掲示板

 選挙が終わり、半年ほど経過した。

 女医と姉の声が応接室から再び聞こえるのである。外は寒い。だが同僚は休憩中は、いつものようにタバコを吸うために外に出ていた。

 休憩用の長椅子のあるロビー横の応接室に裏口から人が入る気配がした。

 すぐに紙の束が応接室の机に置かれる音がした。

「読んでくれる」

 聞き覚えのある声である。女医の姉の声である。声の調子から怒っていることはすぐに判断できた。

 やがて一枚、一枚と紙をめくり、速読をし、その声が所々でもれ聞こえた。途中、何度となく、「ひどい。これ何よ」とあきれた驚きの声が女医の口からもれる。

 先の市議選で惨敗した姉は妹の反応に一々答えず、妹が読み終えるのを待っているようであったが、妹は興奮し、読みながら悲鳴を上げた。

「意味が分からない。それに矛盾だらけよ」

「有権者にけんかを売っているのはこの人の方よ。地域主権や地方議会の価値などが全国的にニュースになっている時代に、この町の有権者が公約など見ないで投票するなど、この町の有権者が、まるで選挙の重要性を知らないまま投票していると言うような言い方。町に攻撃を仕掛けるな。町の名前を軽々しく出すな。まるで町の代表者か有力者のような書き方。選挙の裏事情にも詳しそうな書き方。都市伝説が真実かどうかも知ることができるかもしれない。でも都市伝説云々の話は止めた方がよいわ。問題が大きすぎて法廷を維持するのに数年はかかる。みんなは望んだけど、あなたにはできないと気付いた。できる人を連れて来るしかないわ。それに卑劣すぎる書き方。まるで自分たちも望んだけど姉さんが公約に掲げたせいで実現しないような書き方。嘘つきがバレタンだよ。この人はねえさんが嘘つきだと昔から知っていたと言う書き方。話の内容にも矛盾だらけ。書き込みの内容も一貫していない。まるで精神が分裂している人のようね」

 と女医は速読しながら、立て続けに書き込みを分析した。

 妹の速読が終わった時に姉は改めて説明した。

「ネットの掲示板よ。私が落選したのは市民から嫌われたせいだって。駅の格上げなどできるはずもない。お前のような嘘つき女は選挙に出る資格さえもなかった。有権者は私の公約など見てもいない。人格で判断をして投票したのだって。一方で市を攻撃するなとも書いてある。最初は選挙の事情に詳しい者の仕業ではないかと疑った。次には白衣病棟に関係する者の仕業ではないかと疑った。それで、昨日、警察に相談に言ったのよ」

「そうすべきだと思う。悪質すぎるわ。無視できない書きこみ。許すべきでないわ」と女医はキッパリとこたえた。

「みんな別人みたいなの。もちろん同じ人が書き込んでいる場合もあるのよ。刑事さんが、IPアドレスと言うものが、それぞれで違うと教えてくれたの」

 姉は意味の分からない数字の羅列を指で示した。

 女医には姉の言うことが、すぐには理解できなかったようである。

「みんな違う人たちみたいなのよ」

「それではねえさんは正体不明の者たちに、訳の解らないうちに袋叩きにあっているの。それにしてもよくここまで、ひどいことが書けるものね。この人などツイッターで職探しするのはおかしい、年を考えろと言う書き込んでいるわ。この人は嘘つきだと言う正体を有権者が見抜いたと書いてあるわ。どのような神経をしている人たちかしら。以前にもそう言うことがあったの」

「選挙前にもあったわ。人間ってここまで卑劣になれるものかと悲しくなった」と姉は嘆いた。

「そんなことより恐ろしいことだわ。油断は出来ない。この社会では卑劣な人間が負けるとはかぎらない。むしろ手段を選ばない卑劣な奴が勝つことが多いのよ。Mと妹夫婦の話もあったわ」

 応接室の薄い壁越しに盗み聞きする私は別のことを考えていた。三姉妹とMが婚姻により親族関係であり、別れさせ屋の毒手にかかったのは彼女たち三姉妹の一番、下の妹だったと言う事実を確認できたことが重大であった。


「深刻だとは思う。近ごろ、新幹線開通に関するニュースに多く流れるようになって、周辺の雰囲気も騒がしくなってきた。今ごろになってと思うけど、地盤沈下を恐れる駅前商店街の人々にとっては死活問題でしょう」と姉を言った。

「ねえさんを悪者にして打開しようとたくらんでいるのかしら。例えばこの書き込みを見ると、市民の大部分は本当は駅の格上げには賛成だった。だがねえさんでは出来ない。嘘をついていると見抜いたから投票しなかったと言う論法よ。この論法で駅の格上げを推進しようと企てている。世間に通ずるとでも思っているのかしら。白衣病棟西側の歩道拡幅の件も同じよ。排水工事で柵を大きく後退させ、いつでも歩道など出来そうな状況よ。警察は何かしてくれそうなの。誰と話したの」


「温和な刑事さんが一時間ちかく事情を聞いてくれた。でもこの情報だけでは書き込んだ者を探し出すことは難しいだろうって。事件をたくさん抱え込んでいる警察にとって費用対効果も考える必要があるのよ。私が三日ほど不眠症になっただけでは犯人を探し出し刑事告訴できるかどうか問題になるのよ」

「困ったわね」

「その時には別に困らないと思った。次はもっと厳しい口調で警告を発してみる」

 彼女は戦う決意を固めたようであった。

「でも困ったわね」と女医はつぶやいて、言葉を続けた。

「これまで政治なんかに関心を持ったことはなかったけど、でも大変なことよ。選挙結果を最優先すべきだと思う。裏で色々と考えたなんて言われたって、表面には出てこないでしょう。今回の選挙結果で有権者が表面したことは有権者の多くが変化を望んでいないと言うこと。現状に満足していると言うこと。でも絶対に気を付けるべきよ。これから新幹線が開通するまで、どのような言いがかりを付けてこないとも限らない。それだけではないわ。白衣病棟の中の動きも怪しいの。妹夫婦を破滅させるために別れさせ屋を雇った性根の腐った一味が一味が白衣病棟内で勢力をぶり返しつつあるのよ。白衣病棟の権威を高めようとする一味は、ねえさんの存在や公約を無視して、これまで町が何度、申し出ても拒絶してきたプレハブ小屋付近の土地を市に割譲し歩道拡幅を行おうとしている」

「医療廃棄物のことを、どのようにして隠すつもりかしら」

「そんなこと、その気になればどうにでも出来るわ。いまわしい記憶を断ち切り、選挙などには白衣病棟は一切左右されない。中央で政変が起きても、白衣病棟は変わらず新たな政変を起こす時の牙城となる。そんな意気込みを世間に報せる。そのために病院は別れさせ屋を雇って妹夫婦を破滅させた魂の腐った一味まで巻き込もうとしている。ねえさん一人をつぶすことで、すべて目的は達成できる」


「Hに頼んでみたらどうかしら」と妹の女医が突然、言いだした。

「Hって誰」と、姉は聞いた。

「ホラ、街中にポスターが張られているでしょう」

「ああ、あの人」

「そうよ」

 姉は少し考えているようだったが、ため息の混じるうっとりとした声でつぶやいていた

た。

「若くていけめんね」

 彼女の姿や年格好を知っている私は、失礼なことだが生理的に気持ち悪いと感じると同時におかしさを感じ思わず苦笑したことを告白する。

 話の質が変わった。気持ちが楽になったせいに違いない。

「真剣に考えて」と女医が姉を叱った。

「Hだったら私鉄駅の格上げなどもできるかも知れない。若くてイケメンだし、町の雰囲気もすべて変えてくれるかも知れない。Hなら、新幹線開通と言う時期を逃した後でもできるかも知れない」と姉も同意した。

「Mが姿を消したのは、自分の専門分野と少しちがうせいよ。ねえさんが立候補することを知り、今後の展開で自分よりHが適任だと気付いたせいかも知れないわ」と女医はこたえた。

 平凡な書き出しだが、事実だからやむを得ない。二人の会話がまた世間話になったのである。今度は妹の女医が仕掛けた。このあたりの感覚は常人ではないようである。

「ねえさん、少し瘦せたわね」

「十キロも瘦せたのよ」

「羨ましい。どうしたらそんなに瘦せることができたの」

「仕事のおかげよ。隣町で倉庫整理の仕事にありついたの」

「すごい仕事をしながら瘦せることができるの。経済的よ。私なんか何度、高額な方法を試したのか数知れない」と女医は歓声を上げた。

 私の主治医の女医は、世間が期待するようなセクシーな女医ではない。ドラえもんのようにズンドウで太っている。姉は似たような体格であった。

「まず、いつまでもお医者なんてデスクワークにかじり付いていたら駄目よ」

「ところでねえさん、これは掲示板の書き込みの一部でしょう」

「ええ、そうよ」と姉はこたえた。

「今でも掲示板を見ることができるの」

「もちろんこの掲示板の管理者は私なのよ。誰の書き込みかは分からないけれど、人間の浅ましさを語り継ぐために書き込みは残しておくつもりよ。きっと有益な社会貢献になるわ。すばらしい仕事だわ」と姉はウットリと自画自賛した。

 私はここで盗み聞きをやめた。

 前のように盗み聞きとがめられ、気まずい思いをするのは嫌だったのである。

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