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​第3幕 第3話 Series



 リチャードが児童養護施設への寄付を名目とした企画をジョナサンに持ち掛けた、あの夏の日からずいぶんと時間が経った。

ジョナサンは、かの養護施設の一室で死んでいるかのように眠り、眠っているかのように起きる、オフィーリアという不思議な少女をモデルにした絵を描き続けていた。

世間はもう長く暑い夏を終え、秋を迎えていた。

 ジョナサンは来る日も来る日もアトリエに閉じこもり、一心不乱に絵を描き続けた。その様は病的ですらあった。他人から見れば狂気の域であった。

彼はときおりオフィーリアと面会するために養護施設を訪れたが、職員たちの彼を見る目は少々怯えていた。そのことにジョナサンは気付いていたが気にしなかった。そんなことは慣れていた。そんなことを逐一気にしていたら、彼は画家になどなれなかったであろう。そのことはジョナサン自身、よくわかっていた。

 オフィーリアはいつも眠っているようだった。ベッドから起き上がっているときも、ベッドに横たわっているときも、まるで意識が無いようだった。言葉も一切口にしなかった。彼女が生きているということを教えてくれるのは、彼女の浅い呼吸の音だけだった。

 彼はオフィーリアの元を訪れると、必ず彼女に話しかけた。だが、絶対にオフィーリアは言葉を話さなかった。声すら出さなかった。一切の反応を示さなかった。キャラメルを差し出してみても、彼女は見向きもしなかった。

だが、それでもジョナサンはオフィーリアとコミュニケーションを取ろうとしていた。まるで人形と話しているようなジョナサンを見て、職員たちは彼の正気を半ば疑っていた。

 ジョナサンは寝食も忘れて、オフィーリアの絵に打ち込んだ。

次々に作品は仕上がっていった。いままでに無いほどのペースだった。たった四カ月ほどで、オフィーリアをモデルにした絵だけで個展ができるほどの作品が、彼のアトリエで生み出された。


 ある日、リチャードから連絡があった。ジョナサンの家兼アトリエを今から訪問してもいいかと彼は訊いた。話が急だったが、ジョナサンは承諾した。彼はあまりアトリエに人を入れたがらないが、リチャードに関しては特別だった。

 すぐにリチャードはやってきた。彼はアトリエに入るや否や、目に飛び込んできた光景に息を呑んだ。アトリエの壁には所狭しと、オフィーリアをモデルにした美しい絵たちが無数に、規則正しく立てかけられていた。

そして、いまジョナサンが描いている絵に魂が震えた。

 巨大な絵だった。脚立を使わなければ一番上の方に筆が届かないほどの大きさだった。四カ月、数え切れないほどのオフィーリアの絵を描き、その後で更にこれほどまで大きな絵を、ジョナサンはたった一人で描き続けていたのだ。リチャードは戦慄すると同時に尊敬と恍惚を胸の内に抱いた。

「やあ。いらっしゃい。」

脚立の上で筆を執っていたジョナサンが振り向いて言った。

「ジョナサン。きみの衝動は、ぼくの想像を遥かに超えていたよ。

 なんて、素晴らしい作品たちなんだ。」

ジョナサンは脚立から降りて、入り口で立ち尽くしているリチャードの方へ歩いて行った。そうして彼の横に立ち、彼と同じ視線で、描きかけのオフィーリアの絵を眺めた。

「オフィーリアといえば、やはりこれだろう。どうだい?」

「ああ、素晴らしい。」

二人はしばらくの間、その巨大な絵を眺めていた。


​♪♪♪


 オフィーリアという名前でまず有名なのは、劇作家、ウィリアム・シェイクスピアの四大悲劇、ハムレットに登場する乙女である。

武勇の国であるデンマークの王子、ハムレットと恋をするが、様々な思惑が交錯してその恋は実らずに終わる。仲の良い彼女の兄はフランスに赴き、ハムレットはとある復讐の為に狂気を装って、不本意ながらオフィーリアをひどく罵った。そして更には彼女の実父をハムレットが誤って殺してしまう。

オフィーリアはハムレットが殺してしまったことを知らないが、それでも心の支えとなっていた人々は皆、立て続けに彼女のそばを離れていってしまった。

 そうしてついにはオフィーリアも発狂。脈絡のない言葉を並べ立て、謎かけや古い歌の引用、花言葉などを用いてハムレットとの失恋、父の死、ハムレットが罵ったことに関係のあることを人々に訴えようとする。

 最期の様子はハムレットの実母、デンマークの王妃によって口伝で語られる。

せせらぎが美しい川べりの木にオフィーリアがよじ登り、その枝先に花かんむりをかけようとした瞬間に枝が折れ、オフィーリアは真っ逆さまに川の中へ落ちていく。

オフィーリアは自分の身に迫る危機もわからないようで、水面に浮かびながら古い歌を途切れ途切れに口ずさんでいた。だが、やがて水を含んだ衣服は重くなり、無慈悲にもその美しい歌声をもぎ取って、川の中にオフィーリアの身体を引きずりこんだ。

美しいオフィーリアは、溺れて、死んだのだ。

ジョナサンがいま描いている絵は、まさにそのシーンをとさせるものだった。緑鮮やかな草や、色とりどりのかわいらしい花が揺れ動く水中を、オフィーリアが、自身の身になにが起こっているのかもわからないといったような安らかな表情で漂っている。

 一種、危険な題材であった。

これは謂わば、オフィーリアの死の絵である。捉え方によっては児童養護施設のチャリティーの場に出すべき絵ではない。そのことはもちろんジョナサンもよくよく理解していた。

 ジョナサンの技巧は見事だった。その危険な題材を芸術の域にまで昇華させ、ただただ美しい、見事な調和を作り出していた。

「しかしジョナサン。」

リチャードが他の絵も見回しながら口を開いた。

「どうも、今回のきみの絵は優しすぎるような気もするね。気のせいかな?」

リチャードのこの質問は、ジョナサンの心中を的確に射抜いたと見えた。ジョナサンは渋い顔をして、頭を掻いた。

「きみの洞察力には恐れ入るよ。その通りさ。衝動だけでは描けなかった。

 ロウの言うことが、少しわかったような気がする。対象への愛、というやつかな。

 このオフィーリア作品群には、人が他者を想う、愛が必要だった。

 そしてチャリティーにも、愛は必要だ。人が他者を想う、ね。

 まぁ、この他者を想う心の働きというのは諸刃の剣でもあるんだけどね。

 しかしそれを差し引きしても、我々人類に、これ以上の美徳は無いように思われるな。

 これら作品群の題名は、オフィーリアの愛。これで決まりだ。」

「うん。いますぐにでも世間に公表したいくらいだよ。いい絵だ。

 きみの話を聞いてからもう一度見直すと、絵のオフィーリアがまるで、

だれかに想いを馳せながら、そのだれかの姿を空想しているようだ。

このことは作品群のテーマとして大々的にアピールしたいね。

こちらも準備は順調だ。絵が出来上がり次第、行動に移ろう。」

企画は順調そのものだった。

ジョナサンが休憩がてらランチに行こうと提案した。

二人は肩を並べてアトリエから外へ出て行った。




→第4幕 第1話へ続く

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