腐った自由帳

花嵐堂

叔父から譲り受けた店なんです。

深月（みづき）さんはそう言った。

思っていたよりも高い声だった。

珈琲豆をミルで挽く、ゴリゴリゴリという音だけが沈黙を破ってゆく。

古い店内の一番奥の角の席。そこに僕は腰掛けていた。ここ三日くらい通っているけれど、僕以外の客に出会ったことがない。隠れ家的な店内はとても静かだ。音楽はかかっていない。

ミルを挽くのをやめると、少しだけ開いた窓から入り込んだ風が緩やかに踊る音がする。

テーブルに落ちてしまった少量の粉末を手で払う間この店は実に静かであった。

一秒が長い。沈黙さえも音に聞こえる。

｢寂しさを感じる力というのは、人と関わる能力のことなんですね｣

沈黙を破ったのは彼女だった。

この店は先日営業し始めたばかりだ。というのもついさっき知ったことだけれど。

｢君は寂しいのかい？｣

そう聞こうとして、代わりに珈琲で口を塞いだ。

それは、僕が言えたことではないからだ。

口の中で黒い味を転がす。

最近、何処で珈琲を飲んでも美味しいと思えなくなった。薬の匂いがするのだ。世界は親切にも、僕を治療しようというわけなのだろうか。無駄なことだ。とうの昔に僕自身が匙を投げている。

世界は誰でも救おうとするが、救う価値のない命がある事を知らないのだ。或いは都合が悪いから無視しているのか。

またひとつ、窓から風が舞い込んできて、深月さんの黒髪を撫でて通り過ぎていった。

この店の従業員は深月さんだけ。

この店には僕と彼女のふたりきりだ。

｢君はいくつだい？｣

僕がコーヒーカップを置く、カチャンという音がよく響く。

｢いくつに見えます？｣

幼げな表情の中に見え隠れする艶やかな仕草。

二十代前半といったところだろうか。

問に応えようとしたら、先に深月さんの形のいい唇が動いた。

｢私は年齢という概念を必要としません｣

透き通った黒目が僕を捉える。

僕はできるだけゆっくりとカップを持ち上げた。

風がまた、カーテンを揺らす。

｢年齢意識というのは人間が死を受け入れるために創り出した宗教です。狂った現代社会の在り方です｣

凛とした言葉。

二十歳過ぎに見えていた少女が一層大人っぽく見える。

｢確かに。結局は他人がすべてな世の中だ。自我の確立だとかアイデンティティがなんだとかよく言うが、結局は他人に見られる自分が自分だ｣

｢ほんと。可笑しい話だわ。その自我の確立のために一番必要な自分自身の顔は自分の眼では見れないようになっているなんて｣

クスクスと彼女が笑う。

耳に掛けていた黒髪が落ちる。

珈琲に口をつける前にふと過ぎった言葉が零れた。

｢……花にも嵐の喩えがあるぞ、さよならだけが人生だ｣

深月さんがクスッと笑う。

｢井伏鱒二ですか？｣

｢ええ。この店の名前が目に入ったもので。なんて読むのですか？花…嵐……｣

ふわっと風が吹いて桜の花びらが舞い込んだ。

僕は少しだけ珈琲を飲むのを躊躇った。

｢がらんどう｣

｢え？｣

｢花嵐堂と書いて、“がらんどう”と読むんです｣

黒髪に止まった薄桃色の一片を深月さんがそっと摘む。

｢花は綺麗に咲き誇って虚しく散っていく。このこと一つを考えても、この世にある一切の生命の一生は、儚く虚しいものです。それをまずの大前提として考えた時、その儚さを、尊さに昇華させることが出来るのが人間の矜持というものだと思うのです｣

深月さんの長い睫毛が影をつくる。

カーテンコール。午後三時。

｢始まりの音はいつも、微かにしか音を立てません。だからそれは前向きかすらもわからない｣

とっくの昔に使い終わったミルを持ち上げる。その代わりに桜の花びらテーブルに置く。

｢でも…それでも何かが始まるのなら、嬉しいことだと思いませんか｣

カランと扉の開く音がして客が入ってきた。

他の客の来店を見たのは初めてだ。

｢花嵐堂はいつでも空っぽの器を用意しています。貴方の好きなもので、その中を満たしてあげてください｣

彼女は｢ごゆっくり｣と言って背を向けた。

その時見せた笑顔がなんとも幼くて、十代なのではないかと錯覚しそうになる。

店内にまたミルを挽く音が流れ始める。

『寂しさを感じる力というのは、人と関わる能力のことなんですね』

寂しさを紛らわせるために、ここに通い始めた僕のように彼女もきっと同じくらい、いや、それよりもっと寂しい存在なのであろう。

この店が優しいのは、孤独と同じ速度で時が流れているからだ。

僕はまた少しだけ窓を開けた。

例年より早い桜の開花だった。

何かがきっと始まっては、終わっていくのだろう。