Fate
第3幕 第1話 Fate
ジョナサンは透明な壁の向こう側で眠っている一人の少女に釘付けになった。
真っ白のワンピースを着て、真っ白のシーツの上に、まるで眠り姫のように横たわっていた。長い金色の髪が白に映えた。
呼吸をしているのかしていないのか、それすらも判別できないほどに彼女の身体は沈黙を誇っていた。辺りは、はしゃぎまわる子供たちの喧騒で満ちているにも関わらず、ジョナサンと少女の間に流れる空間は清らかな静寂に包まれていた。
「ジョナサン?」
リチャードが訝しんで声をかけた。それでようやくジョナサンは我に返った。呼吸することを忘れていたような気さえする。
二人の案内を担当してくれていた職員がジョナサンの異変に気付いて近付いてきた。どうしたのかとジョナサンに訊いたが、ジョナサンは曖昧な返事をした。職員はジョナサンが熱心に見つめる視線の先を認めると、困った顔をして頭を掻いた。
「あの子が、気になりますか?」
「ええ。」
ジョナサンは少女を見つめたままだった。
「彼女の部屋に、通してくれませんか。」
ジョナサンの希望に、職員はうなってすこし考えた。ジョナサンは是非お願いしたいと、答えを渋る職員に頼み込んだ。リチャードもジョナサンが何故あの少女に固執するのかはわからなかったが、きっとなにかを感じたのだろうと思い、彼と一緒になって職員に頼んでくれた。職員はついに折れて、二人を少女の元へ通してくれた。
少女の部屋には独特な空気が漂っていた。リチャードも職員もなにも感じなかったようだが、ジョナサンには形容しがたいなにかが、この部屋にあるのを感じた。窓、カーテン、ベッド、観葉植物、それだけの部屋だった。
部屋には少女のかすかな呼吸の音があった。その張り詰めたきれいな静寂を壊さないように、ジョナサンとリチャード、職員の男性は慎重に部屋の主の元へと歩いた。
少女は眠っているようだった。だが、奇妙だった。そのことはジョナサンもリチャードもすぐに気付いた。通常、人間は眠っているときは目を閉じる。ときどき、うっすらと目を開けたまま寝ていることもあるが、しかしそれでも寝ているとわかる。目の前の少女は寝息を立てながらうっすらと蒼い瞳を覗かせ、また、定期的にまばたきをしていた。眠りながらまばたきをしていた。
最初は起きているのかと思ったが、どうも違うらしかった。
「不思議な子なんですよ。眠っているのか起きているのか、わからないんです。
もちろん、起き上がって歩いたり食事をしたりします。
でも、そのときも眠っているようなんです。言葉は話せないのか、
それとも話さないだけなのか、それすらもわかりません。」
職員は神妙な顔付きで言った。ジョナサンは少女のことを知れば知るほど、この幼い眠り姫に強く惹かれていった。
「この子はなぜ、この施設に?」
リチャードが訊いた。それはちょうど、ジョナサンもうかがいたいことだった。
「私も詳しくは知りませんが、厳しい親に虐待まがいのしつけをされていたようです。
保護されたときには頭を強く殴打されて意識不明の重体でした。
一命は取りとめましたが、それからこの状態です。
医者の診断は、記憶、言語、知識まで失ってしまった、重度の記憶喪失です。
この不可思議な状態に関しては、まったくわからないと。
一種の夢遊病に近いものかも知れないとのことです。」
職員は彼女について知り得るすべてを教えてくれたらしかった。ジョナサンもリチャードも黙って彼の言うことをじっと聴いていた。
リチャードの表情は、次第に憤りをあらわにしていった。
「未来を担うのは子供たちだというのに、なんてひどい話だ。
近年どうも、親の方からしつけをし直さなきゃならん事案が多すぎる。
子供は弱者だ。そして決して弱者からの仕返しが無いことを前提に行われるのが
虐待、暴力というやつだ。まったく胸糞悪い話だよ。
こんな悲劇をなくすためにも、今回のチャリティーは必ず成功させよう。
寄付に併せて、虐待の根絶も社会に呼びかけるんだ!
なぁ、ジョナサン!」
リチャードは興奮して言った。彼の信念のこもった強い言葉に、職員は感動していた。リチャードと握手をして、企画の成功を誓い合っていた。
ジョナサンはリチャードの呼びかけにまったく応じなかった。職員の男性と握手しながらリチャードは、ジョナサンの異変に気付いた。恍惚と、少女を見つめるジョナサンがなんだか心配になった。
「ジョナサン…?」
ジョナサンはなおも応えない。更に少女に近付いて膝を折り、少女のバラ色の頬に優しく手を添えた。
「きみは、なんて美しいんだ…。」
ジョナサンは嘆息しながらつぶやいた。
「この子の、名前は?」
ジョナサンがそのままで訊いた。職員はわずかに恐れを声に滲ませて答えた。
「オフィーリアです…。」
→第2話に続く
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