少女と花

​第4幕 第1話 少女と花



 女の子は浮かない顔で歩いていた。

天気はよく、夏の暑さもすっかり治まってきて気持ちの良い日和だというのに、女の子の額には雲がかかっていた。

山間の小さな町の街路を彼女は一人、重い足取りで歩いていた。家々には花が飾られ、花壇にも時期の花がその花弁を惜しみなく広げ、ほのかな良い香りが漂っていた。遠くに見える峰々は青く霞み、その足元に広がる深緑の森が風に吹かれて海のように波立っている。行楽には絶好の場所だった。

だが女の子は、せっかく首から古ぼけたカメラ下げているというのに、写真を撮ろうとする素振り一つ見せなかった。ただ、無表情に近い曇った顔色で先へと進んで行った。彼女の顔に影が落ちているのはきっと、女の子がかぶっているつばの大きな白い帽子が日光を遮っているせいだけではない。

女の子は白いワンピースを弱い風に揺らしながら、坂道を登り始めた。時刻はもう昼過ぎだというのに、お腹が空く気配が一向になかった。飲食店に入る気さえ起こらない。女の子はそんな自分自身に違和感を覚えながらも、いつも通り目的も宛ても無く身体の向いている方へ足を進める。そう、いつも通りだった。

坂道を登りきると、赤い屋根の大きな家が現れた。他の家々とは作りも意匠もかなり違っていた。一目でその違いはわかった。

女の子はその場で立ち止まって、この家がどういう家なのかを、その外観を眺めながら考えた。お金持ちの家か、古い家柄か、そのどちらかであろうと女の子は思った。

家の前には庭がある。庭の草花や木々はきれいに剪定されていて、ここを訪れる客人をもてなしていた。

女の子は家の方へ向けて一歩、足を踏み出そうとした。

不思議なことが起こった。

女の子は困惑した。

立ち止まっている脚を、前に動かしたはずだった。

自分はそう、自分の身体を動かしたはずだった。いつもと同じようにしたはずだった。

だが、身体は動かなかった。

まるで糸が切れてしまったかのように、その場からピクリとも動かなかった。

自分の身体が自分の思うように動かないというのは初めての経験だった。女の子はそのことを受けて多少の焦燥を抱いたが、不思議と取り乱すほどにまで、胸の内側が掻き乱されなかった。むしろ、なにも感じない、なにも無いといった無感動、無感情の占める領域の方が大きいようだった。

だが、そのことすら女の子には認識できていなかった。この不可思議な現象について考え、自分の身になにが起きているのかを分析するということを、彼女はしなかった。

 近くの茂みの裏で葉のこすれる音がした。

女の子はそちらに視線を向けた。そしてその茂みの方へ足を踏み出した。

すんなりと踏み出せた。女の子はもう、いましがた自分に起こった異変を気にもしていなかった。そのまま、音のする背の高い植物の後ろ側へ回る。

 そこには桃色の花が咲く緑色の壁をまさぐる、自分よりもすこしばかり年上らしい容貌の少女がしゃがみ込んでいた。黒い艶やかな髪は長く、深い青と白のかわいらしいドレスを着ていた。

その少女は女の子の足音に気付いて女の子を見上げた。わずかな沈黙が二人の間に流れた。

先に沈黙を破ったのは、青と白のドレスを着た少女の方だった。

「ああ、びっくりした。お客様だったのですね。」

彼女はゆっくりと立ち上がった。

その仕草には品があった。ただ立ち上がっただけなのだが、その身のこなしには目を惹かれる魅力があった。

「シャルロッテです。」

彼女はそう名乗った。シルクのような滑らかな感触の声と言葉遣いだった。女の子よりも深い青色の瞳がきらきらと輝いた。

「オフィーリアといいます。」

女の子も名乗った。

「どんなご用かしら? あいにくいまは、お父様もお母様もいらっしゃらないの。

 お時間が無いのであれば、ご用件をわたしに仰ってください。お伝えします。

直接お話されたいのなら、お屋敷でお待ちになられても結構ですよ。」

シャルロッテはなごやかに言った。その一言一句、言葉遣いは女の子が今まで出逢ってきた人たちとはまったく違う。至極丁寧で優雅だった。だが、業務的ではなかった。どうやらそれが、シャルロッテの話し方らしかった。

 女の子は取り立てて、ここに用事は無かった。

「用事は無いの。ただ、旅をしていたら偶然ここに辿り着いただけ。」

女の子は正直に答えた。シャルロッテは女の子の返事を受け取ると目を丸くした。

「そうなのですね。用事も無いのに、ここに人が来るのは初めてです。

 せっかくいらっしゃったのですし、お茶でも飲んで行かれませんか?」

シャルロッテは柔和に微笑んで言った。

女の子はすぐに、はいと答えようとした。だがその言葉は喉元でつっかえて外には出てこなかった。さきほど、足が動いてくれなかったときと同じような感触だった。まるで、見えない何者かに抑制されているようだった。

女の子は口を薄く開いて、結局なにも言葉を発さないまま口をつぐんだ。

そんな女の子の身体の動きと目を見て、シャルロッテはあたたかな瞳の奥を鋭く光らせた。そのことに女の子は気付いていなかった。

シャルロッテはまたきれいに笑ってみせた。

「さ、行きましょう。」

シャルロッテは女の子の手を引いて大きな屋敷の方へ歩いて行った。女の子は成されるがまま、手を引かれてシャルロッテの後に続いた。女の子はなんとも言えなかった。

シャルロッテは庭の片隅にある白木のテーブル席に女の子を連れて行った。そして女の子を椅子に座らせると、すこし待つように言って屋敷の中に入った。

 女の子は見知らぬ屋敷の敷地内に一人ぽつんと取り残されてしまった。

他より高い位置に建つこの屋敷の敷地から眺める景色は絶景だった。青い山と緑の森、その真っただ中にこの小さな町はある。赤茶色の屋根と白い壁がひっそりと咲く野花のようだった。立派な屋敷を背に、きれいな庭園の席に着いて草花を鑑賞する。さながら自分が良家の令嬢になったかのような絵だった。

 だが、女の子は相変わらず明るい表情を見せなかった。いま彼女の蒼い瞳に映る一切は意味を成さなかった。彼女はずっと自分の変化について考えていた。

気分が落ち込むというわけではない。胸が苦しいというわけでもない。だが、どうにも胸の内に流動が起こらなかった。せっかく流動に身体が動かされようとしても、今日はなにかがそれを止める。もどかしい、すっきりとしない心持ちだった。

 女の子が薄桃色の唇に人差し指を当てて思考していると、シャルロッテが盆を持って帰ってきた。その気配に、女の子はシャルロッテを向く。

「お茶が入りましたよ。さ、どうぞ。」

シャルロッテは言いながら盆をテーブルに置いた。

白地の滑らかな陶器のカップに、色とりどりの小さな花が描かれている。ポットも、カップと同じ意匠だった。

シャルロッテは女の子の前にカップを置いた。ポットの蓋を抑えながら、ゆったりと紅茶を注ぐ。きれいな色をしていた。茶葉はかなり上等なものらしく、溜息が出るほどいい香りだった。シャルロッテは自分の分も紅茶を注ぐと、女の子に視線を向けた。

「気分が、すぐれないのですか?」

「ううん。ありがとう。いただきます。」

女の子はカップを持って一口飲んだ。それを見届けてから、シャルロッテも紅茶を飲んだ。

女の子はぼうっとしていた。

「なにか、お悩みですか? ずっとなにかを考えていらっしゃるようですけれど。」

シャルロッテの問い掛けに、女の子は我に返った。

「今日は、なんだか自分が変だなって思うことが多くて。それでちょっと。」

「それは、どう変なのですか?」

シャルロッテが紅茶を嗜みながら訊いた。

「さっきもそうだったんですけど、思った通りに身体が動いてくれないんです。

 なにかに、邪魔をされているみたいで…。」

シャルロッテがカップを置いた。カップの脚と皿が当たる、陶器の固い音が鳴った。

彼女はすこしだけ首をかしげながら女の子を見た。

「もしかして、さっきお茶にお誘いしたときもそうだったのですか?」

「うん。すぐに言おうとしたんですけど、なぜか言葉が出なくて。」

女の子はカップの中にたゆたう紅茶の色を眺めながら言った。

「お父様がいらっしゃったら、原因がすこしはわかるかもしれませんが…。」

お父様という言葉に、女の子の胸の内側はきりきりと痛んだ。爪を立てて引っ掻かれているようだった。

「それは、なぜですか?」

「私のお父様は、心理学者で精神科のお医者様ですから。

 人が心の内に秘める苦しみや、心の構造や働きには詳しいのですよ。

 私もすこし学術書を読んでいまして、あなたは見たところ心の望むことを抑え込む、

 超自我というものが、どうも強すぎるようですね。しかしそれにしても…。」

そこでシャルロッテは言葉を一度区切った。テーブルの上で両手を組み、じっと女の子を見据えている。優しい表情だったが、その中にも厳しさのようなものがあった。先ほどよりも、目つきがきつくなっている。

「あなたは、心の欲求に対して、こうしてはいけない、人に迷惑がかかってしまう、

 そういったことを思ってはいないのですよね?」

ここ最近から遠い記憶に至るまで、女の子は自分の過去を思い返してみた。どれほど考えてみても、シャルロッテがいま挙げたようなことを思ったことは無かった。

女の子は顔を上げて言った。

「そうですね。そういったことを思ったことはないです。」

シャルロッテは一つうなって、また紅茶を飲んだ。

「となると、あなたを邪魔しているのは意識としての超自我というよりは、

前意識としてのなにか、なのでしょうね。意識と無意識の狭間に刻み込まれた、

知っているが、それがどういうものなのかをはっきりと思い出せない、

そんな曖昧なものが、あなたのイド、つまり衝動と欲求、そして感情を

押し止めているのでしょう。」


 ――― イド ―――


その言葉を聞いて、女の子の胸の中でなにかが跳ね上がった。驚きと言ってもいいが、それではなにか違う。晴々としていた蒼い空に黒い雲が垂れこめ始めたときのような、これから降る雨と雷を危惧するときのような、そんな憂いも介在していた。

シャルロッテの言うことは女の子には難しすぎて理解のを逸していたが、その言葉だけは、その名前だけは自分も知っていることだった。

「イド、ですか?!」

女の子は今までに出したことのないような張り詰めた声を上げた。その声に、シャルロッテは驚いて身を引いた。だが、すぐにまた表情をやわらかにする。

「どうされたのですか? イドをご存知なのですか?」

「わたしの、夢の中にときどき出てくるんです。わたしとよく似た顔をした、

 イドっていう名前の女の子が。」

シャルロッテが、真剣な表情になった。強い瞳で、女の子を見る。

「その夢のこと、すこし詳しく聴かせてもらえませんか?」


​♪♪♪


 シャルロッテは女の子に、どんな細かなことも漏らすことなく話して欲しいと言った。

女の子は包み隠さず、深海の夢のことを話した。シャルロッテは女の子がすべて話し終えるまで、一切の言葉を口にしなかった。じっと表情を変えずに女の子の話に聞き入っていた。あらゆる情報をも聞き逃さないように、全神経と思考を彼女だけに集中させていた。

 女の子は二回目の夢のことも話し終えた。それがすべてだった。その夢を見てから、胸の内に流動が起こるようになったということも伝えた。

話を終えて、女の子は紅茶をようやく飲み、一息ついた。

シャルロッテは女の子の話を聞いてそれを咀嚼し、分析しているようで、未だに一言も喋らなかった。

女の子は紅茶を飲みながら、彼女を待つことにした。

「夢というのは…。」

黙していたシャルロッテが、静かに語り始めた。

「夢というのは、無意識が意識に混入して、抑圧されていた願望を

 幻覚的に開放する心の機能です。そこに、あなたのイドそのものが現れた。

 どう解釈していいのか、答えは出ませんが、

 あなたも、心に御しがたい苦しみを抱えているのですね…。」

「あなた……も?」

シャルロッテは妖艶に微笑んでいた。彼女はゆっくりとうなずいた。音も無く立ち上がると、近くの花壇に咲いていた桃色の花を引き抜くと、茎を折ってしまった。そしてそのままテーブルまで戻ってくると、花を女の子に見せた。

「あなたは、この花をどう思いますか?」

「とってもきれいで、かわいらしい花だと思います。」

女の子はそう答えたが、そんなことは欠片も感じていなかった。ただただ、その花を物質として捉え、分析し、記憶と知識を頼りにその答えをでっちあげたに過ぎなかった。

「私は、こう思うのですよ。とっても、おいしそうって。」

そう言うと、シャルロッテは桃色の花弁をんだ。その様子に、女の子は呆気にとられた。

花を食べる。それはどう考えても異常なことであった。

しかもシャルロッテは、おいしそうだと言って、好き好んで食べているようだった。

「異食症。そう呼ばれる病気です。これも、心が壊れてしまったときに発症する、

 すこし変わった病気なんですよね。私、きっともう死ぬと思います。

 私は、花以外のものを食べようと思わなくなってしまいましたから…。

 さいごに、あなたとお話ができてよかった。」

「生きるというのは、大変なことですね…。」

女の子は紅茶をすべて飲み干した。それから、白い鞄の中から手帳とペンを取り出してシャルロッテに向き合った。

「ご住所、教えてください。お手紙書きますから。」

「ふふふ。最初で最後の、おともだちかもしれないな。

 オフィーリア。きっと、忘れないよ。」

シャルロッテは自分の住所を女の子に伝えた。女の子はそれをしっかりと書き留めた。

シャルロッテは立ち上がって花をもう一輪食べた。

「ねぇ、オフィーリア。」

「なんですか?」

シャルロッテは女の子を振り向くと、楽しそうに笑いながら言った。

「そんな丁寧な言葉、使わなくていいよ。わたしも、もうやめるから。

 呼び方も、シャルでいいよ。オフィーリア。紅茶、もう一杯飲んで行かない?」

「うん。ありがとう。シャル。」

女の子は、ようやく、かすかに笑った。

その瞳に、無意識に、涙を溜めていた。




→第2話へ続く

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Ophelia〜オフィーリア〜 増本アキラ @akiraakira

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