第二十四話 滅赤

 厳しい残暑が過ぎ去り、窓から吹き込む風が涼しくなった頃。蝉の声が遠くなり、代わりに赤蜻蛉が姿を見せ始めた。最近は、どんどんと短くなるのが顕著な秋が、ついにやってきたのだ。

「やっと涼しくなったな」

 涼やかな音色を響かせて開け放たれた玄関扉からひょろりと長い体を覗かせた雅楽代春うたしろ はるはまるで寝起きの猫のように、丸まりぎみの背中を気持ちよさそうに伸ばした。

 店の外に目線を移せば、木々が慌ただしく衣替えをしているのが見える。その葉を撫ぜるように爽やかな風がさやりと吹き抜け、そして雅楽代の墨色の癖のない髪を優しく揺らした。

「っし。二藍ふたあい、久しぶりに出かけないか?」

 ググッと伸ばしていた体を勢い良く戻すと雅楽代は扉を振り返り、店の中に声を掛けた。

「あら、珍しい。どこへお出掛け?」

 煤けたガラス扉の奥に積まれた古本の上には、小人のような魚のような、不思議な姿をした少女が腰かけて、こちらに向けて首を傾げていた。

 顔は人間とよく似ている。その顔つきは幼い少女ようだ。肌は白く、藍色に紅色をのせた紫に似た色の髪をもち、くりっとした大きな瞳は髪よりやや青みがかった紫色。下半身は脚の代わりに、髪よりやや紅色をした魚に似た尾ひれが揺れる。秋口の為か、着物は桔梗色の物になっていた。

「んん。ぼちぼち滅赤けしあかのところの蓄えがなくなる頃かと思ってな。それに、今使ってる筆がそろそろヘタってきた」

 滅赤の名前を聞いた二藍は、複雑そうに眉を寄せた。

「……そういえばそんな時期ね。あの人のことだから、流石に干涸びてるってことはないと思うけど」

 あの人、少し暑苦しいのよね。とぼやく二藍に、雅楽代は苦笑いをもらす。

「まぁそう言うなって。うちの守りも弱ってきてるから、ぼちぼち結び直してもらわなきゃいけないと思ってたところだし」

 すると二藍は、扉の内側から店の天井付近をぐるりと眺め、最後に開け放たれた玄関扉をじっと見つめる。

「……確かに。一理あるわね」

 思案するように俯いた二藍は、やがて諦めたように息を吐いた。

「仕方がない、一緒に行くわ」

 そう言って二藍は踵を返すと、ゴソゴソと鸞鳳堂内にある古本の山の中に潜っていった。

 それを横目に見ながら、雅楽代も奥の居間にかけてある外出用の帆布の鞄を取りに、店の中へと引っ込んだ。


 ◇


 店を出てしばらく歩くと、街には秋風に染まった紅葉と、某動物公園内にいる愛くるしいパンダを一目見ようと集まった見物人や観光客で溢れかえっていた。雅楽代はそれを少しだけ煩わしそうに眺めると、大通りから目を逸らした。下町風情の残る大通りに溢れかえる人混みを避け、横道に入り古いビル群を進む。

 味気ないビルをいくつか通りすぎると目的の建物が見えてきた。昭和の風情が漂う飴色の煉瓦タイルに覆われたそのビルは、周りのビル以上に陰気に佇んでいる。霞んだガラスの片開き扉に手をかけ、雅楽代は手前に引く。中には年季の入ったエレベーターが一基と、正面の壁に薄暗い階段が下へと延びている。雅楽代は特に気にした様子もなく左側にあるエレベーターを素通りし、その階段をのそのそと降りていった。

 階段を下りきると、そこには階段と同じく薄暗い通路が続いていた。冷気と湿気が籠る半地下の通路を進み、突き当たりの右側にある分厚い鉄の倉庫扉に手をかける。ひやりと冷たいドアノブを回し、体重をかけて扉を奥に押す。景気の悪い音を立てて開いた扉から顔を突っ込んだ。

「ごめんくださいー。鸞鳳堂でーす」

 無機質な壁に声が微かに反響した。

 中は縦に長い空間が広がっていた。ドアを開けたすぐ前に手すり付きの数段の小さな昇り階段があり、その先に壁の上半分くらいから大きな窓が付いている。だがそこも、日を避けるためにブラインドがきっちり降りていた。ブラインドの端から微かに漏れる細い光に、埃がキラキラと反射している。その窓の前に等間隔で置かれた金属製の本棚には、びっしりと雑誌が詰まっていた。古い物から最新の物、少女雑誌から青年誌まで、ありとあらゆる雑誌が収められている。その大量の雑誌の香りに混ざって、微かにお香のような匂いがした。

 扉の外の湿った空気と違って、内はカラリと乾いていて湿度の差に雅楽代は毎度驚かされる。

「大っぴらに開けんじゃないよ!湿気しっけっちまうじゃないかいっ!?」

 感慨も束の間、矢のような声が飛んできて雅楽代は後ろ手に扉を閉めた。声の主は本棚の奥から飛び出してきた。

 それは派手な色の女だった。キュッとやや吊り気味に引かれたワインレッドのアイラインに、同色の口紅。無造作に纏めた髪は燃えるような赤で、そこにこれまた無造作に簪が数本さしてある。その一本が、ブラインドから微かに漏れる日光を鋭く反射して、顔半分の陰影を濃くした。胸元が大きく開いた蘇芳色のタイトなワンピースには、左脚の付け根辺りから大胆なスリットが入っていた。その上から真っ赤な打ち掛けを肩に引っ掛け、赤い色硝子の眼鏡チェーンのついた丸眼鏡をつけている。一種、独特の迫力を持つキツめの綺麗な容貌が、どことなくちぐはぐに感じるはずのファッションを驚くほど綺麗に纏め上げていた。

 雅楽代は、その姿を見る度に、いつも思い出す単語がある。——花魁おいらん

 上等な紅玉ルビーのように強い光を放つ瞳も、適当に纏めて結い上げられた真っ赤な髪も、無造作にさされた簪も、豊かなものが溢れそうな大きく開いた胸元も。匂い立つような色気と、有無を言わせぬ迫力、そして滲み出る理性を感じさせた。妙にさまになっていて、凛々しささえ感じる。

 二藍はその目立つ女性に、いつもと同じように声を掛けた。

「ご機嫌よう、滅赤けしあか。調子は如何?」

「あぁ〜ん?なんだい。引きこもりの坊ちゃんと、カビ臭いモンしか喰わない、物好きな嬢ちゃんじゃないかい」

 魅惑的な風貌から飛び出すな物言いに、雅楽代は苦笑いし、二藍は渋面をつくった。

「……古風と言って頂戴」

 似たようなもんさね、と滅赤は片手をひらめかせながら真っ赤でド派手なミュールを鳴らした。そのまま階段の手摺りにもたれ掛かる。

 で?と滅赤は低音で切り出した。

「ちょっと立ち寄った、なんてアンタたちがそんな身軽な連中じゃないのは知ってる。要件は?」

「俺はいつもの護りを、必要な分貰いたい」

「私は貴女に聞きたいことがあるの」

 顎を持ち上げて、古風で派手な眼鏡の向こうで紅色の目をすがめる。ふぅん、と意味深な言葉で頷きながら、二藍の方に首をしならせた。

「アタシから話を聞こうなんて……わかってんだろうねぇ?」

「ええ、滅赤……もちろんよ」

 すっ、と二藍が右手を挙げた。雅楽代はすかさず持ってきた紙袋から、つまみ絞りの風呂敷に包まれた四角い物を取り出すと、恭しく滅赤に差し出した。

「私からの対価よ」

 ほう?と手を伸ばし、包みを解く。すると。

「こっ、これは……!」

 見開かれた紅色の瞳を確認すると、二藍は満足そうに目を細めた。

「どうかしら?」

「そうそうそう!これだよ、これ!!」

 よくこれだけ状態が良いのが見つかったもんだ!と大興奮の滅赤の手元を覗き込めば、それはコンビニでも売られている某有名少年誌だった。だが、表紙に躍る文字や日付はかなり古いようだ。

 怪訝に眉を寄せた雅楽代は顎に手をやりながら、どちらへともなく訊ねた。

「……なんだこれ、古雑誌?確かそれ、少年向けの週間コミック誌だよな」

 すると滅赤は、カッ、と雅楽代の方を向き吼えた。あまりの形相に思わず身をすくませる。

「かーっ!これの良さが分からんとは、アンタもケツの青い餓鬼ガキだねぇ!」

 文字通り、唾を飛ばさん勢いで語る滅赤の目は、元来の色と相まってメラメラと燃えるように見えた。

「これはねぇ!あの冒険超大作の記念すべき第一話が掲載された号なんだよ。今なお続く、血が沸くようなあの物語!あの興奮!思い出すだけで鳥肌が立つねっ!くぅーー!!」

 滅赤は両拳を握り締め、まるで仕事終わりのビールを食らうサラリーマンみたいに、美味そうに空気を噛み締めた。

「昔から滅赤って、冒険譚好きよね。ちょっと前は何だったかしら……えーと……」

 滅赤はクルリと髪を翻しながら二藍を振り返ると、間髪入れずに言葉を継ぐ。

「『刻迷宮』さね。あれも面白かったわーっ!今でも好きさね!あれを読んだとき、何故あの登場人物たちが実在したいた時代に、アタシは関西方面に居を構えていなかったのかと一ヶ月程自分を呪ったもんよ……」

 眉間に皺のよるその表情は、心底悔しそうだった。二人が話題にする作品が分からない雅楽代は、そっと二藍に寄って行った。

「あの、『刻迷宮』って……?」

 こそこそと雅楽代は二藍に耳打ちする。

「うーん、なんて説明すればいいかしら……?」

 二藍がそう言って首を傾げれば、滅赤が同じように首を傾げてぶつぶつと呟いた。

 時代物?いえ、神話?登場人物は多国籍だし、時代もバラバラだし、敢えて言うなら冒険活劇ファンタジー?と、二藍と滅赤の二人は顔を見合わせて、ああでもないこうでもないと首を捻りまくる。

「確か鸞鳳堂うちの在庫にあったはずよ。気になるなら、読んだ方がはやいわ」

 結局、読めば分かるという根本的な回答を寄越した。もしかしたら言葉で表すのが面倒臭くなったのかもしれない。

「そうそう!百聞は一見に如かずってね!」

 そうしたら共に語り明かそう!と滅赤は、高く結い上げた赤い髪を楽しそうに揺らした。

「じゃあ、次は坊やから対価を貰うとしよう。上がっといで」

 そう言って滅赤は、書庫兼自宅に二人を招き入れた。

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鸞鳳堂古書店の紙魚 ヒトリシズカ @SUH

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