少女と音楽

第3幕 第2話 少女と音楽



 とっぷりと日は暮れていた。

しかしそれでも女の子の瞳に映る景色は明るかった。

女の子は、夜であるにも関わらず人通りの多い街路をしっとりと歩いていた。

辺りは車の走行音と道行く人々の話声、無数の足音といった雑多な音で溢れかえっている。老若男女、様々な風貌の人間たちが、それぞれどこかへ向けて歩いていた。

みな一様に目的を持って歩いているようだった。目的の無い人間などいないように見える。立ち止まっている人間ですら、携帯電話を片手になにかをしていた。そうでない人間も辺りを見回したりして、だれかを探しているような素振りを見せていた。いまこの夜の町にいる人間で、目的を持っていないのは女の子だけのように思われた。

 女の子は気分が優れなかった。

あまりの人の波にめまいすら感じていた。

道端にはごみが散乱していた。空気も清浄とは言い難かった。なぜこうも人が多く集まると、どこであろうとこんな惨状になってしまうのか、女の子はほとほと理解に苦しんでいた。

 女の子は帰路につこうかと考えていた。食事も済ませたし、もうこれ以上にこの薄汚くて騒がしいところにいる必要も感じない。それにもうずいぶんと遅くなってしまった。

女の子の中には眠くなくとも夜は眠らなければならないという、どこからともなく囁きかける、思い出せない記憶があった。それはここ最近、あまり聞こえなくなっていたのだが、今夜はその声に駆り立てられていた。

 若い男女の集団が騒ぎながら女の子とすれ違った。

そのうちの一人が口に咥えていた煙草の煙が女の子にぶつかった。

女の子は顔をしかめた。そして、もう帰ろうと心の中でつぶやいた。

胸の内に流動を感じるようになって心地の良いことをたくさん知ったが、それと同時にどうにも身体が避けたがる不愉快なことも感じなければならなくなってしまった。そして想像していたよりも、女の子の生きるこの世界はその不愉快なことが多いようだった。女の子はこの町から逃げるように帰路についた。

 歩いて行くと、どこからともなくギターを爪弾くきれいな音色が聞こえてきた。

女の子はふと立ち止まって、音のする方を見た。

その音が生まれている場所には、彼女と同じように脚を止めて立ち尽くす人たちが何人かいた。女の子は吸い寄せられるように、そちらへ歩いて行った。

 若い黒髪の青年が、ギターを弾いていた。

蒼いジーンズに白くパリッとした生地のシャツを着ていて、清潔感があった。

彼の奏でるギターの音は金属弦の固い音ではなく、もっとやわらかで、あたたかみのある音だった。

「Amazing grace how sweet the sound, That saved a wretch like me,」

彼は弾きながら、優しい声で唄い始めた。その歌声に、女の子は荒んだ胸の内が元の平穏を取り戻すのを感じた。

 彼の歌を聴いている人たちは、みんな女の子と同じ安らかな表情をしていた。唄っている彼自身もそうだった。喧騒が支配するこの夜の町の中で、彼の歌声とギターの音が包み込む場所だけは別の世界になっていた。

 やがて歌が終わった。聴衆から賞賛の拍手が自然と沸き上がった。女の子もそれにつられて小さく手を打った。彼はお辞儀をして一言二言お礼のあいさつをした。彼が言い終わるのを合図にして、脚を止めていた人間たちはまた、自分の向かうべき方へと歩み始めた。後にはただ、青年と女の子だけが残っていた。

 青年は自分のそばに置いておいたギターのケースを開けると、その中に手にしていたギターを大切そうに仕舞った。もう路上ライブは終了のようだった。

ギターの音と歌声が無くなってしまえば、せっかくここに集った人たちは解け、散らばり、やがてだれしもが他人に戻ってしまう。

このときもこの場にいた人間は全員、ライブが終わるや否やそそくさと雑踏の中に溶けていった。

だがそれでも女の子はその場に留まったままで立ち去ろうとはしなかった。

 青年と女の子の目が合った。青年の紫色に透き通った瞳が、周囲の明かりを反射してきらりと煌めいた。彼は女の子に向かって微笑した。その顔を見て、女の子は彼に話しかけても良いと思った。女の子は彼の方に近付いて行った。

「聴いてくれていたのかな?」

唄っていたときと同じく、やわらかな声で青年は語りかけてきた。そのあたたかみのある声と表情は、女の子がさまよう他人の町において唯一の明かりだった。

「うん。おにいさん、歌、上手ですね。」

「あははは。ありがとう。」

彼は頭を掻いて照れくさそうに笑った。笑いながらギターケースの革紐を肩に掛ける。彼ももう、どこかへ行ってしまうのだろう。自分も帰路についていた身ではあるがこうしてせっかく出逢ったというのに、ろくに会話もせずに別れてしまうのはなんだか心持ちが良くなかった。

女の子は、もう少しだけ青年と話していたかった。

「おにいさんは、歌手なんですか?」

「いやいや、そんな大層なものじゃないよ。ただ、音楽が好きなだけ。

 そう言うお嬢ちゃんは、写真家かな?」

彼は女の子が首から下げている古いカメラを見ながら言った。そして革紐を肩から外してケースを地面に立てて置いた。どうやら彼も女の子と話をする気らしい。それを見て女の子は安心した。

「わたしは旅人です。確かにあちこちを旅行して写真を撮っていますけど、

写真を撮るために旅行をしているわけではないので。」

女の子の返答に彼は驚いた。彼が驚くのも無理はなかった。こんな夜も遅くにまだ中学生くらいの女の子が一人で出歩いていて、しかも旅行しているという。彼は少しだけ心配そうな表情になった。

「旅行? 一人なの? こんな夜遅くまでぶらぶらしてて大丈夫なのかい?」

「うん。大丈夫だよ。」

女の子は吹き抜けていく風のような軽快さで返事をした。女の子の濁りの無い言葉に青年は苦笑して、また頭を掻いた。

「あはは。最近の子供は垢抜けてるなあ。」

彼が笑うと、女の子も笑った。女の子はようやく自分の中に生まれ出る言葉が軽くなったのを感じた。生まれた言葉がしきりに喉をせっついて外へ出ようとしている。

「わたし、オフィーリア。おにいさんは?」

青年は困ったように笑った。

「パティー。パティー・ティエンスっていうんだ。」

「かわいい名前。」

「そうなんだよねぇ。」

パティーはまたまた頭を掻いて苦笑した。

どうやら、彼は自分の名前に一種のコンプレックスを抱いているらしかった。女の子はもうそれ以上には踏み込まないでおこうと思った。

パティーは背が高く、すらりと痩せていてハンサムだった。その外見にこの丸みを帯びたやわらかな名前はミスマッチと言えなくもない。もっとも、性格、人柄の面においてはこの優しい名前は合っているかもしれないが。

 女の子は黒いギターケースに視線を移した。

「お兄さんのギターって、やさしい音なんだね。」

いつの間にか、女の子の口調と言葉遣いが、彼女本来のものに変化していた。パティーにはそうさせる不思議な雰囲気があった。自分の変化に女の子は気付いたが、彼が特に気にしていなさそうだったので良しとした。

「ああ、これかい?」

パティーはケースの蓋を開けて、中からギターを取り出した。弦を弾いて見せた。やはり弾力のある丸い音が鳴った。その音に、道行く人が視線を送る。

「これはね、クラシックギターっていうんだ。弦がナイロンとかガットなんだ。

 金属の弦じゃないから、こんな感じのあったかい音が鳴るんだよ。」

弾き方の問題ではなかったようだ。女の子はギターの音が彼の引き方によるものなのかと思っていたので、ちょっぴり残念だった。

「さっきの歌は?」

「あれはね、アメイジング・グレイス。けっこう有名な歌だよ。

 歌に関してはねぇ、ぼくのともだちの方が上手いんだけどね。」

「もう一回だけ、唄ってもらえないかな?」

「アンコールっていうやつだね。いいよ。」

パティーはギターから垂れる吊り紐を肩に掛けた。

弦を爪弾いて、やわかな音でこの場の空気を塗り替えていく。深呼吸を一つすると、夜の闇を打ち払うように唄い始めた。

 女の子はその旋律、その歌声、その言葉に大いなる安らぎを覚えた。どんより曇った灰色の空が裂け、そこから一条の光が射し込むようだった。

 実際、いまは夜だ。人の作り出した光の他に明かりは無い。小鳥もその声をひそめ、固い地面を踏み鳴らす人々の足音と、混じり合った言葉の乱雑な響き、車の走行音しか聞こえない。おおよそ自然の音は何一つとして存在しなかった。しかし、彼の奏でる音の届く範囲はそれら一切から隔離されていた。

 最初は、女の子だけがその世界に浸っていた。やがて一人、また一人と、道行く人が脚を止め、その音に耳を傾ける。不思議な力だった。

 やがて、歌が終わった。女の子は音が消えると、すこしその余韻に浸ってから手を打った。すると、女の子の拍手の音をきっかけにして、聴衆も彼女と同じようにして一様に手を打った。パティーは、はにかみながら礼をし、また一言二言挨拶をした。自然に拍手は終息して、人々はまたどこかへ向けて歩き始めた。

「ありがとう。おにいさん。ね、もう一つだけ、お願いしてもいい?」

「なにかな?」

「一緒に、写真を撮ってくれないかな?」

「ああ、いいよ。」

彼は優しく笑って快諾してくれた。

道を行く人を適当に捕まえて事情を話し、臨時のカメラマンを依頼する。会社帰りと見える、スーツを着た初老の男性が頼みを聞いてくれた。女の子は彼にカメラを渡した。

 女の子はパティーと並んでピースサインをした。カメラマンの構えたカメラのレンズに視線を送る。いつも撮る側なので、女の子はすこし緊張した。撮られるのは初めてだった。

カメラマンの合図の後、シャッターの音が鳴った。女の子は初老の男性にお礼を言って、カメラを返してもらった。また、首から下げた。

「ありがとう。おにいさん。写真とお手紙、送るね。」

パティーはギターをケースに仕舞いながら返事をする。

「わお、ほんとに? ありがとう! それなら住所、教えてあげなくちゃね。」

女の子は肩から下げた白い鞄からペンと手帳を取り出した。そして、パティーの言う住所をしっかりと書き留めた。

「ありがとう。それじゃあ、おにいさん、またね。」

「うん。またね。気を付けてね。」

二人はお互いに向かう方へ身体を向けた。

だが、視線はまだ相手に残した。

手を振り合った。

やがてどこかで区切りを付けて、視線を外した。自分の進む方を向いた。

前に列車の中で出逢った老人の言葉を、女の子はぼんやりと思い出していた。


​♪♪♪


 あれから、しばらく経ったころだった。パティーの元に手紙が来た。パティーと手紙のやり取りをする人物はあの女の子の他にも、もう一人だけいる。その頻度も比較的高く、しかもその人物は少女だったので彼は最初、女の子からだと気付かなかった。

 パティーは毎朝の習慣で、ポストまで新聞を取りに行く。そのときに、いかにも女の子らしい薄桃色の封筒があった。それを見てパティーは咄嗟に親しくしている少女からだと思った。だが、それとは別にもう一通、黄緑色の手紙がポストの中に入っているのを確認して首を傾げた。

黄緑色の方にはRtti・Bequaerとよく知った名前が書かれていた。そして、もう一つの薄桃色の封筒の方にはOpheliaとあった。そこまで確認して、ようやく彼は女の子が自分に手紙を出してくれたのだと知った。

 彼はとりあえずいつもの通りに、ダイニングルームのソファーに新聞を立てかけた。それから、まずは黄緑色の方から封を開けて白い便箋を取り出し、読み始めた。


『パティーへ。

 ようやく新しい学校にも慣れてきたよ。いちおう、おともだちもできました。

 でもやっぱり、ダリアみたいにお付き合いするのは難しいことだね。

 パパとママもやっと安心し始めたみたい。パティーも安心してね。

 雪が降るくらいのころには、二人でまたダリアに会いに行けたらいいね。

 あと、今度、数学を教えてください。ちんぷんかんぷんです。


Rtti・Bequaer, 』


パティーはくすくすと笑いながら手紙を読み終えると、元通りに便箋を封筒の中に仕舞った。続いて、薄桃色の封筒を開ける。中には白い便箋と、写真が入っていた。そのとき、女の子と二人で撮った写真だろう。

 その写真を見て、パティーは我が目を疑った。

確かにあのとき、彼は女の子と並んで写真を撮ったはずだった。

それにも関わらず、その写真にはパティーしか映っていなかった。女の子は影も形も無く消え去っていた。

彼は唖然としてその写真を食い入るように見ていたが、我に返ると今度は手紙の方に目を通した。そこには女の子らしい優しい筆致で文字が書かれていた。


『おにいさんへ。

 こんな写真を送ることになってしまって、ごめんなさい。

 でも、約束は守らなければと思ったので、送るね。

 あのとき、おにいさんが唄ってくれた歌は、いまのわたしの救いです。

 きっと、ずっと、忘れません。

 またねって言って別れたけれど、また会えるでしょうか。

 寒くなってきました。お身体にお気を付けて。


Ophelia, 』


彼は封筒に便箋を仕舞わず、そのままテーブルへ向かい、ペンを執った。




→第3話へ続く

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