都市伝説
白衣病棟の周囲がやけに騒がしい。街宣車が走り回っているのである。
「ああ始まった」
と一緒にシーツ交換をする同僚がこぼした。
「何だろうか」
ボンヤリと言った。
早朝から入れ替わり立ち替わりやって来るのである。
彼は私が騒音の正体に気付かないことを察した。同僚は説明をしてくれた。
「市会議員選挙が始まったのですよ」
分かったと無口で頷いた。私の普段の姿である。薬のせいで表情に乏しく黙ってぼんやりしていることが多い。
同僚は素早く新しいシーツをベットに広げようとした。私は古いシーツを慌てて畳みキャスターに乗せる。そして二人で新しいベットを造る。その仕事と病棟内のトイレ掃除をすることで、午前中が終わるのである。
例のプレハブ小屋に住む貧相な友人が姿を消した後、彼と一緒に仕事をする機会が増えた。
姿を消したのは二か月前の梅雨時であったが、そのプレハブ小屋を訪ねても彼の姿はなく、住む人を失ったプレハブ小屋にはクモが巣が張り、プレハブ小屋の荒れ果てていた。荒廃した小屋の様子が友人が去った後の寂寥感に輪をかけた。
新しい仕事仲間が出来て、最近では寂しさも紛れるようになったが、今では彼は白衣病棟の開かずの間の住民だったのではないかと思うことがある。
街宣車の話になるが、入れ替わり立ち代りやって来るが、声の主がそれぞれ異なる。
甲高い女性の声にふと聞き耳を立てた。
私だけでなく同僚も一瞬、仕事の手を止めた。しかも彼は聞き覚えのある声の主に気付いたようである。
実は彼は私より少し前に入院をし、病棟の事情にも少し詳しいのである。
彼女の声は他の誰の声より甲高く、病棟の建物に木霊した。
「今度も、彼女は出たようですね」
もちろん彼の言う、出たというのは、選挙に立候補したと言う意味であり、白衣病棟の名物である幽霊が現れたなどという意味ではない。
聞き覚えはあるが、私はまだ声の主の正体に気付かず、消化不良を起こしていた。
「この病院で看護士をしていた女性ですよ」
彼は私の背中を押すように教えてくれた。
「彼女は一年前にこの病院の去ったのですが」と彼は私の記憶が戻るのを手助けしようとする。
彼も饒舌な方ではない。辛抱深く彼は私の記憶が戻るのを手助けしようと続けた。
「そう言えば彼女が去る前には、あなたを世話をしていたはずです」
混濁した頭脳に記憶が蘇りかけた。
「女医の姉です」と告げた。
この情報は決定的な影響を与えた。
実は今、私の主治医をしている女医と、無気味な言葉を残して一年前にこの白衣病棟が去った女性が同一人物ではないかと思うこともあった。
「あの看護士が女医の姉だったのですか」
このことは予想をしていたが、事実を知ることは決定的であった。
「そうです。しかも選挙に立候補するのは今回が始めではありません。何度も立候補し落選を繰り返している。私が知るだけでも三度は立候補し落選を繰り返しているはずです」
と彼はタブに触れるように声を潜め、周囲に注意を払いながら説明した。
趣味で選挙に立候補する変人がいることを聞いたことがあるが、彼女もその類であろうかと思った。
同僚も呆れたように首を振り仕事に戻ろうとした。
耳を傾けると他の街宣車は候補者の名前を連呼するだけであったが、彼女は何かを訴えているのは明らかであったが、耳を澄ませても声は建物に木霊し内容を聞き取ることができなかった。
それから一週間ほど経過した頃のことであった。同僚を通じて選挙結果が知ることができた。
「今回も散々な結果だったようです。荒れますよ」と耳元で囁いた。
彼の言うことが、現実に理解できるようになるのは、それから一か月ほど経過してからである。
夏の盛りは過ぎていたが、残暑は厳しい日であった。
玄関ロビーの階段下に置いてあるベンチ椅子に腰かけ休憩をしていた。例の同僚は煙草を吸うために病棟の外に出ていた。
ロビー横の応接室の中から話声が聞こえるのである。
女性の声である。
「ねえさん、また帰って来たの」
責める声は私の主治医の声にちがいなかった。
「もう、いやよ」
彼女は投げ捨てるように言った。
「どうしてみんなで私に迷惑ばかりかけるの」
「そんな言い草はないと思うわ」
許しを求める、か細い声である。
もちろん市会議員選挙で無残な敗北を期した姉にちがいない。
「恥ずかしくないの。何度、恥をかけば気付くの」
「立候補することは、恥ずかしいことでないと思う」
言いわけだが、やはり消え入るような声である。
「恥でなくて何よ」
「やりたいことがあったから立候補をしたのよ。恥ずかしい行為はしていないわ」と姉は食い下がった。
「ねえさんのやりたいことに価値があるの」
さすがに妹の言葉に姉はいら立ちを感じたようである。
「この病院の西側の歩道の様子を知っているでしょう」
姉が言う歩道は、やっと人が一人が歩ける狭い歩道で、しかも安全のために立てられた信号機の柱が歩行者の通行を邪魔をしている。朝夕の通学時間などには子供が折り重なるように狭い歩道を学校に急ぐ。車の通過数も半端ではない。いつ子供が接触事故に巻き込まれないとも限らない。白衣病棟との敷地を少しでも譲ることができれば、歩道の拡幅は簡単にできるが、どのような訳か白衣病棟は敷地を譲ることに同意せず改善をされない。丁度、場所は例の友人がいたプレハブ小屋の近くである。現在は竹林になっている。
「私は解るわ。あの狭い歩道を息子が帰る姿を思い浮かべると心配で堪らない。でもほかの者は誰も危険だとは感じていないか、無理にあの歩道を通学路に使う必要はない。迂回路もあるはずよ。そう白衣病棟の正門の前には立派な歩道がある。あの歩道を使えばよいと思っているのよ」
「すごく遠回り。子供たちに勧めるのは非現実的だわ」と姉は言い捨てて、選挙公報に掲載した他の事項を続けた。
「病院前の私鉄駅を特急駅に格上げすることも不合理だと言うの」
女医は、それにも答えた。
「白衣病棟も駅前の住民もしなかった。そればかりか他の町内の者は嘘つきと酷評した。この町の者は変化を好まない。ねえさんが主張した町中に点在し悪臭を放つため池の整備にも同じ。ため池を整備してダムを造らないと主張する政府から災害予防になると主張し補助金を貰う。白衣病棟の持つ専門的な知識も借りる。すべて出来もしないデタラメだと決めつけられたの。その前に市民は不衛生とは思わなかった」
確かに彼女は選挙公報に不安全な個所や不衛生な個所の早期改善を行うと主張していた。特に隣町を年が明ける三月には新幹線が通る。それに合わせて私鉄に運動を駅の格上げを要望することで実現の可能性は高くなると思っていた。
「白衣病棟の上層部も、ねえさんの足を引っ張ることに本気になったわ。もし、ねえさんが当選したら、町が変わるかも知れないと危機感を抱いたのよ。その可能性があった。白衣病棟にとって、ねえさんの主張とおり歩道拡張のためにプレハブ小屋周辺の土地を市に譲ることになれば、過去の秘密を市から暴かれかねない。覚えているでしょう。私たちが幼い頃、あの付近で盛んに重機が土を掘り返し穴を掘っていたことを。あれは医療廃棄物を埋めるためだったのよ。白衣病棟にとってはそれだけではない。不潔なため池の整備も同じ。白衣病棟にとって町が衛生的になれば病人も患者も減り、白衣病棟の収入減につながる。今回ねえさん白衣病棟のタブに触れたのよ。白衣病棟は絶対にねえさんを選挙に勝たせてはならないと思った。ねえさんが言うことは出鱈目で、ねえさんは嘘つきで、父なし子で人格破綻者。太っていてみっともなく看護士と言う社会的に低い地位で市の代表としふさわしくない。本当は選挙に立候補する資格さえもない。などと白衣病棟の上層部は町内会の会長たちに吹き込んだ。特に昭和区長会と言う一部の町内会長で組織する区長たちはねえさんが当選することを妨害した。もちろん、この地域の県議が動き、最終的に票割りを指示した」
「どういうこと」
姉の声は怒りで震えていた。
「自分でもすでに気付いているはずよ」と妹は突き放して、なおも強調した。
「肥満で父親が誰かも分からず血筋も怪しい元看護士には選挙に出る資格などはない。たとえ当選しても議員にはなることを辞退すべきなの」
耳を疑う侮辱的に言葉である。
姉妹の間で取っ組み合いが始まるのではないかと思い、不思議な緊張感と好奇心で待っていた。不気味な沈黙が続いた。ところがその直後に心臓をえぐるような鋭い叫び声が上がった。
予想とおり取っ組み合いの喧嘩が始まったと思ったが、違ったのである。叫び声に聞こえたのは、実は笑い声であった。
笑い声を聞いて、気が狂ったのではないのかと思った。
「おもしろい。それってソフトバンクのCMのパクリでしょう。北海道犬の白戸次郎は当選はしましたけど、犬だからと言う理由で議員になることを断った。あのCMのパクリでしょう」
深刻なダメージを受けるはずだと思ったが、予想に反し、薄い壁の向こうの部屋で姉も妹も手を叩いて笑っているのである。
「分かる。ええ、そのとおりよ」と話が通じたことで、妹も女医も手を叩いてはしゃいだ。
もちろん二人がはしゃぐことが理解できない。
このような屈辱的な言葉で笑い出す人が他にいるだろうか。事象に対する感じ方は人それぞれであろうが、普通はここまで極端な反応を示さないはずである。
それまで二人の関係は険悪な雰囲気も一変したことは理解できる。それは二人が共通の意識を共有したせいであろう。しかしその後の狂喜の反応は理解できない。普通なら二人で落ち込むはずではないか。
その疑問は次の姉の一言で理解できた。
「呆れて笑うしかないわ」と姉は涙をこぼしながら言っているのである。
「仕方ないわね。社会から差別や偏見が消えることはないのよ」と女医はあきらめたように姉の感想に追随した。
「選挙管理委員長の事前の審査で、法的に立候補しても問題ないというお墨付きを頂いたはずなのに」
「たてまえよ」
女医は姉の反応を予想しながら話しているようであるが、たった三百票でダントツの最下位で落選と言う、2ちゃんねるの掲示板に記載された同僚は教えてくれたことにも姉は触れていくのである。
「まだあるのよ。これも噂の出所も真実かどうかも分からない。都市伝説なような話。でもきっと真実よ。ねえさんの獲得した得票数は三百票、次点は七百票。二倍以上の開きがある。その意味は立候補の資格がないと言う意味を込めた数字なの。ソフトバンクのCMの北海道犬は立候補をすることができた。でもねえさんは立候補する資格もない存在だと言う意味。所詮、この町の市会議員選挙は八百長でインチキなの。すべて票の割り振りが事前に決まっている。それだけでない。投票箱が開けられ開票が行われているかも怪しい。地元のドンである県会議員が市会議員選挙の時には町内会長に指示を出す。町内会長は自分の町内会の隣組長などに次々と指示を出し、票を確保する。そのようにして当選した市会議員は県会議員選挙は国政選挙の時に活躍する。それが日本の政治構造であり、権力構造なの。このトライアングルに加わらない者は本来は選挙に立候補することも遠慮すべきなの。一番、底辺に位置する町内会長グループで、その中心的なグループで積極的に活躍する者は昭和区長会と言う秘密組織を造っているの。白衣病棟はその昭和区長会とも密接な関係があり、今回の選挙ではねえさんを落選させるために積極的に動いたの」
「ひどい選挙妨害よ」
「確固たる証拠がある訳でもない。証拠があっても裁判に勝てるとは限らない」
「どうして、そんなひどいことをするの」
姉は悲しそうにつぶやいた。
「もちろん、ねえさんが邪魔だったから」
「信じられない。単なる伝説よ」
「でも事実だと思う」
姉は答えた。
「誰から聞いた」
「みんなが言っているのよ」
「そんな。第一、町内会長は選挙活動はできないはずよ」
「ねえさんはおバカさん。そんなおめでたいことをこの街ではねえさんしか信じていない。みんな知っていることうよ。だから公然の秘密なの。みんなそのことを知っているから立候補するなど馬鹿なことを思い付きしない。日本の政治構造はこの町内会長の選挙違反行為が土台になっている」
姉は声を潜めて語っているが、薄い壁を挟みもれ聞こえてきた。
「でも証拠はない。まさしく都市伝説と言うものよ。でも証拠があっても法廷で争う勇気も気力もないわよね。たとえ私が証言台に立っても、物証もない。噂で聞いただけでは笑い者になるだけ。結局、ねえさんの主張は有権者に受け入れられなかったと納得するしかない。この町の有権者は変化を望まない。白衣病棟前の私鉄駅を特急化する必要も、ため池の清潔にする必要も歩道を広くする必要もなく、そのままで良いと有権者の多くは感じている。選挙結果はそれを明確に物語っている。それ以上のことも以下のことも詮索する必要はない」と女医は断言した。
姉は黙って妹の長い話を聞いているようだった。ところが突然、「ああ、とんでもないことになった」と大声で叫んだ。
私鉄の遮断機の信号音が、カンカンとけたたましく音を立てた。ゴーという音を立て、白衣病棟前の駅を特急電車がすごい速度で通りすげていくのが解った。姉はその音を聞き、飛び上がるように立ち上がった。隣の部屋の様子は物音で想像できた。
姉の態度の急変に妹が慌てて、「どうしたの」と尋ねた。妹の女医にとっても予想外の取り乱し方だったにちがいない。
姉は叫んだ。
「今、気付いたの」
「すべての敷居を高くしてしまった。私が願ったことのすべての敷居を高くしてしまったの」
「どういうこと」
と姉は予想を越えた展開にうろたえた。
「すべて急ぐべきことだった。白衣病棟の私鉄駅の格上げも新幹線が隣町を通る来年が絶好の機会だった。不衛生な町のため池の整備も新しい政権になって国の公共事業費の枠組みが決まる前に意見を言うことが効果的だと思った。歩道の拡張工事も通学路の安全のために急ぐべき事業だった。でもすべて否定された。たったの三百票では何もできない。私鉄の本社に行き取引をしようにも、市民は願っていないことと失笑される。無理に変更して事件や事故でも起きたら会社が世間の物笑いになると拒絶される」
姉の興奮とは別に妹の女医は冷静だった。
「仕方がない。すべて選挙結果とおりなのよ。この町の有権者は変化を望まなかった。駅の格上げをすることが発展とはかぎらない。街を住みよくするとは限らない。多くの市民は今のままの生活を望んでいる。この町で生活する以上、選挙結果には従うしかないのよ。選挙を行う意義や有権者の意思には尊厳を払う必要があるはずよ。もちろん自分を責める必要も有権者を恨むこともない。もし根も葉もない噂とおりの不正が行われ、有権者の意思が歪められたら、別の方面から問題になるわ」
選挙の不正は大問題である。不正が発覚し、やり直し選挙でも行われることになったら、小さな街であるが、億を超える経費がやり直し選挙に必要かも知れない。
妹のこの冷静な言葉にも、しばらく姉はぐずついていた。
「そうね。有権者の真意を歪める不正や選挙妨害があったと思えない」
「ねえんさんも、新しい生活を始めなければ」
「頼みがあるの」
そらおいでなすたったと妹の女医は思ったにちがいない。姉の言葉にすぐに反応した。
「仕事が欲しいと言うのでしょう。でも駄目なのよ。この白衣病棟に戻りたいと願っても、ねえさんの願いが聞き届けられるはずはない。今回の選挙で白衣病棟は明確にねえさんの足を引っ張ったの。そんな病院がねえさんが戻ることを歓迎するはずもないでしょう」
「どうしても駄目なの」
「ええ」と女医は答えた。
「せめてMに取次いでもらえないかしら」
姉は妹である女医に頼み込んだ。
「Mがいなくなったのよ」
姉は女医のこの言葉に短い悲鳴を上げた。
「一体、どういうこと」
「よく分からない。ただМの姿を病院内で見かけなくなった。二か月か三か月前に例の境界近くのプレハブ小屋で見かけて切り」
姉は力を失ったようである。
「私たち三姉妹は悲劇的なのかしら。あの母から産まれたせいかしら。あがいても不幸から逃れることのできない。これは宿命かしら」と姉は悲嘆して言った。
「ねえさんが言うとおりかも知れない。でもねえさんは自分の心の中を見つめ直す必要があると思う。なぜ無理をして立候補を繰り返すの。諦めることで新しい人生があるかも知れない。Mがいなくなっても、生きていけるわ。ずいぶん成長した」
三姉妹の出生の秘密に触れねばならない。
母は開かずの間の十三号室に取り付いた老婆である。老婆はすでにこの世の存在ではないが、生前と同じ姿で病院内を清掃して回る姿を見掛けたことがある。三姉妹は実は三つ子であるが父親は不明である。その老婆が若い頃、村の多くの男性に脅迫されるままに関係し出来た子供である。そのことは新聞沙汰にもなった。
この薄幸の母と三姉妹がこの白衣病棟で生きてこれたのは、Mと言う人物の支援があったお陰であったに違いない。
私もプレハブ小屋の友人のことを考えていた。最後に会った時期も梅雨の合間であった。姿を消したと言う事実も時期も女医の話と符合するのである。私が友人と思っていた人物こそ、ひそかに私が追い求めていたMと言う人物だったのでなかろうか。
友人の正体をボンヤリ詮索していると、突然、応接室の扉が開いた。そして女医が部屋から出て来た。
「盗み聞きしていたの」
と彼女と問い詰めたが、私の答えを聞くことも責めることもなく、踵を返し立ち去った。
その後、応接室から物音も人の気配もかき消えるように消えた。
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