第13話

日米開戦・・・このハワイで日本とアメリカの戦争が始まった。


 一九四一年八月


 ルーズベルト大統領はジャーナリストのJF・カーターを中心とする『敵性外国人対策』として組織された大統領情報部(のちにCIA)から報告を受ける・・・ほとんどの一世、二世はアメリカ合衆国に対して忠誠を尽くし脅威にならずも、ごく一部の日系人は非常に危険であり、日本への協力者となり、また、アメリカ主要施設の破壊工作の可能性ありと報告された。

 この時期すでにアメリカ政府は来るべく戦争に備え、日系人危険分子リストは完成していた。ただし、リストアップされた人物が本当の危険分子か否かは不明だったが。


 一九四一年十二月七日、日曜日、夜明け。

 帝国日本海軍 飛行隊、ハワイ真珠湾(パールハーバー)を奇襲攻撃。


 在ハワイのアメリカ軍は西海岸サンフランシスコからの連合艦隊太平洋司令部からの「日本軍艦隊大規模集結、ハワイ急襲に着手」との公式警告を受けるが、油断か、ゆとりか、陰謀か、守りを固めることなく、いつもと変わらぬ平和な日曜の夜明けを迎えようとしていた。

 警告どおり、まさかの日本軍空襲。

 アメリカ戦艦十九隻が沈没あるいは破壊、約二千三百人のアメリカ人死亡。

翌十二月八日、アメリカ政府、対日宣戦布告、正式に日米間戦闘状態へ突入した。


 日本人は魚しか食べない・・・アメリカ政府の分析は、日本人パイロットはタンパク質不足で栄養失調気味ゆえ、目が見えなくなって長距離の飛行は無理との結論。まさか、日本軍がハワイまでが攻めてくることなど夢にも思わず。三流の部隊をハワイに駐屯させていたとの説あり。

 一方、アメリカ政府は、この日本軍パールハーバー奇襲を事前に情報入手、日本帝国海軍の大艦隊が択捉、単冠湾に集結し、アメリカの太平洋レーダー網に引っかからぬ北部ルートの進軍計画を完全に把握していたという説も一般的である・・・開戦理由欲しさで目をつぶったと。



 宣戦布告がされると同時に、FBIはCIA作成の日系人危険分子リストに従い、二、三日間で、日本人会、新聞社、学校関係、組合幹部、漁船オーナーなど総勢千二百九十名の日系人をいっせいに検挙。同時に日系人の預金、土地などの財産凍結、完全封鎖。西海岸一帯を軍事地域に指定した。


一九四二年二月一九日、「大統領令第九〇六六号」により、日系人だけを対象とした施策としてすべての指定軍事地域の在米日本人、日系人を内陸部の強制移住、収容所への収容が実施された。


 日系人に対して、電信柱や店の扉等、街の目のつくところに、出頭すべき場所・時間のポスターが貼り出された。許される所持品は手で運べるだけの携帯品。自分用寝具、化粧品、着替え、ナイフ、フォーク、スプーン、皿、お椀、コップ、加えて個人的な必需品を用意し最小限にまとめ、携行すべしと命令されていた。

ペット類につては第三者に預けること、とあったが、悲しいかな「敵性外国人」である隣人の愛犬など預かる者もおらず、愛する家族に別れの涙も枯れるほど愛犬、愛猫はほとんど場合、行政の手により薬殺されることになった。

同じく敵性外国人であったドイツ系、イタリア系移民用には収容所は用意されていなかった。なんで収容所は日本人だけだったのか・・・数年後、アメリカは日本にだけ原爆を落とした。



 真珠湾奇襲から幕を開けた太平洋戦争。帝国日本陸海軍ひとときの攻勢も地力の差が悲しくも明白だったのは歴史が証明。

一九四五年。

三月九日。三三四機のB29、東京大空襲。死者八万四千人。

四月一日。アメリカ、沖縄本島に本格上陸開始。

六月二十三日、在沖縄日本軍全滅。死者、軍人約十二万人、一般県民十七万人。

八月六日、アメリカ、広島に原爆投下。一瞬の閃光に死者十五万人。

八月八日、ソビエト、日本に宣戦布告。日ソ不可侵条約破棄。

八月九日、アメリカ、長崎に原爆投下。一瞬の閃光に死者七万人。

八月十五日の灼熱。

日本無条件降伏、第二次世界大戦終了。

アメリカ政府、日系人の軍事的制限撤廃、完全開放。

そして、戦争は終わった。


★★★


 ルーズベルト大統領の深謀。

 ルーズベルトはわざと日本軍に真珠湾を奇襲させた?

 真珠湾攻撃は日本では 十二月 八 日だが、アメリカでは時差の関係で 十二月 七 日である。この日はアメリカ本土が始めて 攻撃された日である。しかも奇襲という卑劣な手で。「アメリカ本体」が攻撃されたのは真珠湾が初めて、後のセプテンバー・イレブン(九月 十一日のテロ攻撃)が二度目になった。この二つは、アメリカ人の心の中に連想ゲームのように思い起こされる苦い事件となっている。


 真珠湾攻撃の真相については日米で既に多くの研究書が発刊されている。米国内で過去の公文書の公開が進み、 更に真相が明らかになってきた。筆者はロバート・スティネット、ゴードン・プランジ、ジョン・コールマンといった研究家の著作 を通じて、現時点での真相を調べてみた。 一九四〇年の世界情勢は、ナチス・ドイツが欧州全土で戦果を収め、ポーランド、オランダ、ベルギー、フランスを占領し、英 国本土も空襲に晒される危険が迫っていた。英国チャーチル首相は再三に亘って当時のアメリカ大統領フランクリン・ルー ズベルトに参戦を要請した。しかしアメリカ市民は全く無関心で、従来からの孤立主義を堅持し、欧州戦線に参加すべき ではないとしていた。ましてや日本との戦争には全く反対であった。 当時、アジアにおいて日本は、満州国の建国、日中戦争の長期化の中で、大東亜共栄圏を構築すべく戦線を拡大し ていた。一九四十年 九 月にはドイツ・イタリアとともに三国同盟を締結した。日本が中国・東南アジアでこれ以上勢力を伸ばすこ とを好まなかった米国は、日本に厳しい経済制裁をかけてきた。一九四一年七月には在米資産の凍結、日本船舶のパナマ運 河通過禁止、石油、鉄鋼、金属類の全面禁輸が実施された。資源の補給を断たれた日本は、日米開戦を準備せざる を得ない状況に置かれた。


ルーズベルト大統領は、如何にして米国民をヨーロッパでの参戦機運に導くかに腐心していた。その政策は「日本に先 に攻撃させる」政策であった。これによってアメリカ国民の愛国心を煽り日米戦争に突入する。そして三国同盟を結んでい たドイツに参戦して、英国を助けるシナリオであった。

大統領はかなり早い時期から、日本がアメリカを攻撃するとしたら、真珠湾であろうと踏んでいたらしい。

 一九四〇 年 十月には太平 洋艦隊を「抑止力」としてハワイの真珠湾に常駐させる政策を取った。他方、真珠湾の海軍司令官のリチャードソン大将は軍事的見て、

「真珠湾には弾丸、燃料補給、訓練施設等のインフラが揃っておらず、大艦隊をここから出動させるには無理 がある。むしろ基地をサンディエゴに移転すべきである。」

 と主張してこの政策に反対したが、大統領は一九四一年二月にリチャード ソンを解任し、キンメル大将に交替させている。

 米国政府が日本の政府・海軍の暗号解読を組織的に行なうようになったのも、この頃からである。暗号の傍受は、マニ ラ、グアム、ハワイ、アラスカ、シアトル、サンフランシスコの各無線監視局で行なわれた。一九四一年 四月頃には日本海軍の数字暗号を迅速に解読する解読機も開発されていた。暗号解読機はコルヒドール(マニラ)とワシントンだけに設置され、 そこからホワイトハウスとワシントンの米軍高官に報告された。

 ハワイに駐在する太平洋艦隊海軍司令長官キンメル大将 とショート中将はワシントンからの報告に全面的に依存していた。

 他方、日本海軍は 一九四一年 三月に、森村正という偽名を使って海軍少尉吉川猛夫をホノルルの領事館に赴任させた。彼の使 命は真珠湾に停泊する艦船の正確な位置を日本に報告することであった。米国政府は同人のスパイ行動を監視しなが らも、逮捕・強制送還せず、発信情報を傍受するのに役立てていた。FBI 長官フーバーは同人の存在に気づき、大統領 に逮捕を進言したが聞き入れられなかったという。森村の電報はマニラとワシントンで暗号解読されたが、ハワイの司令官には 伝達されなかった・・・。

  連合艦隊司令長官山本五十六を長として真珠湾攻撃を行なった日本海軍の第一航空艦隊は、千島列島択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に集結し十一月二十六日に 出航している。この日から真珠湾攻撃の日まで無線封止が行なわれるはずであったが、実際にはこれが守られなかった。この間の日本軍内部の交信情報は太平洋全域の米国無線監視局に筒抜けになっていた。日本の第一航空隊が千島を出発した直後に、米国海軍当局は北太平洋を「真空海域」に指定し、米国と連合諸国 の船舶はこの海域を避けて南太平洋ルートに航路変更するように指令された。同時にキンメル大将にも守りを固めるよう に注意を喚起した。しかし肝心な情報は伏せたままであった。キンメルは心配になって、艦隊を北太平洋海域に偵察に 出したが、ホワイトハウスからの命令で真珠湾に引き返させられている・・・ハワイ市民が動揺するのを回避するのが表向きの理 由であったが、ホワイトハウスは日本に先に攻撃させることに拘ったのである。

 米陸軍と米海軍は 11 月 27 日に太平洋拠点の各将校宛てに、戦争警告文を流している。

「日本との外交交渉が決裂し、数日のうちに日本からの武力攻撃が予想される。日本との戦闘行為を避けることができないのであれば、米国は日 本が最初に明白な行為をとることを希望する」

 と言った内容になっている。但し、この警告文では日本の攻撃がどこに行 なわれるのかには言及していない。この警告文の直後にホワイトハウスがキンメルに出した指令がある。真珠湾に停泊していた空母エンタプライズとレキシン トン等の近代的な軍艦 21 隻と戦闘機 18 機を、ウエークとミッドウェーに移動させる命令である。理由は2拠点の戦力増 強であった。真珠湾にはアリゾナを始めとする第一次世界大戦の遺物ともいうべき老朽化した戦艦だけを残すようにした。

 攻撃のゴーサインとなった「ニイタカヤマノボレ一二〇八」がでたのは 十二 月 三日だった。この隠語暗号を傍受したワシントンの 軍事当局は、攻撃の日が 十二月 八 日であると推測したが、こうした情報が全く伝達されなかったキンメルは十二 月 六日(土) 夜ワイキキ海岸のホテルで開催された宴会に出席し、翌 七 日(日)にはショート中将とゴルフをする約束をしていた。

 日本政府は 十二月 六 日にアメリカ政府に国交断絶通告を打電した。この文書はワシントン駐在日本大使館が受けて、 米国東部時間で 七日午後 一時(ハワイ時間で午前 七時)までに米国政府に手交されねばならなかった。文書は 十二月六 日に日本大使館に届いていたにも拘わらず、その晩に書記官の転勤送別会があり放置されたままになっていた。(最近「日本大使館員がわざと遅らせてとの資料が出たとの報道あり) これを翻 訳してアメリカ政府に届けたときには、真珠湾攻撃は既に始まっていた。アメリカ側が「この奇襲は騙まし討ちであった」と非 難する格好の材料を与えることになった。公式の外交文書の到達は遅れたものの、ホワイトハウスは無線傍受によりその内容を事前に把握していた。傍受内容 が米軍首脳に届いてから、太平洋各地の司令官に伝達する電文は遅れた。ハワイのキンメル将軍に届いたときには、真 珠湾の艦隊は既に火の海に包まれていた。

 攻撃開始は 七 日午前 七 時 五三 分であった。「日本に先に攻撃させる」というルーズベルトの戦略は成功した。アメリカ国民は真珠湾攻撃によって愛国心に火をつけられ、 日本への応戦を叫び、独伊への参戦に賛成した。このときのルーズベルト大統領の支持率は 八七%にも上っていた。真珠 湾で犠牲になった米兵は 二八〇〇 名を超えた。キンメル大将とショート中将は、十日後に職務怠慢を理由に解任・降格さ れた。 しかし、一部の国会議員は、何故これほどまでにハワイの太平洋艦隊が無防備であったのかについて疑問を呈し、事情 を調査する委員会を発足させた。米軍幹部は傍受証拠を一切提出せず、関係者には厳重な箝口令をしき対応した。 委員会は米軍幹部が故意にハワイに情報伝達をしなかった事実はなかったと報告した。一九九五年にキンメル大将とショート 中将の遺族が、名誉回復を求めて改めて調査を求めたが、それでも結論は変らなかった。

 どのような理由があるにしてもハワイには日系人が多数居住し、そこをあえて同胞の日本軍に攻撃させる。もちろん、米軍には多くの日系人も従事していた・・・あえてハワイを舞台に仕向けたルーズベルトの深謀が見てとれる。


★★★


山本五十六の深謀


 アメリカ留学の経験もある山本五十六は実はそもその戦争回避しての日米和解派であった。幾度かの駐在経験からアメリカとの国力の違いを認識しており、一九四〇年四月十一日の故郷・長岡中学校での講演で、

「伸びきったゴムは役に立たない。今の日本は上から下まで、全国の老人から子供までが、余りにも緊張し伸びきって、それで良いのか」

 と語りかけ、

「日本がアジアの真のリーダーとなるには二十~三十年」

 かかると述べている。


 また、自邸に同盟通信、山本番の海軍の人事は髙橋に聞け、との言われた山本番である髙橋邦夫を招きいれた時、髙橋の問い、

「アメリカ相手に戦争勝てますか?」

の問いに、

「三十年後に結論が出る」

「なんでですか?」

「今の日本に必要なのは全てをゼロに戻すことたよ。数年後ゼロからのスタートで二十年、三十年かけて日本国民自身の力によって我が国を再興し、素晴らしい国ができあがると信じているからだ」

 と答えているるが、同盟通信高橋邦夫はもちろんその答えは胸にしまった。


 一九四一年の開戦、一九四五年の敗戦。

 その三〇年後、日本は見事に復興を果たした。


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