赤橙は冷たい血管の中

 飛べない鳥のあざとい看板がざわざわと私を揺らす。数分前までこちらを睨んでいた金髪が真っ赤に染まっている。それを見下ろして、私は私を探している。

 月は綺麗だ。静かに冷たい灯りは季節を問題としない。そいつはいつも空高くにいて涼しそうだ。

 重い手応えのあとの金属バットはずっと焼けるように熱く、私の手の中で隆起した男根のように脈打っている。血液の流れない金属は熱の伝導率が人のそれよりずっと高い。

 人が死ぬ。それは生きていてこそではないか。死が生を内包しているとか、生とは病であるとか、そういった類の本を読んだことがある。よくわからなかった。その本の中では大量の人間が死んだ。文字によって殺された。文脈の中で死んでいった。それは肉体の伴わない死だった。私に自殺願望はない。ただ、いずれ死ぬことにはなるだろう。私と私の肉体は、どうやら思うところが違うらしい。方向性の違いで言い争うことはなかったが、そのうち音楽性の違いで耳を自ら引き千切るぐらいのことはありそうだ。私の無くなった私の肉体には意味があるのだろうか。あってもなくても、私の無い私の肉体の意味の有無など私には関係のないことだとは思うが。

 いま、目の前の金髪は生きていた。私はいまも死んでいる。それが人生のテーマであるならば、私はそれが少し悲しく、そしてそれ以上に誇らしく思う。過去形で語られる生、現在進行形で育つ死。生命、ここに極まれり、みたいな。

 金髪はいま、まさに永遠に向かって白目を剥き、泡を吹き、赤色を流している。私には永遠が何処に、何故、如何にして在るかなんてわからない。金髪のこれまでも知らない。知ったことではない。哲学科に通う学生の病んだ両目とその下の隈が嫌いだ。けれど少し羨ましくもある。金髪の目はそのような人種とは対極にあるサバンナのような目付きだった。隣で歩いていた女が私には尻の赤いニホンザルに見えた。手の中の金属バットは益々熱くなっていく。


 赤橙が遠くで木霊している。金髪は赤色の染みた頭を徐々に冷やしている。私は息が上がっている。頭は存外に冴えている。金髪の隣で女が鳴いている。アスファルトに横たわる金髪の肩を掴み、それを上下に揺らしている。唾液が糸を引いている。女は肩で息をしている。髪は黒い。目と唇は赤く、爪も仄かに赤かった。女の、アスファルトが刺さった白い膝からは血が薄く滲んでいる。それが経血でないことだけがわかった。

 女は私を見ない。ただそこで鳴いている。言葉はなく、そこには叫びがある。以前、インターネットで死を検索した。鹿撃ちをする猟師のドキュメンタリー映像がヒットした。猟銃で死んだ子鹿をじいっと見つめる親鹿の黒目には、沈黙と諦めと、それから怒りがあるように思えた。鹿の文脈を私は知る由もないが、しかし同じ生命として、私たちは同じ何かに呪われている気がした。

 私には呼吸がある。生命もある。金がなく、職がなく、夢がない。どこに落としたのだろうか。私は忘れてしまった。いや、知ったことではなかったのか。わからない。意味があるのだろうか。私をタグ付けする説明書。そんなもの初めからなかったような気もする。脳が曖昧で自我が迷っている。かつて私は母親の膣の感触を全身で覚えていた。その聡明をいつの間にか失くした。

 金属バットがとにかく熱い。手の平の肉がとても爛れているのではないか。怖くて私は目を向けられない。恐怖がある。肉の焼ける臭気がある。それは骨を煮る麺屋の換気扇の下、或いは生への執着だと思う。女の鳴き声の内容もそれと似たようなものだろうか。

 女がようやく私を見た。睨むような目付きで、真っ赤に充血した眼球で、血管が「ここにいるよ」と強く主張するその眼球で、私を見た。私は、その目が怖かった。オセロにおける、盤面の四隅を全て奪われたような不安がある。急速に金属バットが冷たくなった。同時に私の心臓が早鐘を打ち始める。脈拍が上がる。これは恋かもしれない。白が黒に、黒が白に、宗教が存在に、哲学が娯楽に、労働が背徳に、新書がレコードに、アルコールが野菜ジュースに、地下鉄が徒歩に、ペンギンがバオバブに目まぐるしく入れ替わる。


 いま、私のすぐ後ろで赤橙が回転している。それが月の静かな夜に水を差している。私は氷の少なくなった南極で困り果てたシロクマの表情でバットを振り下ろす。

 破裂音。それが炸裂。私はアクションスター並みのオーバーアクションで吹き飛ぶ。赤色が噴き出る。私の額に第三の目が開く。瞬間、女の眼球が地球のように青く見えた。


「※※※※※※※※※※※※」

女が何かを言っている。

「※※※※※※※※※※※※」

赤橙の回る場所からも何か聞こえる。低い男の声だ。論理的で暴力を孕んだ、黒く艶のある牛革のような権力の声。


 母親は音楽が好きだった。父親は野球が嫌いだった。私はどちらにも興味がなかった。ムーンリバーが鳴っている。ベーブルースが笑っている。静かになっていく。赤色は私だった。吸収率の悪いアスファルトを通って、私が地球に染み込んでいく。地球の真ん中にはマグマも凍るような真実があるらしい。論理的かつ非人道的かつ冒涜的な暴力があるらしい。だから神様は地球に住めないって専らの噂だ。


「※※※※※※※※※※※※」

私は自身の呟きの意味ももう汲み取れない。バベルは崩壊した。私も直にドーナツの形の輪っかをつむじの上に浮かばせることだろう。


 金属バットはまだ私の手の平の中だ。それはどんどん熱くなっている。きっと私の体温を根こそぎ持っていくつもりだろう。

 金髪が死んだ。女は鳴いている。権力が私を殺す。正義は私を破壊するだろう。


 月は今晩も映画を観るらしい。それはどうやら『反復』という題らしい。永遠にレンタルは出来ない。宇宙空間での俯瞰上映のみらしい。

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