六話 オレンジとミント味の銃

 通信が切れてからのクロードは放心状態に陥った。だが、豆を挽き、お湯を沸かし、丁寧に珈琲を淹れた。いつもはルナがしてくれることだった。

 カップを片手に書庫に赴いた。書庫といっても蔵書が多いわけではない。以前の女性調査員がつかっていたクローゼットをひとつつぶし、居住棟に散らばっていた紙の書籍を一か所に集めたにすぎない。

 書棚から取り出したのは、ウォルト・ホイットマンの詩集だった。二千年前、まだアメリカ合衆国があった時代に生きていた詩人だ。とくにお気に入りの詩があるというわけではない。

 古く黄ばんだペイパーバック。ひんやりとした手触りで、埃と黴のにおいが混ざり、こびりついていた。ページの綴じ目から崩れてしまいそうだ。紙の本は贅沢品だが、大切に扱われてこなかったらしい。おそらく出版されて百年は経過しているかもしれない。ソファに腰かけ、本が壊れてしまわないよう、細心の注意を払いながら頁を捲っていった。

 とくにホイットマンの詩集が読みたかったわけではない。なんの気なしにふと手にした本だ。珈琲をすすりながらテーブルに肘をたて斜めに活字を追った。とくに熱心に詩を読んでいるわけでもない。

 だが、つぎの詩の一節には心惹かれるものがあった。


 おれはゆったりくつろぎながらわが魂を招喚する、

 おれはゆったり寄りかかりながら剣の先のような夏草を眺める。

 おれの舌が、おれの血のひとつひとつが、この土から、この空気から作られ、


 クロードは眼をつむった。

 眼を閉じたクロードの前に白日夢があらわれた。海に面した瀟洒しょうしゃなコテージで彼は彼女の帰りを待っている。潮のにおい。ウミネコの騒ぐ声。穏やかであったかな陽ざし。女の子は近くのパーラーにまでアイスクリームを買いにいっていた。この詩がなぜ、昔の記憶を掘り起こしてきたのか、わからない。眠りのもっとも深い夜の部分に手が届かないように白日夢はクロードの知らないどこかの地下水路で接続しているように想われた。

 車庫の扉が開く音が、クロードを現実に引き戻した。ルナでないことはクロードにもわかっていた。侵入者であれば、アラームが鳴るはずだが、室内はひっそりと静まりかえっていた。

 しかし、彼は詩集を手にしたまま瞼を開こうとはしない。やがて鳥かごに似たケージのエレベータが居住スペースに上がってくる振動が彼の腹に伝わってきた。

 ドアが開いた。クロードは瞳を見開く。知らない男だった。いや、正直なところ、よく知っているが、その実、彼にとっては未知なる存在が一人で佇んでいた。


「誰もいない惑星なのにな」

「嗚呼、誰もいない惑星だ」


 痩せこけた男だった。それもクロードそっくり、というよりはクロード本人がそこに立っていた。


「死神がきたのかな」

 テーブルに本を置くとクロードは自嘲気味に笑った。


「死神。いや、もっと悪いかもしれない」

「笑っていられないってことか」

「そうだ」


 それでも、もう一人のクロードは神経質そうに笑った。そして橙色とグリーンがマーブル模様になった銃を手渡した。


「なんだ?」

「アイスクリームの銃だ。オレンジとライムの味のする銃だ。安心しろ。フェイクの銃じゃない。ちゃんと弾丸は出る」

「思い出した。彼女が買ってきたアイスクリームを。しかし、なぜそれを知ってる?」

「俺の一部はあんたであり、そして尚且なおかつあんたではないからだ」


 クロードは男から銃を受け取った。精巧なつくりだが、たしかにアイスを固められてつくられた銃だった。冷たかったが、溶ける気配はなかった。引鉄を引けば、オレンジとライムの味のする、かちんこちんに凍った弾がちゃんと発射される。


「これで死ねということか?」

「あんたが望んだことでもある。彗星が来るまえに死ぬのが誠意かもしれない」

「自殺がか?」

「そうだ。責任をとれ」


 何をいまさらという気もしたが、男がいうことも一理あるような気がした。

「いいだろう。だが、その前に一つ、教えてくれ。あんたはいったい、どいう存在なんだ?」

「俺自身も実はよくはわかていないんだが。……ここ、坐ってもいいか?」

「いいとも」


 もう一人のクロードは彼の横の、いつもはルナが腰かけているソファに腰を下ろした。


「彗星の接近によって想いが具体化しやすくなっている」

「具体化?」

「そうだ、俺はあんたの想いが具体化した存在なんだ。あんたが幽霊石と名づけた石があるだろう」

「ああ」

「あれは、かつての惑星の住人の想いを充填した缶詰だ」

「それはわかる」

「水と反応し、その想いを放出する」


 クロードは、かつてみた「石の溶解する」映像を脳裡で反芻した。あれらは一つの例外なく良い想いを容れた映像のかずかずで、その歌のすべてが愉快でたのしげなものばかりだった。人を気遣うやさしさ、慈愛すらあふれ、時を忘れて彼らの歌に聴き入ったものだ。


「水と反応するということは……」

「そうだ。地中には大量の幽霊石が埋蔵され、眠っている。それが彗星からの水によって想いが一息に放出される。もし、それが実現したら信じられないような明るく、荘厳な光景だと想うな。やがて、それらの想いの海は、しっかりと具体化してゆく。この銃があんたの頭を撃ち抜けるぐらいには確固とした存在となる」

「いったい、どんな海になってゆくというんだ?」

「俺が知るわけはないだろう。しかし、この惑星にかつて暮らした人間たちが、そのような計画を立て、あんたが偶々、この事象に巻き込まれてしまったということはわかるな」

「それでどうしろと?」

「頭を撃ち抜け。楽になれるぞ」

「まさか?」

「あんたの一部である俺がいうのだから間違いはない。さあ」


 クロードは促されるまま、こめかみにアイスの冷たい銃口を押し当てた。耳の上の頭蓋骨に圧力を感じる。五十五口径のずしりとした感触だ。限りなく滑稽なシチュエーションだったが、笑えなかった。そのかわり脂汗が流れた。引鉄ひきがねにかかる指を引こうとし、


「クロード、死なないでください」

 ルナも声がして、引鉄を引く指が思わずためらった。


 脳内通信ではない。幻聴なのか、と想ったときだった。フラッシュを焚いたよりも強烈な閃光が部屋を満たした。

 氷のかけらが近くに落下したのか、と考えるより先に衝撃が襲った。硬化ガラスの窓が粉々に砕ける。散らばる破片とともに床に投げ出されるクロード。





 クロードが気を失っている今まさにこの時間、氷のかけらが斜めの輝線となって地上にふりそそぎはじめた。あたかも光の雨が落下するといった光景だった。ソニックブームが何度も居住棟をゆさぶり、フロアは大きく傾いたが、クロードは気絶したまま眼を覚まさなかった。

 彼の脳内で呼びかける少年の声はすでに絶叫と化していた。


「クロード! クロード! お願いです。起きてください。アイスキュロスは警告しています。気化した氷は雲となり、いま猛烈な雨を惑星のあちらこちらで降らせています。ぼくも洪水を避け、最終目的地であるオベリスクにまで到達しました。これから調査に向かいます。探査車から離れてしまえば脳内通信が使えなくなるんですよ。起きてください、クロード! クロード! ねぇってば!」


 水だ、水のにおいがする。

 砕けた硬化ガラスにまみれ、クロードは床に倒れていた。が、迫りくる水のけはいを鼻腔の奥にツンと感じ、眼が覚めた。懐かしい水のアンドロイド、月のにおいがする。そんな気がした。

 クロードそっくりの男はいなかった。右手に溶けたアイスが乾きこびりついている。それがさっきの出来事が夢ではないことを如実に物語っている。

 外は猛烈なまでの吹き降りで、そのしぶきが部屋のなかにまで侵入してきた。クロードは手で濡れた顔をぬぐった。

 ひどく傾いた床だったが、いまは斜め上に位置する窓に向かって坂となったフロアを上げっていった。ガラスは滑りやすい。窓の外は白い豪雨のほかには何もみえない。ただ轟音が聴こえる。しかし雨の降る音だけではなかった。

 彼はイメージする。暗緑色に濁った海が地平の上でふくらみ、波濤はとうが白い牙をき、クロードめがけて襲いかかってくるのを。

 しずかに瞼を閉じ、時がくるのを待つ。


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