七話 あるいはサイダーでいっぱいの海。天使論。

 気がつくと、サイダーの爽やかな海にいた。

 死んだのか、とクロードはつぶやく。

 すでに水に呑み込まれたが、死んではいないという自覚だけはあった。


 塩の平原が大海原となり、白い風景が消失したことはアイスキュロスの軌道上の眼からも確認された。かたやクロードは水のなかでみている。地中に埋蔵された石から、おびただしい泡が噴出するのを。いたるところで映像が再生されていた。映像が弾け、その映像をまた別の泡が包む。映像が映像にかさなる。冷涼に沸騰する泡のビックバン。よろこびが充填じゅうてんされた海。人々は歌い、お喋りする。それは、在りし日の惑星の再現ではなかった。未来のこの惑星の姿が、すなわち、やさしさに満ちた惑星のうるわしさが予見され、凄まじい泡となって弾けたのだった。クロードは泡に揉まれ、ちょっぴり塩気と檸檬レモンの味のする海水とイメージのなかをたゆたい、旅をつづけた。

 いつしかイメージは、かつてクロードが訪れた海辺のリゾートに戻っている。あかるい緑の海からビーチに波が打ち寄せ、白く砕ける。涼しい風に吹かれながらクロードは彼女が帰ってくるのを待っていた。


 やがて。


「お待たせ」

 彼女が右の手に持っているのはオレンジとミントの味のするアイスクリーム。コーンを受けとると、すぐにアイスの渦巻きの尖端せんたんめた。銃ではないことに安堵しながら。アンドロイドの水少女は砕ける波濤はとうに眼をほそめた。


「ねぇ、クロード。泡は一つの宇宙だと想わない? その泡宇宙がいくつも弾け、重なり合う。宇宙と宇宙が混ざり、より存在の濃い輪郭の大きな宇宙ができてゆく。いまはただ、海水に溶けた想いでしかないけど、海に溶けたアミノ酸を材料にもちい、ふたたび生命がうまれ、進化してゆく。夢は具体化してゆくのよ」


 クロードはほほえましい気持ちで彼女の声に耳を傾け、その懐かしさを思いっ切り胸にしみ込ませた。


「つまり、こんなふうなサイクルでもって、この惑星の住人たちは文明の新陳代謝を仕切ってきたというわけか?」

「わたしも詳しいことはわからない。でも、たぶんそう。サナギの状態で幽霊石に想いを封じたまま熟成をうながし、人工彗星が再びやってくる二億年を待ちつづけた。文明が爛熟し、限界をむかえ、滅びるそのたびごとに、かれらはこのような仕組みを使って眠った。やがてめざめ、そのあとはおそろしいスピードで進化し、また滅びる。それを嬉々としてリフレインしてやってきた」


「何のためだ?」

 クロードの声はかすれていた。


「何のため? あなたとしては愚問ね、クロード。生命は不滅っていうことよ、クロード。死んでも何度だって甦る。生命はただ悦びのためだけに永遠に生きるのよ。だから、わたしはあなたを許します。生きなさい、クロード」


 声は命じると、彼女のイメージは消えた。あたたかな泡の温度にくるまれ、クロードを許そうとした。

 彼女は春の歌をうたう。あたたかな優しが彼を満たした。罪はそれでも消えはしない。クロードは久しぶりに笑った。それでもいい、と彼は想い、生きる決心をした。あとのことはすべてクロードに委ねられたのだ。




 濁りのない草色をした海だった。塩分の濃度が高いのか、浮力が働き、クロードを海面へと押し上げられた。

 もうかれこれ一昼夜ものあいだ、漂流を続けている。彗星は遠ざかっていった。ふたたびこの惑星へと巡るのに二億年の時間がかかるが、きっとこの惑星の住人の時間感覚からすれば、さほど遠くない未来なのかもしれない。

 朝を迎えるころには雨は小降りになっていた。やがて雲がきれ、陽ざしが緑の海をきらめかせた。眼のさめるような空のブルーと、まるで天使でもいそうな雲の壮大な宮殿がそびえ立っていた。

 そして空から本当に天使が輝きながら舞い降りてくるのをクロードは目撃した。

 最初のうちはシルエットは小さく、鳥かと思った。だが、やがてそれは近づくにつれ、純白の翼をおおきく羽搏はばたかせ、滑空する人の形をした生きものだということがわかった。天使はクロードの頭上を旋回すると、今度は海面すれすれを飛びながら、手を差し延べた。

 手と手。迎えにきた天使が軽々とクロードを海からすくい上げる。天使は胸まで彼を引き上げると、飛翔しながら彼を抱きかかえた。雲の果て、青空の高みにむかって上昇してゆく。天使は笑い、そして涙を零しながら言った。

「探しましたよ。クロード」


 アララト山に漂着したノアの箱舟よろしく、天使となったルナとクロードは海におおわれていない山岳地帯へとむかった。その乾いた山肌の上で、金色の星影を浴びながら野営することになった。アイスキュロスの眼は、彼らを見守りつづけた。

 亜空間通信による惑星開発委員会とのやり取りがつつがなく終了し、アイスキュロスから飛行艇型をしたシャトルが射出されたのがそれから三日後のことだった。クロードとルナは無事、旧宇宙戦艦アイスキュロスへと収容された。

 ルナが作成した緊急レポートが打電され、その結果、カタログに記載された査定ランクが上がることになった。委員会は急遽きゅうきょ、大規模な調査団を派遣することを決定した。惑星の経済的価値がレポートを契機に大きく変更されたからだ。帰還船がやってくるのは十七年後の予定だったが、「金になると踏んだ」からにはあと三年もすれば研究者が大挙してやってくるだろう。そうして調査団を惑星に降ろしたあと、クロードとルナは、帰還する派遣船にのって地球に帰ることを許されたのだった。

 研究者は大忙しになるだろう。人工彗星を建造し、それを二億年にわたり運用する技術は地球にはなかった。そして二億年ごとに文明が更新、再生するといった思想も。そして何より、想いを具体化するオベリスクは魅力的だった。その技術があればこそ、もう一人のクロードが出現したのだし、また彼の救出も可能となった。


「これからどんな惑星になってゆくと想う?」

 クロードは訊いた。


 帰還船がやってくるまでには、あと三年ある。船がくるのを待つあいだ、彼は人工冬眠装置で眠ることになった。まゆ、と呼ばれる浴槽にも似た装置のキャノピーを上げると、ふたりしてその容器に足を踏み入れた。アンドロイドに冬眠は必要なかったが、アイスキュロスのAI、一千億の夜がともに眠ることを特例として許可したのだ。


「あなたがよく知っているのではありませんか?」

「俺が?」


 少年はクロードの胸に抱かれ、ルナの指は男の薄い胸板の上をなぞった。そして少年の純白の輝く翼は中年男と自分をすっぽりくるみこんでいた。


「だってあなたは、創世記の海にいたんですよ。それもあの女と一緒に」


 少年の声にはいくぶん嫉妬が混じっていた。が、それ以上に甘えたようなねた響きが混じっていた。

 そうだった、とクロードは海での様子を想いかえす。オベリスクは、想いを具体化する装置として、いまも海底で稼働中なのだ。あの装置の働きで驚くほどの短期間で生命は進化し、ふたたび文明を築き上げることになるだろう。海にはクロードと水少女の想いもまた、溶けている。どれだけの時間がかかるかわからないが、もしかしたらまた二人はこの惑星で出会い、恋に落ちるかもしれない。


「ぼくのことも忘れないでください」


 甘えたような拗ねた声が間延びして聴こえた。どうやら少年は睡魔に襲われているらしい。眼がとろんとし、瞼が落ちかかっている。やがてクロードの胸に顔を埋めると、少年はやすらかな寝息を立てはじめた。


「忘れるものか」

 少年のクロードへの想いが、ルナに天使の翼を具体化し、授けたことを。

 人工冬眠装置の透明な天蓋てんがいが閉じられてゆく。

 薄れゆく意識のなか、穏やかな表情をした男はつぶやく。




 おやすみなさい。













  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

水に酔う惑星 北村くるる @Kururukitamura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ