第5話 「臨界点」

 鷹尾周には年上の幼馴染がいる。

 もの心ついたときから何かと面倒を見てくれていた少女で、今では立派な女性だった。


 遅巻きながら周は、自分がその彼女に恋をしているのだと気がついた。


 一大決心でデートに誘い、些細なトラブルは多々あったものの『終わりよければすべてよし』ではないが、よい雰囲気で一日を終えようとしていたその矢先、いきなり身分という壁が立ちはだかった。


「私はメイドです」と彼女は言う。


 かくして周の恋は挫折した。





 それがこの前の日曜日。

 あれから一週間近くがたった金曜日。表面的には今まで通りの日常を取り戻していた。



 朝。


「おはようございます、周様」


 ドア越しに硬質なメイドの声。

 いつもの風景だ。


「……ああ、起きてるよ」


 すでに目を覚ましていた周は、寝起きの気怠さも手伝って、面倒くさそうに返事をした。周が起きていることがわかったからか、月子は部屋に這入ってこなかった。


「朝食ができていますので」

「ああ」


 再度、短い応答。

 ドアの向こうの月子の気配が消えるのを待って、周は天井を見ながらため息を吐いた。


 また月子と顔を合わせないといけない。

 正直、辛いと思う。


 長いような短いような恋は、わけもわからないまま唐突に終わってしまったが、周の中には月子を好きだと思う気持ちが確かにまだあるのだ。


 かと言って、部屋に閉じこもっているわけにもいかない。ならばとっとと学校へ行ってしまうべきだろう。己に後ろ向きな喝を入れ、周はベッドから体を起こした。


 着替えてから顔を洗い、リビングへ出る。

 ダイニングテーブルの上にはふたり分の朝食がそろっていた。月子はキッチンに立ち、おそらく周の弁当の用意をしているのだろう。


 マジでいつも通りだな……――。


 こっちの気も知らないで、と我知らずむっとしてしまう。


「今日、弁当いらねーから」


 おかげで気がつけばそんなことを口走っていた。


「え?」


 と、戸惑いの声を上げる月子。

 そして、周もまた言ってしまってから、自分の発した言葉の扱いに戸惑っていた。


「行事か何かありましたか?」

「……いや、ねーけど」


 継ぐ言葉を探しつつ、テーブルにつく。


「単に欲しくないだけ。学食でも行ってテキトーに食うよ。……いただきます」

「……そうですか」


 遅れて月子も周の向かいに座った。


 最悪だな――と、自分を罵る。


 月子は今、何を思って、どんな顔をしているのだろうか。作りかけた弁当はどうなるのだろうか。しかし、周は顔を上げることも、月子と言葉を交わすこともできず、それらの疑問は心に刺さる針となって自分を責めるばかりだった。


 周は下を向いたまま、黙々と朝食に取りかかった。





「いってきます」

「いってらっしゃいませ」


 月子に見送られ、周は家を出る。


(俺だって普段通りを装ってるんだから、人のことを言えた義理じゃないよな)


 それでも自分を学校生活という枠に押し込んでしまえば楽なのは確かだ。遅刻しないように登校し、時間割り通りに授業を受ける。教師は待っていれば向こうからやってきてくれるのだ。よけいなことは考えず、受動的に淡々と一日を過ごせばいい。





 だが、ひと悶着起きたのは昼休みのときだった。


 4時間目の授業が終わり、いざ昼食、と鞄を開けたところで、ようやく今日は弁当を持ってきていないことを思い出した。自分のしたことも忘れ、無意識にいつもの運動をしようとしていたことに呆れる。


 学食でも行こうかと立ち上がった。


 と――、


「あれ、鷹尾、今日は弁当じゃねーの?」


 声をかけてきたのは、隣の席の岡本だった。


 岡本とは弁当仲間であり、くだらないことをしゃべりつつ、時には手や足でちょっかいをかけながら食べるのがいつもの風景だった。


「まーな」


 周は岡本の後ろを通って、教室の出入り口へと向かう。


「珍しいな。毎日欠かさず立派な弁当を持ってきてたーのに」


 立派なのは当然だ。周りには自分でつくっていると言っているが、実際には月子がつくっているのだから。


「ところで、お姉さん元気?」

「るせぇよ、バーカ」


 後ろ回し蹴り一閃。


 それは冗談のつもりだった。届かないのをわかってやる威嚇のようなもの。だが、周が集中力を欠いていたからか、それとも月子の話題を出されて動揺したせいか――距離の目測を誤り、上靴を履いた足の裏は岡本の肘にヒットしてしまった。


「あ、わり……」


 取り返しのつかない失敗だった。友人の手にしていた弁当が教室の床にぶちまけられる。


「何すんだよっ」


 これに怒ったのは岡本だった。勢いよく立ち上がると、周の顔面を拳で殴りつけた。周がいくつかの机を巻き込んで倒れる。幸いにしてそれらの席は無人だったので、これ以上食べものを粗末にするような事態は避けられた。


「んだよ、謝ってんじゃねぇかよっ」


 負けじと周も岡本を殴り返した。


「何やってんだ、お前ら」


 見かねて天根小次郎が割って入ってきた。再度殴りかかろうとしていた岡本の腕に己の腕を絡め、これを喰い止める。


「一二三、そっちを止めろ」

「まーかせて」


 直後、周の頭に広辞苑が振り下ろされた。





「あー痛……」


 周は頬をさすりながらマンションの階段を上がる。


 あの後すぐに岡本とは和解した。片や喰いものの恨み、片や虫の居所が悪かったということで、互いの事情を理解し、鞘を収めることになった。当然のように周は昼食を奢らされたが。


 だからと言って殴り合った痛みが消えるわけでもなく。

 むしろ顔より広辞苑を落とされた頭のほうが痛いような気がしないでもない。


「あの女め……」


 言っているうちに4階へと辿り着く。


「ただいまー……」

「おかえりなさいま――」


 出迎えたメイド姿の月子の発音が途中で途切れた。かすかに腫れた周の頬を見て、怪訝そうに眉根を寄せる。


「学校で何かありましたか?」

「ん。ちょっと、な」


 周は靴を脱ぎながら、誤魔化すように答えた。


「ったく。誰のせいだと思ってんだよ」


 周のぼやくような独り言に、月子がさらに厳しく眉根を寄せた。


「少なくとも私のせいではないと思いますが」

「……あー、うん。まぁ、そうだな……」


 たじろぐ周。

 あいかわらず弱かった。


「何か冷やすものを持ってきますので、リビングにきてください」


 嘆息ひとつしてから、月子は踵を返した。


「いいよ。舐めときゃ治る」

「どうやって舐めるんですか」


 月子の後ろ姿がリビングへと消える。

 仕方なく周も、部屋に鞄を放り込んでから、ひとまずリビングへと向かった。


「どうぞ」


 差し出されたのはタオルに巻かれた保冷袋だった。頬に当ててしばらくすると、タオルを通して冷たさが伝わってきた。熱が奪われていく。


「大丈夫ですか?」

「学校でも散々冷やしたからな。ま、大丈夫だろ」


 目の前に月子の心配そうな顔があった。


 周に何かあれば、こうやってすぐに対応してくれる。有能なメイドだ。――そう、メイド。周がどんなに月子のことを好きだと思ってみても、彼女は言うのだろう。「私はメイドです」と。


「なぁ……」


 周は切り出す。


「もう一度聞くけど、月子さんはあくまでもメイドなのか?」


 その問いに月子は目を二、三度、瞬かせた。不意をつかれたのだろう。

 それから目を伏せる。


 押し黙る姿は、迷っているようにも見えた。


「……はい」


 やがて顔を伏せたままの、か細い声がもれた。


「俺が、またこの前みたいに一緒に遊びにいきたいと言っても?」

「はい……」


 望む答えは、またも返ってこなかった。


 静寂。


 周は月子を見る。未だ視線は落とされたままで顔は見えないし、何を考えているか想像もつかない。しかし、少なくとも周の想いは届かなかったということなのだろう。


「……いけ」

「え?」


 周の不明瞭な発音に、月子が問うように返す。


「出ていけって言ったんだよ!」


 ここ数日で鬱屈したものが、堰を切って溢れ出した。


「月姉がメイドだって言うんなら、もういい! 出ていけ! 俺はもともとここでひとり暮らしをするはずだったんだ。それをバカ親父が勝手に月姉を寄越しただけなんだからな」

「でも……」

「親父には俺から言っとくよ」


 周は保冷袋を床に放り出し、月子に背を向けてリビングを後にした。


 部屋に戻り、制服から私服に着替える。ベッドの上に乱雑に脱ぎ散らした制服はまた後で片づけようと思い、部屋を出た。リビングに舞い戻ると、そこに月子の姿はなかった。自室に入ったのだろう。


 周は冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを取り出し、それを乱暴な手つきでコップに注いでから一気に飲み干した。


「くそ……」


 吐き捨てるように言ってから、手の甲で口許を拭う。


 と、ちょうどそのとき、リビングの側で月子の私室のドアが開く音がした。

 出てきた月子は、メイドのユニフォームではなく私服姿だった。すらりとしたラフなパンツルック。


 そして、手には小さな旅行鞄を持っていた。


「……」

「……」


 少しの間、互いの顔を見合う。


 先に視線を逸らしたのは月子のほうだった。


「残りの荷物は改めて取りにきますので」


 周のもとへと歩み寄る。


「これをお返ししておきます」


 差し出されたのは、月子が預かっていたこの家の鍵だった。周は黙ってそれを受け取った。


「では」


 たぶん情けない言葉を重ねれば、月子を引き止めることはできたのだろう。それでも周はそうしなかった。言葉を発した責任というものがある。


「……ああ」


 だから、そんな短い言葉でもって応えた。


 一瞬、月子の顔が悲しげに、何か言いたげに見えた――が、周にはそれが自分の願望が見せた錯覚ではないと言い切る自信はなかった。


 月子がゆっくりと体の向きを変え、そのままリビングを出ていく。程なく玄関のドアが開き、そして、閉まる音が聞こえてきた。


 この家から完全に月子の気配が消えた瞬間だった。

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