脈打つ林檎
「僕の心臓はね、林檎なんだ」
それは私の息子の気に入りの言葉だった。彼は私の目をまっすぐ見詰め、よくそう言っていた。私は彼の日常、つまり絵本や幼児向けテレビ番組、母親との過ごし方など、彼の温度がまだどこかに残っているような錯覚を誘う場所を隈なく調べた。彼の言葉の意味がわかることは終ぞなかった。享年四年、あまりにも早い達観だった。
彼の母、私の妻であるところの彼女は、彼の死を未だ受け入れることが出来ずにいる。夕食は必ず三人分食卓の上に並んでいる。絵本の背表紙が几帳面に並んだ本棚は今や溢れ返っていて、もう誰も読まない夢物語が鮮やかな色の洪水となってリビングを侵している。
死因はわからない。いや、死因はわかっている。窒息死。わからないのは「死んだ」ことだった。理由がわからないのだ。メディアは私たちの息子の死をエンタテイメントにして楽しんでいる。彼が死んでから変わったことと言えば、「彼の不在」に目を瞑れば、我が家のリビングからテレビが消えたことぐらいだ。玄関の電子ベルは鳴り止まない日がなかったので電源を抜いた。扉は今もドンドンとノックされている。
なんでもない日曜日、つまり彼の命日となる特別な日、私はずっと深い眠りについていた。妻は切れていた牛乳を買いに少し家を空けていたらしい。なんでも息子がホットケーキを食べたがったからだそうだ。
眠る私を息子は見詰めていたのだろうか。彼は魚が好きだった。食べるのも見るのも好きだった。いちばん好きな魚はクジラだった。
「クジラは魚じゃないよ。人間と同じ哺乳類だよ」という私の指摘を彼はとても嫌がった。
「でも人間は泳げないし、潮も吹かないし、何よりあんなに大きくないじゃないか」と彼は怒るのだった。
ある日、私は彼に「心臓が林檎ってどういうことなんだい」と聞いたことがある。彼は「お母さんのおなかの中にいるときに教えてもらったんだ」と言った。私の妻の家はクリスチャンだ。私は「そうか」と笑った。実際、これ以上聞いても私にはわからないと思ったからだ。子供は感覚で生きている。大人はどうか。私にはわからない。感覚が曖昧で眠くなってくる。
「子供が自分で首を吊るなんて、そんなこと本当に可能だと思いますぅ?」
出先の家電量販店のテレビから聞こえる声。最近旬のコメンテーターだ。目の下に暗く深い隈が出来ている。彼の辛辣が好かれるのは老若男女問わず分かり易いリップサービスだからだと思う。
「しかも、まだ四歳の子供でしょお?絶対に自殺なんかじゃないでしょ!」
その声に他の出演者は目を落とすなり頷くなりして小さく社会を形成している。
社会で生まれるものは何か?感動?倫理?抑圧?戦争?
わからないけれども、お金はどこにでも生まれる。私にも生まれる。
「でもさあ、その子供っていうのも、最近流行りの無交渉生児でしょう?彼らに命の尊さがわかるとはとても思えないし、それにもうそんなの事実上ロボットと同じようなもんじゃないの。だいたいね、やっぱり子供の始まりには、ねえ……あらやだ!まだお昼よ!」と、旧世代の主婦層のご意見番が粘着きのある声で言っていた。彼女の化石のような佇まいが保護するに値するものに私には見えないが、しかし一定数の需要があってこそ彼女はテレビの奥に座っていられる。
「敢えて言わしてもらうけどね、そんな生まれ方をした子に命の尊さなんてわかるわけないじゃないの!!」
私たちは子供に恵まれなかった。「恵まれない」という言葉に私は疑問を感じるが、しかしとにかく平坦に事実だけを述べるならば、私たちは「子供に恵まれなかった」のだ。そして、私たちは「お金」にだけは恵まれていた。妻は私の両肩を強く揺すぶったし、私も子供が欲しかった。まだ汚れていない無垢が学び育ち少し汚れ、それでも強く生きていく映画のような人の生を誰よりも近くで観てみたいと思った。
妻の家が「枷」になった。彼女の両親は私たちを「サタニスト」と罵った。「そんなもの、人の子ではない」と、まだ存在しない私たちの子供を否定した。彼女は両親との絶縁さえ惜しまなかった。私たちはとにかく子供が欲しかった。子供に目が眩んでいた。決して性欲ではない欲求が私たち夫婦を突き動かしていた。その連帯感を私は「愛」と呼びたい。
彼女は妊婦にならなかった。「マリアみたいだね」と私が言うと、彼女は怖い顔をして「冗談でもそんなこと言わないで」と私を強く叱った。
私たちの子供はすくすくと育った。私たちの知らない白くて清潔な部屋の中で。決して波の立たない静かで暖かい液体の中で。
覚悟はしていた。惜しいことはなかった。けれどもやはりとてつもない額のお金が要求された。
紙切れ幾つで人の生命さえ築けるようになった時代に私たちは生きていて、その恩恵をバベルよりも遥かに高い場所で眺望している。私の預金口座の零は瞬く間にその桁を減らしたが、それらはすべて「1」に変わった。それは「可能性」であり「歓び」であり「家族」であり、ほとんど約束された「幸福」だった。
マタニティブルーではないが、時折、私はとてつもない罪悪感に襲われた。
「ぼくは、このあまりにも過酷な世界で生きていかなければならないのか。そんなの、あんまりではないか。選ばせてくれてもよかったじゃないか。ぼくに「生まれたいかどうか」を生まれる前に聞いてくれてもよかったじゃないか。そうでしょ!?ねえ!?父さん!!応えてよ!!」
そんな悪夢を何度も見た。私は、彼の育った培養槽の中で仰向けになっている。水の薄い鏡を通して輪郭の歪んだ息子が私を見詰めて怒鳴っているのだ。夢の最後には、息子の手が真っ直ぐ私に伸びてくる。水の鏡は割れもしないで外からの手を拒むことなく包み込むように受け入れる。その外からの手は雑菌だらけで、それ以上にあらゆる汚物で真っ黒に染まっていて、私にはそれがわかる。けれどそれで水が濁ることはなかった。私は彼の両手に抱きかかえられ培養槽の中から外へと出て行く。私は「生まれる」を体験する。身体は直ちにエラ呼吸から肺呼吸へと切り替わる。鳴き声がする。それは私の産声だ。慟哭だ。このどうしようもない世界に生まれたがための絶望だ。幼い筋肉は怒りでみるみる隆起し、小さな拳を作る。そして、これ以上ない醜悪な顔で目一杯に泣き喚くのだ。
「ふざけるな!ふざけるな!ふざけるな!」と。
そして目が覚める。あの日曜日、目覚めて最初に目にした光景は、彼が空中で小さな振り子運動をしている様だった。遊んでいるのだろうと思った。「それは違う」ということを、私はそのすぐあとの妻の絶叫と新品の牛乳が床に落下して上げる白い血飛沫で知ることとなる。
「ねえ、心臓が林檎だって、どういうことだったんだろうね」
三人分の夕食が並んだ食卓の席で私は妻に問うた。今夜はカレーだ。それは彼の大好物だった。彼の席だった場所でカレーは冷え、少し厚く粉っぽい膜を張っている。
「何よそんなの、直接この子に聞けばいいじゃないの?ねえ、パパったらおかしなことを言うのねえ」
そう言って彼女は何もない場所に微笑みかけ、宙を丸く、愛おしさが溢れ出る手付きで撫でた。愛おしさもカレーと同じように冷えれば膜を張るのだろうか。いつか彼女の人生の幕引きが訪れたとき、きっと現在の私にはそれが「救い」に見えてしまうだろう。それは罪だろうか。
「うん、そうだね」
そう言って私も虚空に笑った。
家の扉は未だに重い鉄の音で以て私たちに遠慮無い来客を報せるのだった。
a idea 久山橙 @yunaji
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