両者にとっての諸刃の剣はよく考えるとメリットがあまりに少ない
至極当然の帰結で、私は高校では帰宅部にカテゴライズされます。
帰りのホームルームが終わるとすぐにスクールバッグを担いで教室を抜け、学校の最寄り駅で日々の習慣から完璧に把握している時刻表通りに電車に乗って、自宅の最寄り駅まで約十分。その間は行きの電車で半分まで読んだ漫画の後半を読むのが日課になっています。
普段ならば単行本一冊で往復の時間にぴったりなのですが、今日はもう一冊。続巻を鞄に入れてきていました。最寄り駅を過ぎ、降りたこともない駅で降りて、ICカードの定期券外のチャージで改札を抜けます。
学校終わりに自宅へ帰らず、自宅とは違う方向の駅で降りて遊び歩く――それはまあ、普通の高校生とやらなら、別段不思議なことではないでしょう。実際、私がこうしてぼんやり歩いているのを見て不審がる人は今のところいません。それはそうでしょう。そうでしょうが、私がこれから顔を合わせる人物を思い浮かべると、どうしても厭な緊張感が走ります。
再開発の際に土地が余ったのか、それとも住民が無理矢理ねじ込むように嘆願したのか、家が立ち並ぶ中に小さくいびつな形で砂場と真新しい滑り台だけがある公園。そこに、目当ての人物がいました。
「学業お疲れ様でした。じゃあ、さっさとすませようか」
なんだか言葉の端に厭なニュアンスが滲んでいたような気がして、私は抗議の視線を送ります。
その人物――言うまでもなく三条さんは、自分でも気付いていたのか困ったような笑みを浮かべます。
「いや、わかるよ。すごくわかる。僕もこのくらいの年齢の人と一緒に行動する際には常に細心の注意を払ってるからね。一応、今まで通報沙汰にはなってないから、危機管理のほうは信用してもらって大丈夫」
そうなのです。三条さんは若者風の恰好をしているものの、いい年をしたおっさんなのです。そんな相手と一緒に歩いているところを見られて、与えることになる印象は一つ。
ジ・援交。
まあ実際のところ、地方の高校生が学生生活を送っている内では、そんな危険な香りのする話題は冗談以外では飛び出しません。ですが、それゆえに、誤認率極めて高しなこの光景が目に入れば、あっという間に燃え広がる恐れは非常に高いのです。
とはいえ、学校で誰とも会話をしない私にははっきり言って無関係な話なのですが――そうは言っても今の呪いの恐怖で距離を取られている状態は割合居心地がいいので、そこに余計な要素を挿入したくはないのもまた事実。
そのため私が取るべき行動は、三条さんの言った通り『さっさとすます』ことなのです。私情を挟んで観測される恐れのある状態を持続させたのは間違いでした。手早くいきましょう。
私の意思を察したのか、三条さんはすぐそこだよ――と真新しい一軒家を指差します。
一目でベッドタウンだとわかる町並みです。あちこちにマンションが乱立し、この辺りには切って貼ったように同じ建築の憧れのマイホームが行儀よく並んでいます。個性と言えば屋根と壁の塗料の色くらいのものです。
そのおかげで、目当ての家はよくわかりました。壁の色が血で染まったような赤で、無難な色で必死に個性を出そうとしているほかの家々を一笑に付すかのような佇まいです。結局は同じ土俵の上なので、よく見れば大きさも様式もほかと別段変わらないのが悲哀を感じさせますが。
とりあえず、一軒家に入るということなら特に怪しまれることもないでしょう。三条さんがインターホンを鳴らし、「ご案内に与りました三条です」と言うと、中に入るように促されました。
中に入って、私は思わずぎょっとします。家の中の壁紙や天井までもが、赤一色なのです。偏執的とさえ思えるように、もうそこら中赤、赤、赤――そして置かれている家具の類いが別段赤に統一されていないところが、むしろ異常さを際立てているように見えます。
リビングで応対してくれたのは若い女性の方――表札に出ていた苗字は山中さん――でした。聞いているとなんだか眠くなりそうなほんわかした話し方と、落ち着いた物腰が特徴的です。
「ごめんなさい。本来なら泣き付いた主人がきちんとご挨拶すべきでしたのに、仕事を休めないの一点張りで」
「いえ、こちらもお訪ねする日取りを合わせられずに申し訳ありません」
「仕方ありませんよ。次の全休は二箇月後ですから」
さらりとこれまでで一番怖い話を投げてきた気がしますが、私は聞かなかったふりをします。社会、怖い。
「では、一番新しいところを拝見させてもらえますか?」
山中さんは柔らかく笑って、これです――とすぐ隣の壁をつんつんと叩きます。
三条さんは身を乗り出してその赤い壁をしげしげと眺めると、なるほど――と一人納得します。
「成人男性、身長は170センチからプラスマイナス5センチ辺りですね。心当たりはありますか?」
「いえ……」
予想していたらしく、特に失望も見せずに頷くと、三条さんはさてと腕組みをします。
そして私は、なんのことやらさっぱりなまま捨て置かれているわけです。これはいただけません。いや、積極的に三条さんの仕事に協力するという意志は全くのゼロなのですが、それは別として完全な置いてきぼりを食わされるのは甚だ心外であるというのもまた事実なのです。
そんな私の様子に気付いたのか――あるいは存在自体をすっかり忘れて今になって思い出したのか、三条さんは「壁をよく見てごらん」と何事もないような穏やかな声で壁を指差します。
仕方ない、そうまで言うのなら見て進ぜようと食い入るように壁をようく睨むと、なにか塗料が何重にも塗り込まれているような重厚感のようなものがあります。
私が壁に額をぶつけるほどにじり寄っているのを見た三条さんは「視点をちょっと引いて」と笑います。これは恐らく両方の意味です。ならばと頭を引いて、少し落ち着いてとっくり観察してみると、思わずもう一歩引いてしまいそうになりました。
手形です。
真っ赤な手の跡が、壁一面にびっしりと張り付いているのです。それも何重にも何重にも、まるで赤い塗装をしているように見えるまで、隙間なくこれでもかと。
まさかとは思いますが――
「そう。この家の赤い部分は全て、この手形によるものだよ」
びっくりしました。といっても、怖いという感覚はとっくに置き去りにされています。よくもまあここまで、手形を一つ一つぺたぺたと――考えただけで気の遠くなるような作業です。あまりの勤勉さにご苦労様ですと頭が下がる思いです。
住んでいる人にしてみればそれはもうたまったものではないのは当然ですが、どうも山中さんの話しぶりを見るに、とっくの昔に私と同じ心境に至っているようです。三条さんと相談しているのを聞いていても、将来この家を売りに出す際に査定に響かないように――という程度の意図のようなのです。
というより、先程のやり取りから察するに、この人はもう、正直家に手形が増えようがどうでもいいとさえ思っているようです。不気味に思って三条さんに泣き付いたのは旦那さんのほうで、この人は当人が応対に出られないのでやむを得ず委細を説明しているに過ぎないのではないでしょうか。
三条さんは持ってきているトランクから布と液体の入ったペットボトルを二本取り出すと、まず一本目の中身を布に含ませると、それで壁を擦ります、
「これはご神水なんですが……」
布には若干の色が移りますが、壁のほうは変化なしです。
そこで三条さんは二本目の蓋を開け、先程とは違う面に液体を染み込ませます。
それで同じように壁を擦るとあら不思議、擦った部分の壁は元の色であろう白に戻っています。
しかし、それよりなにより気になるのは、二本目を開けた時から漂うこの匂いです。お母さんがマニキュアを塗る時に漂うのと同じ種類の、恐らくは吸引する目的で使えば違法薬物になるであろう匂い。
「ご神有機溶剤ですか」
山中さんがあくまで感心したように言います。
「ええ。結局水性か油性かという話ですから」
水性インクは水に溶ける。油性インクは有機溶剤に溶ける。そういえばそんなことを小学校の図工で先生が豆知識として話してくれたことがありました。
というか、普通に科学的なロジックで汚れを落とせたということは、どういうことなんでしょう。三条さんに連れられてきたので、てっきり霊障とやらなのかとばかり思っていたのですが、生きた何者かがぺたぺたと油性塗料で手形を残しているのだとしたら――頭が下がります。
「いえ、これは間違いなく霊障ですよ。外の屋根や壁に始まり、家の中の天井に壁――とても生身の人間が姿を隠しながらできる仕事量じゃない」
あ、『仕事』とか言っちゃうんですね。
「ただ、異界のものがこちらにこうして目に見える形で干渉する以上、その発生した現象はこちら側の規定内で収まるしかないんです。この手形は一見血痕のようにも見えますが、血液の特徴は見られず、塗料と判断するしかない性質です。ならば、水性か油性――その落とし方の両方を試せばいいだけです」
ただ――と三条さんは部屋――そして家中につけられた手形を見回します。
「これら全てを落とすのははっきり言って莫大な費用と人手、時間が必要です。なので僕としては、この上から新たに塗装することをおすすめします」
「はあ、でも、塗りつぶしても上からまた――」
執拗に手形が主張するということでしょう。
「勿論です。なので今回僕が来ました。というわけで」
三条さんは私に一部分だけ手形を落とした壁に張り付いて立つように指示を出します。釈然としないまま言われた通りに立つと、三条さんが満足げに説明を始めます。
「この手形は異様なまでの偏執さを見せています。家中を真っ赤に染め上げることに心血を注いでいると言っていい。そこに、一部だけ不自然に白い壁があればどうするか」
どん――とお腹に掌底を食らったような衝撃が走ります。
見れば制服のブラウスに、あの真っ赤な手形がくっきりとついています。
「動かないで。大丈夫。万一の場合は僕がフォローする」
いやいやいやいや。私明らかに霊だかなんかから敵意向けられてますよね。割かしデンジャラスな状況だと思うんですが、なんでこの人は娘の発表会を見守る父親みたいな穏やかな顔でこっちを見てるんですか。
「敵意を向ける順番を考えよう。その手は完全に狙いを定めてる。今僕を敵視して潰しても、対応できる人間がいなくなるだけだよ」
本当に最低です。仰る通りなのが最低に拍車をかけます。
第二撃、三撃と腹に食らう度に、力が強くなっています。
さてどうしたものか――私は当然見えないものを見るようなことはできないので、相手の正体を把握して的確に対応するということも、飛んでくる手の方向を見極めることもできません。
息が詰まる――どうやら痺れを切らした手が、私の首を絞め上げているようです。結構な命の危機なんですが、それはさておき、これはチャンスでもあるようです。
べこん、と流しにカップ焼きそばのお湯を捨てた時のような音がして、息ができるようになっています。同時に、首の辺りで赤い飛沫が上がります。
窒息させることができる――私の呪いと、この手の取った行動は同じなのではないか。つまり、圧迫することができる。命を奪いにきている相手に情け容赦は必要ないと判断したのでしょうか、とにかく、私の首を掴んだ手は、圧倒的な圧力でぺしゃんこになって文字通りの爆発四散をしたのです。
三条さんに抗議の視線を送ると、三条さんはなにやら切羽詰まったような顔で「まだだ!」と叫びます。
両手両足、頭に首に、関節という関節を掴まれ、壁に叩き付けられます。
なるほど、と納得しました。これだけの量の手形をつけた存在が、たとえ霊的ななんちゃらパワーだったとしても、一つという道理はなかったのです。
単純な人海戦術。夥しい数の手が、共同で作業をしていたのです。となれば、今まで共に仕事をしてきた仲間が無残に散れば、怒り心頭に発するのは無理からぬこと。
見えません。見えませんが、とんでもない数の手、手、手が、一斉に私に向かって、明確な殺意を持って殺到してくるということがわかります。
視界が――赤く染まります。
まあ、それは比喩でもなんでもなく、単に周囲一帯から、一斉に赤い飛沫が爆ぜたからなのですが。
床や壁にべったりと、それまで手形をつけていたものの赤い残骸が散らばります。
三条さんは暫し放心したように固まっていましたが、慌ててトランクからいくつかの細工を施して切られた白い紙を取り出し、なにやらいじくっています。
「反応はゼロ――全滅――参ったな、想像以上だ」
「なにが起こったんでしょう……?」
ずっと落ち着いていた山中さんまでもが度肝を抜かれたように、きょろきょろと赤い塗料で染まった部屋を見渡します。
「いえ、相手が複数なのは僕も予測していたんです。ただ、最初の一つを潰させたのは単なる警告のつもりで、そのあとで僕のほうで外に出ていくか、全滅かを選ばせるつもりでした。しかし、一つ潰された時点で激昂して総がかりで襲いかかってくるのは全く予期していませんでした。それを、殲滅させるだけの力があることも」
三条さんは私に向かって勢いよく頭を下げます。
「すまない。ここまでの危険はないと思っていたんだけど、読みが甘すぎた。安全を保障すると言っておきながら、あの瞬間、僕は手も足も出なかった。本当に――申し訳ない」
私はべったりと塗料がついた制服の袖をつまんで、くいと引っ張ります。
「うん――弁償するよ。というか、替えは用意してある」
三条さんはトランクから私の高校の女子制服一式を取り出します。凄まじい絵面です。そんなものを持ち歩いて、手荷物検査に引っかかったらどうするつもりだったんでしょう。
「あ、お風呂でいいですか?」
山中さんが三条さんから制服を受け取って、私を風呂場に案内します。服だけでなく肌も塗料でべっとりですから、山中さんも気を使ってシャワーを貸してくれました。
ボディーソープをありったけ使い、タオルで掻き毟るように洗うと、完全には落ちませんが一応外を歩ける状態にはなりました。あとは新陳代謝でどうにかするしかないでしょう。
新しい制服――当然のようにサイズはぴったりです――に袖を通して風呂場を出ると、リビングの外で待っていたらしい三条さんがもう一度頭を下げます。
「僕もやきが回ったかな。この程度の事態も予測できないなんて。怪我はない?」
頷きます。ただし、非難の目は向けたまま。
「この呪い――思った以上に力が強いみたいだ。というわけで、次からはもう少し危ないところへ行っても大丈夫だろう」
本当にこの男は――私は最初から寄せていない信頼がまたさーっと引いていくのを感じました。私の呪いのパワーが思ったより強いことに、困惑よりも期待を寄せているとは。
まあしかし、その論理は理解できます。私が対応できる範囲が予想よりも広いとわかったのなら、それに合わせて対象を広げるのは当然です。それと危険を予測できなかった失態は無関係なのです。
「じゃあ帰ろうか」
後始末は山中さんに押し付けたとのことです。それにしてもこの男と帰る場所が同じというのは頭が痛い問題です。一応、帰りの道や電車では他人のふりをしてくれたので、そこだけは評価します。加点ではなく、減点しない、という意味ですが。三条さんの評価は減点方式で、とうの昔にマイナスに突っ込んでいるのですから。
ここに参上、三条さん 久佐馬野景 @nokagekusaba
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