最終話 「想いは壁を越えて」

 翌、土曜日。

 その日の鷹尾周の一日は、メイドに起こされるところからはじまらなかった。


 メイドは昨日、追い出してしまったからだ。


 代わりに周を起こしたのは、寝る前にセットしておいた目覚まし時計。この家にきて初めての出番だった。


「あー……るせぇ……」


 目覚まし時計の頭を叩いてけたたましいベルを止めると、周はむんずとそれを掴んだ。表示を見る。いつもの時間だった。


「なんだ、やればできるじゃないか」


 ぎこちなく苦笑する。


 しかし、実際のところ昨夜は、ひとりで起きないといけない、寝過ごしても誰も起こしてくれないという緊張感から目が冴えて眠れず、ようやく睡魔がやってきたのは明け方近く。結局、眠りが浅いままの起床だった。


 着替えて部屋を出る。

 そして、誰もいない、照明すら点いていないリビングを見て呆然とした。当然ながら、朝食などできているはずもない。


「要するに、だ――いつも通り起きてたらダメってことじゃねぇか」


 やっとそこに気がついた。


 兎にも角にもまずは朝食からだろう、とキッチンを漁りはじめる。実は物色せずとも昨日の夕飯の残りがあるにはある。なにせ用意されたのがふたり分で、ひとり分しか消費していないのだから。だが、それはいざというときの今日の夕飯としておいておくつもりだった。それに何より、今はあまり触れたくはない。


 いつもなら月子がスクランブルエッグやらフレンチトースト、焼き魚などを出してくれていたが、果たしてどうすればそんなものができるのか、今の周にとっては魔法の領域だった。


 とりあえず食パンを見つけてみたものの、これをトースタで何分焼けばいいのかがわからない。試しに5分焼いてみる。


「焼死体一丁あがりっと。……廃棄」


 外道はお呼びではない。


「って、もうこんな時間かよ」


 結局、焼きもしない食パンにジャムを塗りたくったものを牛乳で流し込んで朝食とした。


 部屋に戻って登校の準備をしてから、家の中の戸締りを確認して回った。尤も、朝起きてから換気もしていないので、確かめるまでもないのだが。ただ一ヶ所、月子の部屋だけは、昨日から一度も見ていない。だが、彼女のことだから出ていく前にきちんと施錠はしているだろう。そう思って周は、その部屋に踏み入ることをやめた。


 ひと通り確認してから、リビングのテーブルの上に置きっぱなしにしていた鍵を掴んだ。それは昨日まで月子が持っていたもので、今日からは周の相棒だった。


 玄関で靴を履き、そして、


「げ」


 と、小さくうめいた。

 玄関の鍵をかけ忘れていたのだ。


 これが駄目押しとなって、周は己のダメさ加減に深々とため息を吐いた。





 今日も自分を学校生活の枠に押し込む。

 そのほうがよけいなことを考えずにすむから。


 だが、昨日まで以上にそうしたいのに、今日は生憎の土曜日だった。そして、こういうときに限って友人たちは皆そろって予定が入っていて、誰ひとり買い喰いにも寄り道にもつき合ってくれなかった。


 昼食を学食ですませ、駅前の本屋とCD屋に寄っても、午後3時が限界だった。


「ただいまー」


 玄関を開けるなりそう口にしたのは習慣というよりは、そうでもしないとやっていられなかったからだろう。


 周は、出かける前と何ひとつ変わらないリビングの風景に、妙に感心してしまった。

 散らかした新聞雑誌も使った食器も、自分が片づけない限りずっとそのままだ。それがひとり暮らしの絶対的真理というものなのだろう。


「明日あたり藤堂さんでも呼ぶか」


 確か実家を出る前に家政婦の藤堂から、家電製品の使い方やひとり暮らしの心構えなど、ひと通りのレクチャを受けたはずなのだが、月子に頼り切った生活の中ですっかり忘れてしまっている。もう一度いろいろおしえてもらう必要がありそうだ。


「ちっ」


 何に対しての苛立ちなのか、舌打ちをひとつ。


 周は静寂に耐え切れずテレビを点け、制服のままで座椅子に腰を下ろした。





(この家ってこんなに広かったんだな……)


 そう思ったのは陽も傾きはじめた夕方。照明も点けていないリビングはもう薄暗い。


 気がつけば再放送のバラエティ番組ばかり渡り歩いていたテレビは消えていた。つまらなくなって無意識のうちに電源を切っていたようだ。


 座椅子の背もたれに体重を預け、天井を仰ぎ見る。

 静かで、嫌でもひとりなのを実感させられる。しかも、出かけた月子を待って、ひとりで留守番をしているときとはまた違う感覚。これを孤独というのだろうか。


 昨日までここにいた月子はもういない。自分が追い出したのだ。


「仕方ないだろ。辛いんだからさ」


 自己を弁護するようにつぶやく。


 彼女は周の幼馴染みで、姉で、メイドで、そして、初恋の人だった。だが、その恋も想いも、いきなり現れた身分という壁に……


「ぁ……」


 と、そこまでぼんやりと思ったところで、小さな声を上げた。


 気がついたのだ。

 自らのしでかした過ちに。


「は、はは……。なんだ、そりゃ。アホかよ、俺は」


 自然、乾いた笑いがもれる。愚か過ぎる自分に、呆れるのを通り越して笑えてきた。


 そうだ。月子はもういない。

 周自身が追い出した。


 彼女が戻ってくることはもうなく、明日も明後日も、この先ずっと周はこの部屋でひとりなのだ。


 周はふらふらと立ち上がった。向かったのは月子の部屋の前。ノブを掴もうとして――逡巡。しかし、それでも迷いを振り切り、ドアを開けた。


 真っ暗な部屋。手探りでスイッチを探し、照明を点ける。これまで数えるほどしか見たことのない月子の部屋だった。左手の壁にベッドがあり、右手には勉強机とクローゼット、細い本棚もある。女の子らしい色使いの内装だと思った。


 ふと見ると壁にはハンガーにかけられたエプロンドレスが吊るされていた。


 メイドだった月子のユニフォーム。

 彼女は毎日これを着て、この家の家事の一切をこなし、周の世話を焼いてくれていた。


 周はおそるおそるそれに触れてみる。


 ふわりと優しい手触り。

 だけど、それは抜け殻だった。


 周が取り逃がしてしまった、大切なものの抜け殻。


 気がつけば周はそれを手に取っていた。胸にかき抱いてみればあまりにも薄くて軽く、その持ち主がもういないことを否が応でも思い知らされた。


 足から力が抜け、膝から崩れ落ちる。

 失ったものの大きさに、涙があふれそうになる。


 と、そのとき――、




「驚きました。周様に、人目を盗んでこっそりメイド服を抱きしめる趣味があるとは思いませんでした」




「は?」


 それは聞き慣れたはずの声。でも、たった一日聞かなかっただけで胸が締めつけられるほどの懐かしさを覚えた。


 そちらを見てみれば、そこに月子が立っていた。「ドン引きです」と言わんばかりに、白けた表情で周を見下みくだしている。否。見下みおろしている。


「い、いや、これは……」


 慌ててエプロンドレスを手放す。


「ていうか、何で月子さんがここに?」

「お忘れですか? 前に言ったはずですよ。この部屋に勝手に入ると警報が作動し、私が十分以内に駆けつけると」

「……」


 確かにそんなことを言っていたような覚えがある。


 しかし、だ。


「って、本当に鳴んのかよ、警報」

「鳴りましたよ」

「聞こえなかったぞ」

「そうですか?」


 月子は表情も変えず反問し、


「でも、私には聞こえました。だから今、ここにいるのです」


 そう言って少しだけ笑う。


 でも、やっぱり意味がわからなかった。もういい。理解を諦めた。今はもっと大事なことがある。周は床にあぐらをかいて座った。自信なく項垂れ、視線を落とす。


 一拍おいてから、ぽつりともらした。


「すげー今さらだけどさ……俺、月子さんのこと好きだよ」


 言っていて自分でも呆れてしまう。昨日あんなことを言っておいて、どの口が言うのだろうか。きっと月子も呆れているに違いない。それでも周にとってこれは言っておかなければならないことだった。


 床を映す周の視界に、月子の膝頭が現れた。月子が正面に向かい合うかたちで、両膝をついたのだ。


「ようやく言ってくれましたね」

「え?」


 思わず顔を上げれば、そこにやわらかく微笑む月子の顔があった。


「その言葉をずっと待っていました」

「あ、うん。悪い……」


 周は顔が熱くなるの感じ、逃げるようにまた視線を落とした。


 そう。それが過ち。


 周は自分の想いが身分というわけのわからない壁に阻まれたと思った。事実そうだったのだろう。だが、想いよ届けと、その壁を越えてゆけと、力の限り叫んだだろうか。


 否。そうはしなかった。


 自分の気持ちを伝えようともせず、それどころか、こんなに好きなのにわかってくれないと拗ね、当り散らした。挙げ句、彼女の立場も考えず、ままならない辛さに耐えかねて追い出してしまったのだから救いようがない。


「ですが、私はメイドです。周様とは身分が違います」

「……結局そうなるんだな」


 周は投げやりに吐き捨てた。

 またその壁が立ちはだかる。身分ってなんだよ、と思う。


 だが、鷹尾家には財産があり、社会的地位があり、家柄がある。そこにはきっと周が知らないだけで、しがらみや体裁みたいなものもあるのだろう。自分が社会というものを知るにつれて、それも我が身に降りかかってくるに違いない。


「それでも私をと言うのなら、周様は立派な人間にならなければなりませんね」


 月子は諭すように言う


「旦那様の後を継いで、たかがメイドを選んでも、誰にも文句を言わせないだけの立派な人間になりませんと」

「あ、ああ。そうだな」


 情けないことに、月子に道を示されてしまった。


 だが、彼女の言う通りだ。周が家政婦の娘でありメイドである月子を望むのなら、自分たちを隔てる壁を打ち砕き、しがらみや多少の体裁の悪さを撥ね退けるだけの力が必要だ。


「そうでないと私は一生メイドのままです」

「……」


 つまり、それは今と変わらないということであり、それはそれで別にいいのではないだろうか? じゃあ、別に俺、がんばらなくてもよくね?


 と、周が思ったときだった。

 月子がぼそっとこぼした。


「もちろん、そんなのはご免被りたいので、そうなったら私はテキトーにいい男性を見つけて、寿退社させていただきますが」

「ぬおっ」


 見れば月子は、表情の欠けた顔でそっぽを向いていた。何か言いたげに口をぱくぱくさせている周の視線はまるっきり無視。


 それから彼女は、コホン、と咳ばらいをひとつ。


「さて、それでは取り急ぎ食事の準備にかかりたいと思います。どうせ周様のことですから、昨日からろくなものを食べていないに違いありませんし」

「面目ない……」


 それはまぎれもない事実だったので、周は情けない気持ちとともに苦笑する。この二日間、時間にすれば24時間ほどしかたっていないのに、今の自分ではひとり暮らしはむりだと思い知った。


 月子が立ち上がる。


「さっそく私が手抜かりなく完璧な手抜き料理を――」

「ぅおい、そこは豪勢にいってくれよっ」

「世の中には巧遅よりも拙速が尊ばれるときがあるのです」

「いや、だからって……」


 のっけから手抜き宣言はないだろう、と思うのだが。


「月子さんなら豪勢なものでも、ちゃちゃっと――」

「できません」


「せめて手抜きは――」

「無理です」


 周が最後まで言うのを待たず、月子がきっぱり言い切る。そんなに手を抜きたいのか。


「……」

「……」


「いや、でも――」

「……シュウ、うるさい」


 そして、面倒くさそうに一蹴。

 周が石と化す。


「あと――」

「まだあんのかよ……」

「ここはわたしの部屋ですので、とっとと出てください」

「お、おう……」


 さすがにこれは反論も言い訳もできない。何せ勝手に人の部屋に忍び込んだ上、今はどっかと座り込んでいるのだから。


 ようやく周は立ち上がった。


 と、


「シュウ」


 不意にやわらかい発音で愛称を呼ばれ――はっとする。


「わたしも好きよ。小さいときから」


 出会ったころから美しく聡明で、周が姉のように慕っていた彼女は、当時の面影を少しだけ残した大人の顔で、照れることなくはっきりとそう告げてきた。


「え? あ、うん……」


 斯様なことを言われた周は、呆けたようにうなずく。

 そんな彼を月子は大人っぽく微笑んで見ていたが、やがてキッと表情を引き締めた。


「では」


 軽く一礼して踵を返す。


 メイドの顔。

 見事な公私の切り替えだった。


 程なくして、遅まきながら何を言われたか理解した周は、


「うっし!」


 と、ガッツポーズ。

 喜びのあまり、何度も何度も拳を固める。


(こりゃあ本気だすしかないよなぁ)


 別に自分が能ある鷹だと思っているわけでもなければ、やればできるとも思っていないし、そもそも出せる本気なんてものがあるのかどうかも知らない。それでもやるしかないと、周は腹をくくった。


 尤も、その一方、いつもの調子で、面倒なことになったなー、とも思ったりするのだが。


 しかし、いずれ少年は知るに違いない。憧れた女性ひとのために本気になることは、男にとって本望であり幸せなことであることを。









 なお、鷹尾周が事業家として父や創業者である祖父を超える手腕を発揮するのは、まだもう何年か先のことである。

 そして、当然そのとき、傍らには彼に寄り添う美しい女性の姿があった。

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