別離

 もう聞こえることはあるまいと思っていた声が応接室から聞こえてくる。

 夏休みも終わった頃である。

 自分の主治医である女医と入院したての頃に世話になった看護士姉妹の声であるから、良心はとがめるが、ついつい壁に耳をあて盗み聞きをするのも人情というものであろう。

 市会議員選挙に立候補をしたが、圧倒的な少数票で大惨敗し、その後のネットで悪質な書き込みに手を焼き、妹の女医に相談に来て以来のことである。

 その時は興奮し、二人は大声で話し合っていたが、今日は違う。声を潜め秘密めいた会話である。しかし薄い壁を通して応接室の姉妹の声は簡単に聞き取ることができた。

「どうしよう」

 困りはてた声は姉の声である。

「困ったわね」と妹の女医が応ずる。

「本当にいじめがあったの」と女医は尋ねた。

「まちがいないと思ったけど」

 自信なげな声で姉は応じた。

「Mと妹夫婦の忘れ形見に万一のことが大変よ」

 盗み聞きしている私は驚いた。Mと彼女たちの妹夫婦には子どもは一人しかいないと思い込んでいたのであるが、M夫婦には子どもが二人も居て、姉と妹の女医が一人づつ引き取って育てていたのである。

「子どもでも油断できないわ。つい最近にも白衣病棟の近くの踏み切りで中学生の女の子が電車に飛び込んだ事件があった。でも詳しい事情を聞かなければ相談に乗ることもできないわ」

 女医は姉に説明を促した。

「今年の五月頃から学校に行くのを渋り始めたから私立中学の受験に失敗したせいだとばかり思っていた。時間がたてば立ち直るだろうと思っていたのよ。ところが塾に通うことも渋るようになった。、二学期が始まると塾を止め、学校に行くのを嫌がるようになった。理由を聞くけど、まともに応えようとしないのよ」

「うちで預かっている次郎も口を利かなくなった。この年頃の傾向ではないか」

 女医は一般的なことを言った。

 M夫婦の息子の名前を知った。

「運動会の日までは、背中を突き押すようにして学校に通わせた。ところが運動会の振り替え休日が終わった日から学校に行かなくなったのよ」

「運動会で何かあったのかしら」

「友達と話しながら歩いていると、後ろから来た子に突き飛ばされて体操服が泥だらけになったから洗濯して欲しいと言うのよ」

「後ろから突き飛ばされた。気味の悪い話ね。突き飛ばした少年は誰なの」

 と女医は無気味そうに感想を述べた。

「分からなかったそうよ。でも本人は気にしている様子はなかったから、それ以上追求しなかった。朝になり目が覚めると腹が痛いとか、熱があるとか言い学校に行けない日が続いた。不思議なことに昼になるとぴったり回復し、元気になるのよ。病院に行き相談もしたわ。自律神経失調とか疲れのせいだとしか言わない。薄々、感じたのよ。学校に行きたくないから身体の調子が悪くなるのだと。それで父親のなったつもりで厳しく問い詰めたの。学校に行きたくなった理由を言え」と

「理由を言えと言った後に何て言ったの」

 女医は厳しい声で姉を問い詰めた。彼女は姉の常套手段を承知している。脅しの言葉が続いたはずである。女医は子どもの頃から姉のこの常套手段に泣かされ続けてきた。

「学校に行かなければ家を出ていって貰うわよ」と言ったと姉は打ち明けた。

「相変わらず、ひどいことを言うのね」

 と女医は呆れた。

「言い過ぎたかしら」

「相手は逃げ場のない子どもよ」

「でも十年後、二十年後の太郎の人生を考えて言ったつもりよ。このまま学校に行かない日が続けば大変なことになると思う。Mが生きていたら、きっと同じことを言ったと思う」

「どうかしら、Mは優しい人だったから」

 と女医は姉を非難した。

「太郎君は何か答えた」

「何も言わなかった。でも次の日に学校へ行けと言ったらブルブルと震えたのよ」

 少年が身震いするなど普通ではない。女医も驚き沈黙した。

 応接椅子が気味の悪い音を立ててきしんだ。

 姉妹には共通の癖がある。話す時や驚い時、心が動揺した時に身体を揺するのである。そのたびに腰かける応接椅子がきしみ音を立てた。体重が同じ頃は同じ音で区別はできなかったが、今は違う。妹の女医が話す時には応接椅子は壊れんばかりの大きな音を立てるが、姉が話す時には常人と変わらぬ音を立てるだけである。

 しばらく経って、女医が「深刻ね」と、つぶやいた。

 姉はうなづいた。

「困り切っていたのよ。ところが三日ほど前のことだったけど、少年たちが大勢で見舞いに来てくれたのよ。その時は、たまたま太郎は留守で私が対応したの。そして大勢で来てくれてありがとうと心からお礼を言ったの。ところが見舞に来た友達の一人が舌打ちをして、私の言葉を真似して忌々しそうに繰り返したの。大勢で来てくれたありがとうだってよと。正直に言って嫌な子だと思ったわ。明らかに私に対する敵意を感じた。でもしばらく考えて太郎が苛められる理由は私にあるのではないかと思い始めたの。クラスには太郎を苛めようとするグループがいる。一方で太郎を苛めるグループを快く思わないグループがいる。見舞に来た少年たちは太郎の味方で太郎が苛められるのを快く思っていなかった少年のグループである。苛めるグループを良くは思わない。同時に苛められる理由を造った母親も許すことはできない。太郎が苛められる原因は母親である、貴方のせいだと暗に教えてくれたような気がしたのよ。私が太郎の苛められる原因だとしたら、前の選挙に立候補して惨敗を期したことしか思い浮かばない。私が選挙に立候補して負けたことで、太郎はクラス仲間から白い目で見られていると思った」

 椅子が大きくきしんだ。明らかに女医は動揺している。

「それで」と、女医はなおも説明を促した。

「そのことで詰問しても、太郎はいじめられていはいないと答えた」

「自分がいじめられていると自覚をしないで追い詰められていくこともあるわ」

 女医の声である。

 彼女は精神科の医師で、児童心理にも多少は詳しい。姉もそのことを承知して話しているのである・

「お母さんは市会議員だろうとか、仕事は何をしていると聞かれるのが、すごく嫌だったと話したけど、これ以上は聞かないで言うのよ」

「それは絶対に嫌味よ。中学生になって選挙結果を知らないはずはないわ。太郎君に最下位で落選したと言わせてクラス中の笑い者にしたかったのよ。掲示板に性質の悪い書き込みをする大人と同じ性根の腐った子供もいるわ。かえってルールを知らない子ども方が残虐なことをしかねに。大勢から同じことを聞かれたのかしら」

「それには答えてくれなかった。ただ、あの子が昼休みは図書室で過ごしていると聞いた時にクラスでうまくいっていないのではないかと不安を感じた。でも小学生の時と同じだったと納得した」

 しんみりと姉は答えた。母親の優しい声であった。

「太郎君は、すばらしい子ね」

 女医も感動し、涙ぐんでいるのは声の調子で分かった。

 彼女はクラスメイトの大勢に取り囲まれ、質問を浴びせられ冷笑される太郎の姿を想像していたのである。母親に心配をかけまいと打ち明けることもせずに堪えているのである。

 民主主義を維持するために選挙制度がいかに重要な制度であるか説明しても理解できぬ大人もいる。まして子どもの世界である。どのようなことが起きたか想像すらできない。しかも半年と言う長い期間である。

「よく頑張ったわね」

 女医は目の前の本人がいて、その本人を誉めるかのように呟いた。

「すべてがかも知れないの世界なの。分からないことが多すぎるのよ。選挙で惨敗したせいだけではないような気もする。疲れがたまっているせいかも知れない」

 と姉は妹の過剰な感動を抑制しようとした。

「ほかに原因になりそうなことを話さなかった」

「昨年の小学校六年生の時に出来事が忘れられないって言うこともあった」

「どんなこと」

「去年は受験勉強で忙しかったけど、担任の先生から塾の勉強だけでなく学校の勉強もするようにクラス全員の前で言われたことが思い出すと打ち明けたこともあった」

「これまでの十三年間の疲れが出てきたかも知れない。両親の死や弟の別れ別れの生活もことも影響しているかも知れない。十三才と言えば親離れの時期よ。これまでの姉さんとの生活を見直しているのかも知れない。厳しい言い方だけど姉さんの価値も見定めているのよ。これまで選挙に立候補して何度も落選したことにも不信の目を向けているかも知れない」

 姉は我を忘れて叫んだ。

「Mと妹夫婦の子どもを預かる母親として世間に恥じない社会的地位を得たかったのよ」

 女医は呆れて、姉の本音を聞いていた。興奮が冷めると姉は決まり悪そうに姉は小さな声で言い訳をした。

「もちろん公約で掲げた挑戦事項は実現したかったけど。選挙の件で不愉快になったことが、ほかにもあったらしいけれど絶対に話そうとしないのよ。それ以上聞くと問題を広くしたいのかと言って怒り出すのよ。昨日は昨日で奇妙なことを言うの、ダントツの最下位で負けたことは気ならない。ただ立候補をしてもらいたくなかった」と

 妹は感心をして、聞いていた。そして深刻な表情をした。

「選挙で負けたことは気にしていないとも言うの。でも今回は母さんさんが選挙に立候補すること自体が嫌だったって、面白いことを言うのね」

 女医は鼻をならしたが、考え事をしていた。

「姉さんが選挙に立候補することを止めることを願う存在がもう一つあったのよ」

「だれ」

 姉は声を上げた。

「白衣病棟の者たちよ。今回の選挙では姉さんが当選しそうだと真剣に危機感を抱いたの」

 と女医は教えた。

 どうして私が当選したら白衣病棟が困るのよ

「看護士にすぎない姉さんが市会議員にでもなったら、白衣病棟の階級制度や秩序に良からぬ影響を与えるのよ。嫉妬が渦巻いているのよ」

「太郎君の気持ちと白衣病棟の意志が一致したのは偶然かしら」

 大人の陰口が太郎が影響をしたのではないかと女医は危惧したのである。それが確実なら、大人の世界の政治的思惑が少年の世界に侵略して来ている可能性があると感じたのである。許すことができないことである。だが現実には調べる手立てはない。

「太郎君は優しい子だから人間の悪意などを知りたくないと思うことは分かる。でも太郎君が傷ついたことは間違いない。姉さんの家庭を崩壊させることが狙いだったかも知れない。少年たちや周囲の大人がこの状況を狙って行動したとしたら、彼らの目論見は成功した。政治的な悪意があったと判断すべきよ」

「だから太郎にはすべてを打ち明けて欲しいと願っても、最近は口も利かなくなってしまった」

 しばらく女医は考えていた。

「すべてを打ち明けて欲しいなどと願うこととは非現実的な願いよ。思い出してみてよ。姉さんも母にすべてを打ち明けていた。隠し事はなかった」

「でも太郎は最近では私が近づこうとすると竹刀を持ち出し、通学用のヘルメットを被り身構える格好までするのよ」

 剣道の練習用の竹刀に自転車通学用のヘルメット。奇妙な格好であるが女医は笑わなかった。かえって真剣な表情をした。

 女医の声が厳しくなった。

「家を出て行けと言うこと以外にひどいことを言っていない。太郎君に暴力を振るわなかった。昔から興奮すると前後の見境を失うことが多かったから」

 女医は厳しく姉を問い詰めた。

「暴力は振るっていない。でも厳しいことを言った」

「太郎君は姉さんが思っている以上に傷ついているかも知れない。学校に行かなくなった理由はいいわ。でも学校に行かせる道筋は立たないの」

「今の学校には通いたくないけど、他の学校なら通っても良いと言うのよ」

「と言うことは学校に原因があうのかしら」

「断定はできないのよ。気分転換をしたいだけかも知れない」

 姉は頷いた。

「それなら太郎君を私に預けなさいよ。姉さんと太郎君は距離を取り、冷却期間を取ることも必要だと思う」

 と女医の申し出た・

 姉は最初からこの申し出を期待していた。

「お願いしようかしら」と言いながら、もう昔には戻れないのかしらと姉はしんみり呟いた。

 女医は太郎と次郎を一緒に生活させてやりたい気持ちは以前からあった。長年の念願の望みがかない内心、喜んでいるようであった。

 

「ねえさん」と言い、女医は呼吸を整えた。

「太郎君は実母が自死した理由をクラスメイトから言われたことではないかしら」

 女医は漏らした言葉に姉も固唾を飲んだ。

「太郎君が通っている中学校には白衣病棟に勤めている家族の子供も多く通っているわ」

 姉も沈黙した。

 応接椅子がきしむ音だけが聞こえた。

 姉妹が一番、恐れていたことに遭遇したようである。

 姉妹は一緒にため息をついた。

 二人が一緒にため息をつく光景は手に取るように分かった。二人が腰かける応接椅子のきしむ音で区別できるのである。

 不安を打ち明けた女医も沈黙した。

 かすかに応接椅子がきしみ、姉が掻き消えるような小声で呟いた。

 Mが居ればと。

 大人や第三者に対しては姉妹は、M夫婦は被害者であり、悪いのは別れさせ屋や彼を雇い夫婦に罠を仕掛けた者たちであると説得できる自信がある。だが多感な時期の実の息子には説明をしても、両親を許してくれるとは思えなかった。双子の兄弟を一緒に生活させることが危険を増幅させる恐れもある。

 ここで盗み聞きを止めた。咎められるのが嫌だったからである。

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白衣病棟 夏海惺(広瀬勝郎) @natumi-satoru

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