第1章 1.悪魔が来たりて笛を吹く

 人間は、胎児だったころの記憶を持って生まれてくる。

 といったら、あなたは信じるだろうか。

 もちろんそれは嘘だ。いや、嘘だと証明するすべを僕は持っていないので、本当のところはわからない、と言うのがより誠実だろう。いずれにせよ、事実がどうであれ、ここにおいては僕のでっちあげである。

 どうしていきなりこんな話をするのかというと、その暗闇に、懐かしさを覚えたからだ。



 気がつくと僕は、おそろしく暗い闇の中にいた。どこをみても暗黒が広がっているばかりだった。空間に対する感覚が減退し、それが一体どれほどの奥行きをもった暗闇なのか見当もつかない。自分が暗闇のはじまりにいるのか、中間にいるのか、終わりにいるのか、まるでわからない。

 それでも不快な感じはしなかった。暗闇の肌触りはやわらかく、温かかった。まるで真夏の夜の海に漂っているような、やさしい浮遊感が身体を包みこんでいた。あてはないけれど、いつかは必ずどこかに流れ着くという根拠のない安らぎがあった。

 そこは、はじまりであると同時に中間であり、中間であると同時に終わりでもあったのかもしれない。はじまりと終わりは環になってつながっていたのかもしれない。



 そして、誰かが僕を呼んでいた。

 そのとき、一条の光が闇にさしこんだ。



 ベッドの上で目を覚ました。

 深く長い夢をみていた気がするけれど、内容はすぐに忘れてしまった。

 見知らぬ部屋に僕はいた。一〇畳ほどの広さで、正面の壁にドアがある。ほかの三方の壁にはドアも窓もなかった。天井に蛍光灯がともっている。白ばかりが目立つ、病室のような空間だった。

 手足が意思のとおりに動くことを確かめてから、ベッドを離れる。

 ひんやりとした床の感触が足の裏につたわり、裸足であることに気がついた。服は着ている。くたくたによれた、パジャマのような生地のグレーの上下だった。

 そこで僕は、重大な何かを忘れていることに思い当たった。

 記憶喪失と呼ばれる症状とは、たぶんちがう。僕は僕だ。剰水せせなぎ十歌とうた、一三歳の中学一年生。しだいに意識が鮮明になっていく。両親の顔も思い出せる。名前もちゃんと言える。父の征十郎と、母の和歌。それに一葉という妹がひとりいる。卒園した幼稚園のことも、卒業した小学校のことも、入学した中学校のことも、そこで出会った人々のことも覚えている。

 もちろんここがどこかも知っている。

 それでも何かが足りなかった。決定的に、致命的に。

 僕は唯一の出入り口であるドアのノブをつかんだ。ここから出なければならない。そうしないことには何一つはじまらないことが、僕にはわかっている。鍵はかかっていなかった。ゆっくりとドアを押し開けた。

 爽やかな風が、頬をなでた。水色の空の高いところに太陽が輝き、輪郭のくっきりとした雲が、いくつも流れていた。そこはやわらかな芝草で覆われた小高い丘だった。風が吹くたびに緑の陰影が変化して、波のように押し寄せてくる。

 目の前に、小柄な少女が立っていた。

「はじめましてこんにちは」

 と、女の子が言う。はじめまして、と僕も応える。

「わたしはナビゲーターのアニマと申します。データによると、貴方のお名前は剰水十歌さん。間違いありませんか」

 僕は頷く。

「ようこそ、『Shadow Gate System』へ」

 アニマは両手をひろげて、くりっとした瞳で僕を見上げて、いたずらっぽい笑みを浮かべている。真っ白なワンピースを着ていた。栗色の髪が肩のあたりでウェーブしている。白い鼻緒のサンダルを履いていて、ちいさな貝殻のような爪が指先に載っていた。


 ――『Shadow Gate System』は、大手ゲームメーカーと日本犯◆◆学協会◆◆同開発◆たR◆G形式の仮想現◆◆験型行動◆◆サポー◆◆フトです――


 記憶にノイズがかかっていた。でも、それを言ったのが誰なのかは答えられる。精神科医の門崎かんざき宮古みやこ先生だ。僕は彼女と◆◆で――肝心な部分が塗りつぶされる。それでもおおむね、脳は正常に機能していると僕は判断した。汚れはあるけれど、欠落はない。そんな感じだった。

 過去を見渡すように、僕は視線を遠くへ向けた。

「ここがヴァーチャル・リアリティなのか。ちょっと信じられないな。風がある。光を感じる。他者の存在感が、たしかにある」

「無理もありません。ここにいる貴方は、意識を構成する、いわば精神的素粒子の集合体なのです。その体感は、基本的に貴方の記憶を解析、分解、再構築することで成立しています。風も、光も、他者も、かつて貴方が五感で感じ取ったことの、再体験なのです。とはいえ、すべてがそうというわけではありません。姿かたちがまるっきり私と同じ人物には心当たりがないはずです。そして、そこには若干の異物感のようなものがあると思います。その感覚が、結局のところ、ここがかりそめの世界であることの証左といえるのかもしれません」

「よくわからないけれど」

 僕はすこし首をかしげた。

「要するに、この世界はつくりものってことだろ。ところで、きみはどこか僕の妹に似ているね。それも、この世界の成り立ちに僕の記憶がかかわっているからなのかな」

「そうであるのかもしれません」

 はっきりとは答えずに、アニマはにっこり笑った。

「それで」僕は問いかける。「ナビゲーターのきみは、何をしてくれるの」

「まずは最初の町までご案内します。その道すがら、『Shadow Gate System』の基本的なルールや、十歌さんの役割や目的についてご説明いたします。町に着いてからもしばらくは同行しますが、十歌さんがこの世界に馴染んできた頃合いをみて、また別の方のナビに戻ります」

「それほど頻繁にプレイヤーがやってくるの?」

「いいえ。でも、それが私というプログラムですから。それでは、」

 短いあいだですがよろしくお願いします、とアニマが握手を求めて手を差し出した。僕はつられて応じる。

 そのときだった。

 僕は自身の肉体が二重にぶれたようなめまいを覚える。そして、どちらか一方の僕が、もう一方から急速に離れていこうとするのを感じる。強い吸引力によって。幽体離脱のように。自分の存在感が希薄になるような不安に襲われた。

 そのときだった。

 三日月形の光の刃が飛来する。それは音もなくやってきて、僕の握ったアニマの手首を一瞬で、なんの抵抗もなく、彼女の腕から切り離した。地面を穿つように突き進んで停止する。強烈に明るいのに、ふしぎとまぶしくはない。パチパチと弾ける静電気のような紫電と音を残して、やがて消失した。

 おもわずしりもちをついた。僕の顔に、アニマの手首から噴き出した鮮血が降りかかった。息をのむ。めまいは治まっていた。彼女は顔色ひとつ変えていない。

「少年、その娘に触れられると、喰われるぞ」

 ふりむくと、中年の男が歩み寄って来る。着古した、ところどころ色落ちした黒のスウェット姿。素足に草履をつっかけている。白髪まじりの、長髪というよりは伸びるに任せたという印象の長い髪が、首の後ろで束ねられている。面長の顔に、口髭と顎髭が生えている。やや垂れ気味の三白眼が、どこか眠たげだった。

「あら、フィート。こんにちは」

「はいこんにちは。そして死ね」

 フィートと呼ばれた男が言い放った直後、アニマの脇腹に彼の蹴りがめりこんでいた。数メートルは離れた場所に立っていたはずなのに、移動の軌跡がみえなかった。アニマは真横に吹っ飛ばされて地面を転がる。血しぶきが空中にいくつもの赤い円を描いた。

 しかしアニマは軽くむせただけで、平然と立ち上がった。ワンピースについた草切れを払いおとす。戸惑う僕をよそに、アニマとフィートの会話は続いた。

「もうすこしで彼を食べられるところだったのに。貴方はいつもわたしの邪魔ばかり」

「前途ある若者を毒牙にかけるのは、おじさん、感心しないなぁ。――さて、よもやま話はこれくらいにしておこうか」

 フィートは右の手のひらを空に向けた。

公式展開シュルツ、【雷帝ドンナー・ヴォルケ】」

 呪文のように唱えると、その手のひらの上にソフトボール大の光球が現れた。右手の指を折り曲げるのに合わせて光球が収縮していく。さらに指先に力をこめるような仕草をみせると、それは弾け、霧消した。そして、彼は気怠げに語を連ねる。

「【降雷撃フルミネ】」

 突如としてアニマの頭上に楔形の光の矢が無数に現れた。見上げるアニマの口元に不敵な笑みが浮かぶ。同時に、それは彼女へと降りそそいだ。

 閃く光が視界を奪う。轟く音が耳をつんざいた。落雷を間近で見ているようだった。地表が削られ、大量の土煙が巻き上がる。

 僕は唖然として、その光景を傍観していた。

 やがて、嵐のように光と音が過ぎ去った。

 風が吹いて、粉塵が晴れていく。

 そこには変わり果てたアニマの姿があった。

 肉体が虫食いのように、大きく欠損している。流れ出る血は、もう尽きたようだった。えぐれた肉の端に、ワンピースの布切れがわずかに引っ掛かっている。ほとんど裸体だった。でも。彼女は二本の足で立っていて。残った口はチェシャ猫のように孤を描いて笑っていた。

「まああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 悪魔の産声が上がった。強烈な不協和音がアニマの残骸を高速で震動させる。それは大気を撹拌し、威圧感の波動が、痺れをともなって皮膚に突き刺さった。

 ごぼごぼと音をたてて、アニマの口腔からどろりとした黒い液体があふれ出した。灼熱を帯びた硝子のごとき流動性をもって、形態を自在に変化させていく。二本の柱となって立ち上がったそれは、捻じれ、やがて数億年に及ぶ進化の螺旋を描いた。原始魚類。古代魚類。両生類。爬虫類。哺乳類。最後にはヒトの似姿へと辿りつく。足元に、の抜け殻がへばりついていた。

「ふう……」

 と、彼女・・は息をついた。

「ああ、すっきりした。窮屈だったのよね、あの子の身体。それにしても、いきなり最強の公式を使うなんて、そんなにわたしに会いたかったのかしら」

 二〇歳前後の女性に見えた。中世の貴婦人のようなフープスカートのドレス姿、色は漆黒だ。それが、白磁のような肌を包んでいた。髪も真っ黒で、腰までまっすぐに伸びている。冷たい瞳は、猫を思わせる。そして、血のように赤い唇。つくりものめいていて、不謹慎かもしれないけれど、美しいと思った。彼女はゆったりと広がったスカートの裾をつまんで、軽く会釈した。

「あらためましてごきげんよう、フィーター・リヒカイト。そして剰水十歌」

 挑発的な口調だった。見た目も、人格も、ちょっとしたふるまいに至るまで、そこにいるのはもう、アニマではなかった。

「ちっともよろしくないねぇ。オレはべつにおまえに会いたくなんかなかったんだ」

 フィートは悪態をついた。

「すこし、ほんのちょっとだけど、おまえを殺せる可能性があった。だから、全力で叩いた。それだけだ。くそっ。アニマの姿のまま死んでくれても良かったんだぜ」

「つれないのね」

 彼女は軽く目を伏せてから、再度、フィートを見据えた。刃物のように、眼光が鋭くなっていた。僕まで射竦められてしまう。展開にまったくついていけていないのに。どう考えても対岸の火事に巻き込まれただけなのに。あの悪魔は、僕をも殺そうとしている。そのことが、直感的に理解された。

「あの、おじさん」

 と、僕はフィートの背中に声をかけた。

「なんだよ」

「よくわからないんですけど、とりあえず、彼女は何者ですか」

 彼は無言で僕を一瞥して、吐き捨てるように言った。

翡翠ひすい魔弧まこ。もともとは『Shadow Gate System』のプレイヤーだったが、〝影〟に呑まれ、狡猾な殺戮者に身を落とした。この世界の住人は、暴君と呼び恐れる」

 そして、付け加えた。

「通称、〝黒髪ストレンジャー〟。『Shadow Gate System』における、最強の生物だ」

 翡翠魔弧がそれを聞いて嬉しそうに口元をゆがめた。

「おしゃべりは終わったのかしら」


 その直後、フィーター・リヒカイトは殺される。

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星々のひかりに生まれた影たちの祈り @Yayuyo-Y

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