a idea

久山橙

爬虫類のように

 昨晩こめかみのSDスロットに入れた「友人対話プログラム」を取り込んでいたので、今日から入園する幼稚園でのコミュニケーションは最初から最後までスムーズに行えた。

 幼児たちの群れの中の誰かも私と同じプログラムをインプットしているのだろう、私の知る対話システムの中の最適解であるタイミングで「おはよう」と私に挨拶をした。私への無関心を梱包した興味関心に対する返答は、はじめの一回こそ若干脈拍の乱れがあったものの、それも直に精神制御ナノナビ「クオリア」が丁寧に私の中身を調節することで正常値に戻った。


 私は子供である。「子供」の、過去にあったさまざまな「大人を守る都合詰め合わせ」のような意味合いはおよそ半世紀前に完全に死滅して、現在ではただ年齢よって区分された未成熟な肉体に宿る不自由なヒトの個体である、という意味しか持たない。心とは不確実なものではなく、出生してから10分足らずで注射され血中から全身へインストールされるナノマシンを指すようになった。ヒトは生まれ出たときの感動しか知ることのできない植物的なものになり、涙はダイヤモンドよりも貴重なものになり、表情筋は徐々に衰え、倫理は不要になり、情報をより多く捉えるために眼球は大きくなり、多くの芸術は不要になり、世界からは文学や音楽や戦争が消え、笑顔も悲しみも絶え、世界は爬虫類のように静かになった。

 生殖というものがヒトの文化から消失し、妊婦が消え、エイズが消え、妊娠管育成保管施設「ベッド」が爆発的に増えた。試験管ベビーという蔑称が意味を失くす逆転に驚くものがもういない世界において、新脳接心分析による受精卵の分析と処分は何ら問題になることではない。ヒトは、神とは科学であったことにして、そそくさと脳だけになり、感じるだけの毎日を過ごすため、子供の時代を無感動に生きる。


「きーらーきーらーひーかーるー」

 全員が全員、完璧にいくつかのタイミングで音を外すことで園児の合唱は完成する。自動演奏される黒いピアノがなだらかに鍵盤を沈める。すると音が鳴り、わたしたちはうたう。音楽室中に調律された不協和音が鳴り響き、わたしたちは感じることもなく、ただ「かくあるべき姿勢」を保ってうたっている。

 時刻になると、呼吸をする肉のバス「タイラント」がやってくる。それは私たちを乗せると大きく膨らみ、肉で包み、安全に家庭へと送り届ける。その間、私は人工肉の温かみと呼吸する音と真っ暗の中で合理的に微睡んでいく。

 家に着く。ドアを開ける。服をすべて脱ぎ、焼却する。全裸になって白い壁の廊下を進む。殺菌消毒を施すシャワーを浴びる。それらを終えてやっと私は帰宅できる。

 培養槽の中で両親の脳が呼吸している。両親の顔を私は見たことがないが、その代わり私は両親の脳の皺の数を把握している。その固執を旧世代は「愛」と呼んだのだという。

 耳の穴に脳接線の片方のプラグを差し込み、もう片方を母親のプラグ差し込み口に差し込む。母親は「おかえり」と思っている。このとき、私は言語化できない多幸感で肺が震え、小さく嗚咽してしまう。続いて父親の脳と私は繋がる。父親は「ほらほら、すぐ泣いちゃうのはよくないぞ」と思っている。私は更に涙を流す。


 私たちは、生まれてから二十年間、「子供」の期間には感情を殺したまま生きることを義務付けられる。そうやって二十年生きた私たちは、やっと「大人」になれる。脳だけになれる。感情だけに、感動だけになれる。


 夕食の液体と固形物は無味無臭で、色はどれも白く、液体は少しとろみがり、固形物はやわらかい。父親と母親は気持ちよさそうにエナジードリンク色の液体に浮かんでいる。それらはどことなく視線を以て私を見守っているような気さえする。勘違いだと思うけれど。

 旧世代、感動に振り回されていたヒトたちはたくさんの動物を殺し、その肉を食べたという。野蛮でどうしようもない種族だと思う。その根本にあるものが「感情」だという声がいつからか地球の青を真っ白に染め上げた。その疑惑は集合的無意識を徐々に煽情して、ついには現在の私たちが生きる世界を形成するに至った。


 感動は罪である。感情は罰である。許しを乞うため、ヒトは肉体を捨てる。


 今日しなければならないことをすべて終える。本当は両親と延々繋がっていたいのだけれど、脳接線による接続が脳にかける負荷は相当なものらしく、それは一般に一日一時間が限界だとされている。今日の私に許されていることは、もう「終身」ばかりである。

 私は四年生きて、この世の大抵のことはインプットされている。過去、約九年かけて行われていた教育も、今ではたった一度の注射で事足りる。それを「実質の伴わない知識や教育は全く無意味だ」と批判する声もかつてはあったらしい。しかしそれも徐々に脳に還元され、安らかに眠った。

 ただ、時折「思い出す」ヒトというのもあるにはあって、現在でもこの世界から自殺というものは完全には淘汰されていない。殺人がなくなり、窃盗がなくなり、通貨がなくなり、労働がなくなり、宗教が、国家が、ポルノが、娯楽が、猥雑が、あらゆるすべての喧騒がなくなったこの現代に、しかし未だ自殺は生きている。

 以前、私は母親に「感情は苦しいですか?」と聞いた。母親は「あまくてにがい」と思っていた。私は「あまさ」も「にがさ」も知っているけれど、そこには体感が欠けていて、それは私の中の動揺とそれを「正常」にしようとする「クオリア」の活動を大きくする。


 こめかみのSDスロットから「友人対話プログラム」を抜き出す。途端に私を不安が殺そうとする。早く大人になって、この分厚くて狭苦しい頭蓋骨から自由になりたい。淫猥な肉体から解放されたい。廃棄されたインターネットで未だに少女が繰り返されている。統制と統制の隙間で私は私を思い出す。この世界は夢なのか。自由とは何であるのか電脳は知っているのだろうか。私は知らない。何も知らない。


 おとうさんとおかあさんのあたたかみってなあに?


 睡眠チップをこめかみから嚥下する。じんわりと浮遊感が来て、ぼんやりとして、網膜はタイムカードを切って、私は静かに沈んでゆく。


 爬虫類のように、音も立てずに目蓋を閉じる。

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