別に気にしてないよ」という無愛想なものだけだった。玉井さんが来られなかった理由ならよく知っている。怒っているわけがない。でも、次の約束をするだけの自信が出なかった。
「……百歩譲って、俺がその犬だったとしても」と流星は呟くように答えた。「玉井さんを助けたのはお前だし」
「でも、あのわんこが居なかったら俺は」
「お前があそこにいてくれてよかったよ。玉井さんを見つけられたところで、しょせんは柴犬だもん。せめて、狼かドーベルマンならよかったのにな。それに、俺がちゃんと駅前まで迎えに行ってたら、玉井さんも連れ去られたりしなかっただろうなとか思うとさ――あ、全部俺がその柴犬だったら、の話だけど」
脇腹にさっきよりも強めのパンチが飛んできた。
「いって! 何てことすんだよ……」
「へたれてんじゃねーぞ時柴ぁ! あんときの勇気はどこに行ったんだよ! お前、あんだけ体張って守った玉井さんを、諦めていいのかよ! 俺は、あのわんこがお前なら、潔く負けを認められると思ったんだぞ!」
鷲尾は口をつぐんだ。その大きな両目が、いまにも涙をこぼしそうなほど潤んでいた。
「鷲尾……」
「うるせえ! ばーか!」
鷲尾は自分の鞄をひったくった。そして、まだ残っていた男子を強引に引き連れ、一緒に教室を出て行ってしまった。
じっとしていると、身体中の傷がじわじわと痛む。それはまるで流星に決断を迫っているかのようだった。鷲尾の言う通りだ。「ただ近くにいられるだけで幸せ」だなんて、もう言えなかった。このまま、玉井さんのことを諦めてしまいたくない。
鷲尾、ごめん。……ありがとう。
流星はゆっくりと立ち上がった。スマホから、玉井さんにメッセージを送ってみる。
――玉井さん、まだ学校の近くにいる?
***
その色は鮮やかな紫だった。柴犬の目には、ただくすんだ青にしか見えなかった浴衣を、いま流星は間近で見ている。
「今日は誘ってくれてありがとう」
そして、それをまとった玉井さんは、今までで一番素敵な笑顔を見せてくれる。今夜は彼女の家の近所で花火が上がるのだ。「今度はわたしがとっておきの場所に案内してあげるね」と張り切ってくれている。
たった一度だけだったけれど、あの日柴犬になれたおかげで、流星には分かったことがあった。たとえ弱くても、
柴犬体質も、そんなに悪くなかったのかもしれない。流星はそんな風に思い直しはじめていた。
「そろそろ始まるよ、花火!」
漆黒の夜空に咲く大輪の花々。一瞬で燃え尽きる花は美しく儚い。遅れて届く音とともに、流星の胸の奥まで揺さぶる。
ふと隣に目をやると、玉井さんも同じ夜空を見ている。花火に魅入られた瞳は無垢そのものだ。 流星は彼女から目が離せなくなる。やがて彼女も流星のほうを見る。二人は見つめ合う。花火の音が遠ざかっていく。そして――。
「時柴くん!?」
わんわん、きゅーんきゅーん……。
(やっぱり、こんな体質嫌かも……)
おしまい。
時柴流星の変身 泡野瑤子 @yokoawano
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