5th day

窓から朝の陽光が入り込んで、部屋も少しずつ明るくなってきたころに目が覚める。ベッドの上で伸びをして、シーツをのけてベッドから降りる。気分はなかなか、この島に来てからは珍しく良好。やはり良い寝具で寝れば、目覚めも良いものなるにらしい。どれほど劣悪な環境であっても、だ。

 ただ、これからまた一日が始まると思うと気分は一気に落ち込むが。

 あくびをしながら部屋の中を歩く。目的地はバスルーム。今日も早くに起きたことだし、朝食までには時間がある。その間、シャワーを浴びて目を覚まそうという考えだ。

 バスルームの扉を何度かノックして、中に同居人がいないか確認してから中に入る。もしも彼女が居ればもう少し寝ていようかと思ったが、居ないようなのでそれは無しに。服を脱ぎ、鏡に映った自分の体を眺めてみる。少しやせた、というよりやつれた、が正しいか。眠れていないわけでもないのに隈ができ、頬の肉も明らかに落ちた。目つきもだ。まるで安物のサスペンスに出てくる殺人鬼のように悪い。ひどい様だ、昔のハンサムな顔は、たった数日でどこかへ消えてしまった。

 ……自分で考えておいてなんだが、つまらない冗談だ。つまみを捻って湯を丁度いい温度に設定してから出す。最初は冷たい水だが、すぐに熱めの湯が出るようになった。降り注ぐ湯を頭から浴びる。いい湯だ、落ちた気分は一向に良くならないが、目は覚める。そのまま少しの間、寝ている間にかいた汗を洗い落とす。頭のてっぺんから、足の先まで、全身をきれいに。ついでに体も温める。

 湯を止めて、タオルで体についた水滴を拭き取り、ドライヤーで髪を乾かしたら服を着て、部屋に戻る。そこでようやく異変に気付いた。

 この部屋には、私以外誰もいない。

 ふと、彼女が寝ていたソファを見る。綺麗な正方形に折りたたまれた毛布の上に、枕替わりのクッションが行儀よく並べられているが、彼女の姿はない。どこか見えないところに隠れている事を考えて、目を閉じて耳を澄まし、息遣いを聞き取ろうとするも、物音は一つとしない。聞こえるのは徐々に早まる自分の心拍と、呼吸だけ。

「……エンジェル?」

 不安の乗った声を出す。

「エンジェル! どこだ!」

 もう一度、私に出せる限りの大声を張り上げるが、やはり彼女からの返事はない。欠けた心が、埋めてくれるピースを探せと歯車を回す。クローゼット、ベッドの下、ソファの下、バスルーム。それだけでなく、人が入れそうにもない隙間も全て覗き込んで探すが、彼女は居なかった。どこにも、欠片も。

 だが、彼女が一人で部屋を出ていくことはないはず。外には殺人鬼がうろうろしているのだから、自殺するようなものだ。昨夜の素振りからして、自分から殺されに行くのは考えられない。

 とすれば、誰かが彼女を連れ出したという可能性が大きい。争ったような跡はないから、私たちが眠っている間にさらったか。部屋にはロックがかかっているが、解除できる人間は居る。島のオーナーの、フィッシュなら、それができる権限も持っているだろう。

「……」

 最悪の予想が浮かんではじける。悪い予感ほどよく当たる……そんな言葉が頭をよぎる。そうでなければ良い、という希望的観測が持ち上がるが、そうでなければ私は死ぬ。理性を失い、ケダモノのようになって死ぬだろう。

 時計を見る。朝食の時間が近づいてきている。フィッシュも朝食に出ているはずだ。奴を問い詰めれば答えはわかる……絶対に。だが、足がすくむ。行く先に絶望が待っていると思うと、死への恐怖からか体が動かなくなる。だが進まなければ安堵も得られない。勇気のない自分の面を殴って活を入れ、服を着替えてネクタイをきつく締め、上着を羽織ってそのまま外へ。もう見飽きた清掃用アンドロイドを突き飛ばして八つ当たりをしながら廊下を進み、食堂に。扉を勢いよくけり開けて、わざと大きな音を立ててエントリーする。自分の小さな殻を、大きな動きで覆い隠すように。

 日ごろ大人しくしている私が、突然これほど乱暴な行動をとった事に驚いたのか、すでに朝食を摂っている連中からの視線が集まり、ざわつく。それはどうでもいい。

「フィッシュ!」

 傷んだ喉で、声高に叫ぶ。するとようやく、奥の席で一人悠々と食事をしていた糞野郎がこちらを向いた。故意に歩幅を大きく、肩を揺らしながら歩き、敵意どころか殺意すら乗せた視線をフィッシュに送る。

「朝から騒がしいね。一体どうしたんだい?」

「彼女はどこだ」

「彼女、とは誰の事かな」

「エンジェルだ。朝起きたら部屋から消えてた」

「ほう。それで、なぜ私に聞くんだい?」

「彼女が一人で部屋の外に出る理由がない。誰かが連れ出したと考えて、それができるのはお前くらいだろう」

 わざわざそんなことをするのもこいつくらいな物だろうし、もしそうでなくとも監視カメラの映像を見せてもらえばどこへ行ったかはわかるはず。

 そんな浅い考えからの行動だが、フィッシュはどう応えるのか。肯定か、それとも否定か。

「彼女はどこだ、答えろ!」

「彼女がどこにいるかだって? もちろん知っているさ。私はこの島の主だからね。島の中ならば、どこで何が起こっているか。すべてわかる」

 ジャックポット(大当たり)だ。やはり知っていた。

「昼になったら私の部屋に来なさい。朝はレストランで給仕を……」

 衝動に突き動かされるままにフィッシュの胸ぐらをつかみ上げ、優雅な朝食を中断させる。私は、こんなにも苦しいのに。心臓を抉り出されて、その中に鉄球を入れられたかのように、胸の内が冷たく、重く、空虚だというのに。ゆっくりと、おいしそうに肉にナイフを通しているフィッシュに無性に腹が立った。カラン、と食器が床に落ち、より注目が集まる。

「今教えろ」

 マフィアも顔を青くして逃げ出しそうな、胸の冷たさをそのまま外に出したような、冷たく、低い声。私にもこんな声が出せるのかと、少し怖くなる。が、出かかった言葉はそのまま音となり、声となり、心を震わせる。

「さもなくば殺す」

 言葉に乗せられた意思は、胸の冷たさとは真逆に、溶岩のように熱く、研ぎたてのナイフのように鋭い。

「できもしないことを言うものじゃない。彼女と約束したのだろう? 人は殺さないと」

 胸を締め上げられて苦しそうに。しかしそれ以上に快楽で喘ぐように、フィッシュが言葉を漏らした。

 こいつの取った行動と、苦しめられて悦ぶ変態性に激しい嫌悪を感じ手を放す。一体どこまでこいつは私を不快にさせるのか。

「盗聴か」

「正解」

 悪意が溢れ、かえって純粋に見える笑顔で認められてしまった。今更盗聴されていた程度では驚きはしない、私はこの島の地獄のような……いや、地獄そのものといえる光景、行為を見てきたのだ。それを顧みれば、皮肉でなく本当にいい趣味だとすら思える。常識に照らし合わせれば、非常識で罰せられるべき行為なのだろうが。

「恋人の真似事でも始めないかと楽しみに聞いていたのだが、いつまで経っても関係が進まないから飽きてしまったよ」

「それは良かった。お前を楽しませるために何かするなんて、金をもらってもお断りだ」

「まあ、私はそれでもかまわないのだがね。オーディエンスが劇を進めろと言い出すし。おかげで予定がいくらか早まってしまったよ」

 劇、観客、予定といきなり気になる言葉が三つも出てきて、首をかしげる。

「今のはどういう意味だ」

「こちらの話だよ。君にも関係はあるが、まあ昼の楽しみにとっておきなさい。エンジェルの居場所もその時に教えてあげよう」

「……それまで待てば、彼女の居場所を教えてくれるんだな」

「もちろん。私はうそを言わない」

「……」 

 信用できない。しかし、私にはどうしようもない。相手が何か情報を持っていて、それを教えてくれるというのだから信じる他ない。言うとおりにするしか。

「朝食もまだなんだろう? 早く食べなさい。腹が減っていては、客に最高のサービスを提供できはしないだろう」

 もうすぐ100億を迎える人類の中でも、選りすぐりの悪意、邪悪さを誇る人間たち。地球という巨大な毒壺の底に溜まった、最も濃厚な毒。触れるどころか、見るだけでも体を蝕む。それでも正気を保つためには仕方がない。

 その正気も、エンジェルという支えをなくしてもはや危ういものとなっているが……生きている、と嘘でもいいから言ってくれれば、平面に立てられた卵のように安定しない心も定まるのに。



 給仕服に袖を通し、これまでと同じように仕事をする。外道が調理した肉―ほんの少し前までは広い牧場で遊んで……というのは正しくないか。放牧されていた少女の、成れの果て―を同じ外道に食わせるために運ぶ。そんな狂気の沙汰にある行為をする私も、間違いない、彼らの同類だ。作る外道に食う外道、そして最後に運ぶ外道。私を含めて、この島に人間は居ない。人間は、人間でなくとも、わざわざ好んで同種の肉を食らう生物は居ない。つまり彼らは人間ではない。放牧されている少女たちも、共食いはしないが、牛や豚と同じく家畜だ。家畜を人間と呼んだりはしない。ではなんと言えばいいのか。獣ではないが、その行いは獣に近く、それ以下。であれば、ケダモノと呼ぼう。この島はケダモノの島だ。人間と呼べるのは、エンジェルだけ。

 ああ、果たして彼女は無事なのだろうか。いまだにどこにいるか全く分からない彼女の身を案じつつ、私もようやくこの島の一員であることを認めてしまった。今までは必死に否定していたのに、彼女という支えがなければ抵抗もできずに折れてしまった。あまりに脆い。池に張った薄氷でもここまで脆くはないだろう。

 ひたすら無心で仕事をし、ようやく時計の針が12で重なる。待ちに待った時が来た。

「シェフ」

「朝フィッシュと話してたな。行ってこい」

「ありがとう」

 エプロンだけ脱ぎ捨て、着替えもせずに廊下を走り、息を切らしながらフィッシュの部屋へ急ぐ。彼女の存在は私にとって命そのもの。彼女の安全は全てに優先する。もうここまで来たら、先に何が待とうとも行くしかない。毒蛇の巣に飛び込むことになろうとも、それが彼女のためならば。

 深呼吸を二度、呼吸を整え、ノックを四度。彼女は無事という希望を持って、扉に臨む。

「どうぞ」

 ドアノブに手をかける。この中に毒蛇はおそらく居ないだろう。それよりも数億倍厄介で、恐ろしい相手なら居るだろうが。扉を押し開き、室内へ。

 ロバート・フィッシュ。島のオーナー。私の姿を見ると朝と同じような笑顔を顔いっぱいに張り付けて彼のデスクから立ち上がり、両手を広げて私を歓迎する。それからすぐに、部屋の中央の、皿が並べられたテーブルに着いた。皿の中身はクロッシュで覆い隠されて見えない。が、どうせ碌なものではないのだろう。

「君も座りなさい。そこにね」

「……もう一人来るのか?」

 テーブルに並べられた食器は三人分。二つは私とフィッシュのものと考えて、あと一人は誰だ。エンジェルか。ならいいのだが。

「ああ、誰が来るかはお楽しみに。さあ、早く」

「……」

 言われるままに席に着く。私の部屋にあるものよりも、柔らかな。上等な物だとわかる。

「待つ間、何か話でもするかい?」

「それはもちろん話そう。ランチの後でね。それ以外は?」

 首を振る。もちろん横に。今教えろと言っても教えてはくれないだろう、こいつはそういう男だ。

 テーブルに肘をつき、手を組んで待っていると、ノックが四回。

「どうぞ」

 誰が入ってくるのかと、首を向けると、エンジェルではなかた。フィッシュ共々、私をさんざん苦しめて悦ぶ悪魔。一瞬だが、心臓が止まったような、そんな錯覚に陥るほどに、彼女を恐れた。

「五分遅刻だ。料理が冷めてしまう」

「ごめんなさい、ファンの方と少し話し込んでいたの。偉い人だったから、断るに断れなくて」

 この環境は、まずい。私にとっての猛毒が二人もいる。一人でもすでに致死量に達するのに、それが二人も。一体どれだけ私を殺したいのか。

 今すぐここから逃れなければ、一秒でも早く逃れなければ、一時間と持たずに毒に侵し尽されてしまう。

 だが、ここで逃げてはエンジェルの行方は二度と分からなくなる、そんな確信に近い予感がある。だから、逃げられない。

「言い訳は結構。座りなさい」

「わかったわ。ジョン、隣いいかしら?」

「駄目だ」

「ありがとう」

 駄目と言っているのに、無視して座る。どうせこうなるだろうとは思っていたが。

 毒が、わずかに肩に触れる。世界という毒鍋を煮詰めて残った猛毒の中でも、ひときわ強く、醜く輝く二人に挟まれて、生きた心地がしない。もしかすると、もう私は死んでいるのかもしれない。そうであっても、何もおかしくない。

「三人そろったところで、さあ。食べようか。素晴らしい食材を用意してくれた神に感謝を」

 食前に、居もしない神に祈りをささげるフィッシュ。もし聖書に書かれているような神が実在するならば、この島の事も見ているはず。そして一番に、目の前で祈りを捧げているコイツに罰を下しているはずだ。見ていて何もしないなら、そんな神は存在する意味がない。

「ああ、美味いなあ」

「本当ね……素晴らしい」

 何も迷う事なく、おそらくは人肉で作られた料理に舌鼓を打つ二人。

「ジョン」

 不快極まりない光景に顔をしかめていると、隣から声がかかる。とても優しい、悪意のかけらも感じさせない声が。

「食べろ、と?」

「ええ、美味しいわよ」

 目の前で湯気を立てる『肉』料理。これを食えというのか。私にとって、猛毒であると知りながら、それでも。

「……材料は」

「今朝収穫したばかりの、新鮮な肉さ。食べなさい。でなければ、君の望むものは永遠に手に入らない」

 ギッ、と奥歯が鳴る。私の心中は、こいつらも察しているだろう。

「地獄に落ちろ」

 精一杯の呪いの言葉を吐きながら、ナイフとフォークを手に取る。そして肉を一口サイズよりも細かく切っていく。咀嚼する必要のないほどに細切れにしても、食欲は一切湧かない。当然だ、同種の肉など食いたいものか。

 それでも、エンジェルのために。自分のために、フォークに肉片を乗せる。どうせ今までに二度も食べているのだから、三度目も変わらない。罪がこれ以上増えたところで、死刑以上の刑はあり得ないし、どうせ後で胃液と一緒に便器にぶちまけるのは、今までと何も変わらない。

 フォークを口に入れ、舌の上に肉片を乗せる。味わえば、美味なのだろう。実際に、そうだ。だが、そうと認めるのは私の最後の倫理が拒否した。咀嚼することなく水で押し流す。

 大変な苦痛の中、無心で食べ続け。ようやく皿の上にソース以外のものがなくなった。自身の倫理からくる強烈な吐き気に襲われるが、耐える。聞かねばならないことがある。

「……食事は終わったぞ。彼女はどこだ」

「まったくせっかちだね君は。そう焦らずに、食後のコーヒーでもどうだい?」

「これ以上待てるか! 彼女はどこにいる!」

 酸で痛めた喉をさらに傷めつける大声でフィッシュに迫る。私の中で、彼女は理性、命そのもの。彼女が居なければ、私はダメなのだ。

「そんなに大きな声を出さなくてもいいじゃないか。全く耳が痛い……」

 フィッシュが立ち上がり、デスクに戻ったと思うと、なにやら腰を屈めてその下を漁り始めた。

「本当はこの催しは、明日になる予定だったのだが、そこの彼女がどうしてもと言うのでね。断り切れなかった不甲斐ない私を許してくれ……よっと」

 謝罪の後に、軽い声と共に持ち上げられたものを見て、思考が消し飛び叫び声をあげて逃げ出したくなった。

 デスクの上から私をのぞき込む、四つの瞳。視覚情報を、脳が処理することを拒否したのか、それが何か理解するのが遅れる。

「ほら、君の求めていたエンジェルだよ。再開を喜びなさい」

 アレはエンジェルではない。私の知っているエンジェルではない。私のエンジェルは、もっと大きく、呼吸をしていて、瞬きもして、血色が良くて……こうなっている可能性も当然考えていたが、認めない。認められない。

「ずいぶん精巧にできてるな」

 震える声で強がってみせる事だけが、私にできる唯一の抵抗。

「彼女は生きている。どこに隠した!」

「隠したも何も、今私たちと君とで、腹に入れたところだろう。その残りがこれだ」

 認めない……認められない、認めたくない。そんな事実、認めてたまるか。

「ふざけてないで彼女を出せ! 返せ!」

「現実から目を背けても何も変わらないよ。彼女はわたし達の中と、君の前にいる。それが彼女だ」

「仕方ないわよロバート。これが正常だもの」

 私は正常ではない。もう異常の側に堕ちた外道だ。ヒトデナシのケダモノだ。

「ではどうすれば、これがエンジェルだと認めてもらえるかな? 朝も暗いうちから君の部屋に入って、エンジェルをさらって、今に至る詳細な経緯を話せばわかってもらえるだろうか?」

「ロバート。絶望というのはね、一気に突き落とすほど大きい物なの。そんなに時間をかけてたら、せっかくのデザートの味が落ちちゃうわ……彼を抑えて。私にいい考えがあるの」

 何をするかは、見当もつかない。だが、間違いなく彼らは、私に悪意を持って、何かしらの害を与えるつもりらしい。もう瀕死の私に、完全にとどめを刺しにきている。ここから逃れるために、ガラス製の透明なテーブルを全力で蹴り上げる。天板が破片になって散りあがり、光を反射して目を眩ませた。

「どけ!」

 驚いた隙を突いて、入り口に向かって駆け出す。エンジェルが戻ってこない、なんて事は考えなかった。考える余裕なんてなかった。ただ突きつけられる銃口から逃れるように、この場から離れる事しか頭になかった。

 ドアを開くと、そこには見慣れた清掃用アンドロイドが。勢いのままに押し退けようとするが、見た目以上に重量があるようで、押し退けるどころかびくともせず、かえって押し込まれる始末。

「丁度いい。拘束しなさい」

 無情にもフィッシュの一言で、体温のない手が私を捕らえる。身を捩って逃れようにも、機械と生身、彼我の力には埋めようのない差が存在するために、完全に無駄なあがきに終わる。

 苦し紛れに顔を殴ろうとも、痛覚のない機械相手には全く意味がなく、こちらの拳が痛むばかり。それだけでなく、引き寄せられて羽交い絞めにされ、遂に完全に身動きが封じられる。

「放せ!」

 叫んでも暴れても、全く意味がない。ただ純粋な悪意を顔に張り付けた二人がゆっくりと迫る。

「こうすればよく見えるだろう」

 突きつけられる、生首。彼女のものではなく、作り物だと信じたい。だが、とてもそうは見えない。とても、精巧な、作り物……それが、生きていれば息のかかるほどの距離に置かれる。

「一片の相違なく、彼女の顔だ」

 何度も、何日も見た彼女の顔と、目の前の生首。なんとか違いを見つけ出そうと、血眼になって探す。何度も何度も。暗闇の中に落とした硬貨を探すように。

 しかし見れば見るほど、比べれば比べるほど、それが彼女の物であるという確信に近づくばかり。認めたくないのに、認めるための材料は次々とそろっていく。

 瞳の色、まつげ、眉毛、目の形、髪の色と長さ。鼻筋、唇、顔全体の造形。そして臭い。認識できるすべてが、目の前の生首が彼女だと語っている。

「どうだい、認める気になったかい?」

「作り物だ、そうに決まってる」

 ここまで来て、まだ願望を口にする。心はとっくに折れているというのに、みじめにありもしない希望に、願望に縋りついている。

「粘るわねぇ」

「どうすれば認めてくれるだろう」

「そうだわ! 今度は食べさせてみましょう」

 年甲斐もなく涙を流し、居もしない神に助けを求めて祈る。助けてくれと、声にならない声で叫び、祈る。果てしない祈りの果てに、遂に神は降りてこなかった。

 それもそうだ、居もしない神が助けてくれるはずがない。居るのは愚か者をあざ笑う悪魔だけ。

「どこを食べさせようか」

「唇がいいんじゃないかしら」

「それは素晴らしい、ぜひそうしよう!」

 作り物と信じる生首の、血の色が失せた唇にナイフの刃が入れられ、切り離される。口に入れてなるものかと、頑として口を閉ざし、顔を背ける。

 それでも、手でつままれた死体の唇は慈悲なく近づき、触れてしまいそうになる。心臓がここから逃げろと全身に意思を巡らせ悪魔の手を拒もうとするが。意味がない。

「ほら、暴れないで」

 言葉は優しく。しかし力は強く、両手で頭を固定される。冷たく、柔らかな唇が触れる。

「私は彼女を犯す事無く殺した。なるべく殺しま内容、正確に首の血管を切って。そのあとは全身をきれいに洗って、今の姿になった。唇にも触れてないよ。彼女は清いまま天に召されたのだ」

「つまり今のが彼女のファーストキスよp。よかったわね」

 笑いながら二人は言った。清い彼女を、私が穢したのだと。すでに折れた心は、とどめの一手を刺され粉々に砕け散った。呼吸は浅く早く、心臓は強く早く。視界がにじみ、世界から輪郭が失われ、体が私の物ではなくなってしまう。力が抜けて開いた口に、何かがねじ込まれた。味はさっき食べたものと同じ。咀嚼して、飲み込んだ。

「お味はどう? お気に召したかしら」

 作り物ではなく、本物の肉の味と、食感。ここまで来て、ようやくわかってしまった。認めてしまった。私は彼女を、エンジェルを食べてしまったのだと。

 守ろうと思っていた少女を守れず、殺され、食べさせられた。知らなかったでは済まされない。もう取り返しはつかない。


 抵抗をやめて、完全に受け入れる。自分も、救いようのないケダモノだということを。自分に向けられる、善意を。拘束を解かれ、膝をつく。

 悪魔の片方が私の顎を持ち上げ、瞳を合わせる。深淵のような青。深みの果てにある彼女だが、今ならば手が届く。私も今は、同じ深みに居るのだから。

「きれいな目だわ……その目が見たかったの」

「抉り出して飾ってみるかい?」

「じゃあそうしましょう。きっと素敵なオブジェになるわ」

 フィッシュの方へ目線を外した一瞬に、眼球を動かす。輪郭のない世界では色しか見えないが、美しく輝く銀色が手元に転がっていた。焦点を合わせれば、それはナイフ。さっきまで食事に使っていた物。テーブルを蹴り上げた際に、ここまで飛んできたのか。

 ……私は、ちっぽけな人間だ。少女一人すら守り切れない。そんな私が、世界や、島一つなんて巨大なものをどうにかできるわけがない。

 だが、人間を一人や二人なら。

「震えてる……怖いのかしら?」

 私の目を抉り出そうと、スプーンの先端が眼球に触れて、止まる。私の反応を見て、楽しもうというのか。

 馬鹿な。

「……自分が怖いよ」

 銀が走り、赤が踊る。エンジェルとの約束を、まるでなかったかのように、殺意を抱き、それに従って人を殺した私が怖い。

 約束を容易にないがしろにできるほど、私にとって彼女の存在は軽かったのだろうか。そんなはずはない。彼女は紛れもなく、私にとって偉大な支えであった。

 だが、約束を破れば普通は罪悪感が胸を傷つけるはず。なのに、私の胸を満たすのは罪悪感ではなく爽快感。最初からこうすればよかったと思うほどだ。

「ようこそ、こちら側へ」

 血のあぶくを吐きながら。赤い血が噴き出す首を抑えながらもがく悪魔を小石同然に蹴り飛ばし、笑顔のフィッシュにこちらも笑顔を返す。

 赤く染まった銀のナイフ。それを握ったまま、彼に歩み寄る。フィッシュは逃げない。先ほど片割れが目の前で殺されたというのに、まったく意に介していない。

「さようなら。フィッシュ」

 さっきと同じように、首を横一文字に切開する。抵抗することはなく、ただされるがままを受け入れて、フィッシュも倒れる。

『ありがとう』

 彼が最後に動かした口の形は、そう言っていたような気がする。そんな彼の死に顔は、やはり笑顔。快楽に染まり切った、邪な。しかし、子供のように純粋な。

「ふっ、ふふふ……」

 二人の人間を殺して、気分は極上。笑いすらこみ上げる。私を苦しめる邪悪を、自らの手で討ち滅ぼしたのだから、悪いはずがない。最高すぎてくるってしまっている。あれほど遠ざけようとしていた死が、今はあまりに心地よい。


 二人分の血で汚れたナイフを、自分の首に押し当てる。生ぬるく、鈍いような銀のナイフ。

 このまま死ねば、彼女に会えるだろうか。いいや、天使は天国にしかいない。私が行くのは地獄なのだから、会えるはずがない。

 それでもいいか、と手を引いた。

 私から命が抜けていく。首を滴る赤い血は、既に斃れた二人の悪魔の命と混ざり、溶ける。肺に血が流れ込んで溺れ、息ができない……その中でナイフを手の中で回し、逆手に持ち替えて、心臓を一突き。猛烈な痛みは、肺に入った血を吐きだしてしまうほど。できるだけ早く死ねるよう刺したら抜いて、床に倒れた。

 三人分の血の池に全身を浸し、心地よい死に、解放に手を伸ばす。崩れていく世界の中で最後に見たエンジェルは、私の罪を赦すかのように、優しく、美しく、微笑んでいた。

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