4th day

朝起きて、先に起きていたエンジェルに朝の挨拶をする。

「おはよう」

「おはよう。遅いわね」

「これでも早いほうだ」

 外の生活を思い出せば、早い方。軽いやり取りの後に、洗面台へ。顔を洗って、歯を磨いて、髭を剃って。あとは服を着替えてから髪の毛をセットして。十分ほどで、私の準備は終わり。一度部屋の外に出て、エンジェルの着替えを待つ。待った時間は五分ほどか。持ちだした本を一ページ読み終わるか、終わらないかのところで、彼女も出てきた。

「じゃあ、行こうか」

「ええ」

 昨日、一昨日と同じように、触れ合うこともなく、無言で廊下を歩いていく。途中で何体かのアンドロイドとすれ違った所まで、これまでと同じだ。

 そして、何事も無く食堂まで辿り着いた。扉を開いて中へ入ると、食欲をそそる香りが鼻についた。

「おはよう」

 奥へ進もうとすると、顔に包帯を巻いた男に前を塞がれ、挨拶された。吐息からは少し鉄、血の臭がする。不快な臭いから離れようと、一歩下がろうとするが、エンジェルが居て下がれない。いつの間にか私の後ろに隠れていた。

「昨日の夜はすまなかった」

 そして唐突に謝罪された。何か謝罪されるような事をされただろうかと考え、すぐに昨日のことを思い出した。もしや、この男、あの血まみれの獣と同一人物か。なら吐息に血の臭いが混じっているのも頷ける。人の肉を貪り食えば、口から血の匂いもするだろう。それに顔に包帯を巻いているのは、私が殴ったせいで鼻でも折れたか。口にも血が流れ込んで、その臭いも息に出ているのだろう。

「いや、こっちこそ。殴って悪かった」

 心にもない謝罪。微塵も悪いなんて思ってない、あれは正当防衛だ。悪いと思う必要もない。

「いいんだ。ありゃ俺が悪いしな。昨日はつい薬を飲むのを忘れててなぁ。でも今は薬が効いてるから安心してくれ。あと、俺はリチャードっていうんだ。順序がおかしいが、まあよろしく頼む」

「……そうか。ジョン・ドゥだ」

 安心してくれと言われても、昨日の恐怖を思い出すと安心などできるはずがない。人間嫌な記憶ほど印象強く残るものだし、おまけに他人への評価のほとんどは第一印象で決まる。あれほど最悪な初対面で、気を張るなという方が無理な話だ。

 エンジェルも珍しく私の後ろに隠れて出てこないし。少女らしい一面もあるものだ、と一瞬思ったが、どうせこれもプログラムされた動きなのだろう。

「昨日の今日だからな。忘れて仲良くってのはちょっと無理だ」

「ああ、そうだよなぁ。とりあえず謝っときたかっただけなんだ。許してくれとは言わん。邪魔をしたな、ゆっくり飯を食うといい」

 言われなくとも、最初からそのつもりだった。本当に邪魔をしてくれた。まだ礼儀があるからフィッシュほどではないが、朝から不快な気分にさせてくれた。これでフィッシュも居れば、最悪を通り越す気分で朝食を取ることになっていただろうが、幸い奴の菅アハ見当たらない。いい事だ。

 食堂を見渡して、空いている席を探す。なるべく他の連中とは離れたところを。どこに座るかを決めたら、先に朝食のメニューを選んでおく。

 昨日、一昨日と同じように並べられた多彩なメニュー。その中から私が選んだのは、四枚切りのパン二枚。スクランブルエッグ。鮮やかな緑色をしたレタス。それからコーンスープと、コーヒー。パンにはバターが使われているだろうが、そこまで気にしていては何も食べられなくなる。肉を食うよりはマシだし、多くの人間が母乳を飲んで育っているのだ。生産過程にさえ目を瞑れば、幼少の頃に食った物をまた別の形で食っているだけだ。おかしくはあるが、まだ異常という程ではない。

「エンジェルは何が居る」

「自分の文は自分で取るわ」

 とは言うが、この前は私の焼いたトーストを横から取っていったではないか。なんてことは口には出さずに、選んだメニューを必要な分だけさらに載せていく。

 新鮮そうなレタス。柔らかなスクランブルエッグ。湯気を立てるコーンスープとコーヒー。全部をトレーに乗せて運び、席について、トースターにパンを放り込み、焼き時間を三分にセット。遅れてエンジェルが席につき、朝食を広げる。私はパンが焼けるまでは熱々のコーヒーをゆっくり楽しむことにする。相変わらずコーヒーだけは妙に美味い。細かい味はわからないが、ともかく私の好みだ。

 エンジェルが飲んでいるのは、紅茶。香りからしてダージリンか。無難な所だ。

 二人で向かい合い、無言でお互いの飲み物を飲む。静かだ。半分ほどコーヒーを飲んだところで、丁度三分。チンッとベルの音が沈黙を破った。飛び出たパンをつまみ、皿に乗せて、レタスと卵を乗せ。ドレッシングをかけて、半分に折る。簡単なサンドイッチのできあがり。焼けたもう一枚は、やはりエンジェルが取って、バターを塗って食べ始める。

 さて、今日も一日、心が壊れないよう気をしっかり持って仕事をしよう。



朝食後、前日二日間と同じようにフィッシュから今日の予定が言い渡された。リチャードを殴ったことについては何も言及がなく、こちらから話を振っても「気にするな」の一言で済まされた。

 それで、今日の予定についてだが、なんと今日は休みだそうだ。客に迷惑のかからない程度に、一日好きに過ごせと。急に自由な時間を与えられても、何をスレばいいのやら。

「……本を読んで、映画見て、寝て、でいいか」

 一人で過ごすなら、それでもいい。外での生活はいつもそんな感じだった。しかし、チラリと隣に佇むエンジェルを見る。私一人ならそれでもいいが、彼女はどうなのだろう。私が仕事をしている間は、ずっとそうやって過ごしていたのだろうし。きっと飽きるだろう。かといって外に連れ出すのはどうなのか。危険ではないのだろうか。

「エンジェルは?」

「外は危ないでしょう? 中でいいわ。今までどおり、本を読んで時間を潰すわ」

 一歩も外に出ない。不健康な生活だ。しかし安全を考えればそれが一番いい。不用意に外に出られて、殺されてしまっては私も死ぬしかなくなる。私が一緒にいても、何かあった時に守りきれるかどうかわからない。昨日のように、うまく脅威を排除できるとは限らないし。

「じゃあ、今日は部屋でゆっくりするか」

 休日。数少ない、心の休まる時間。それが一日もあるというのだ。これほど嬉しい事もない。しかし、エンジェルは本当にそれでいいのか。

「客には、他人の物に手を出すなというルールを徹底さあせてある。安心したまえ」

「……だそうだ」

 フィッシュからのありがたい言葉に、嫌気を感じながらエンジェルに問う。本当に外に出なくていいのかと。

「本当かしら」

「まさか私が嘘をつくとでも思っているのかね。心外だよ」

「……確かに、こいつは嘘をついたことはない。今のところはな」

 しかしこいつの言葉を信じようにも、つい昨日リチャードに襲われたことを思い出すと、どうも考えるものが有る。客は襲わなくても、従業員に襲われる可能性もあるだろう。

 だがエンジェルに我慢を強いるのは、私の良心が痛む。彼女から人格を奪っておいて、さらに我慢という名の苦痛を押し付けるのかと。安全なら、私が守ってやれば済む話ではないか、と。現に昨日は守ってやれたではないか。いやそれは偶然に過ぎない。訓練された人間を基準にしたデータで肉体を動かせば、それに追いつかない肉体が壊れてしまう。軽自動車に無理やりハイエンドなスポーツ車の動きをさせるようなものだ。何度も使えないし、それを使うための心構えもない。もしうっかりプログラムを使って殺してしまうなんてことがあれば、私は正気で居られない。守るためとはいえ、人を自分の手で殺して、正気では居られない。

「一応ボディガードがいるから大丈夫かしら。頼りないけど」

 ……頼りない。その一言が突き刺さる。そうだ、私はこれほど心が弱い。事実、否定のしようがないほどその通りなのだ。

「不安なら銃でも貸し出すよ」

「いらないわ。私でも、彼でもうっかり殺してしまったら、彼が死んでしまうから。そして用無しになった私は、皆の夕食になってしまうでしょう?」

「そうだね。彼の給与として君を活かしているのだから、彼が居なくなったらそうなるのが道理だ」

 二人の会話はそっちのけで、一人で思考の渦に沈む。誰かを守るために人を殺す。法律で考えてみよう。誰か……私の場合、該当し得るのはエンジェル……が暴漢に襲われて、その誰かが自力でその脅威を排除できない。そして自分に脅威を排除する武力が有り、それを行使した結果、脅威が死亡した。その場合、正当防衛、緊急避難が認められ、刑が免除または軽減される。法律的には許されることだ。しかし、許されたとしても私はきっと自分の良心に苦しめられることになる。

 ただでさえ張り詰めて、今にも切れそうな糸に、そこへさらに負荷が加われば、その瞬間に糸は切れて、心は地獄の底へと落ちてしまう。体も心も地獄に落ちれば、私の私という人格は死に、偽物のジョン・ドゥが渡しになる。

「ところで、銃があるって言ったけど。客を撃ってもいいの?」

「従業員と言っても。元死刑囚と言っても、この島では普通の人間と同じように、人権を有する」

 ピクリ、と人権という言葉に反応する。

「ならエンジェルは」

 彼女に人権はないのかと。

「彼女は従業員じゃない。君の所有物。人ではなく、モノだよ」

「彼女も、人格の有る人間だ」

「違う。彼女の人格は私が作った。外で売られているセクサロイドと……あれほど安っぽい代物ではないが……似たような物だ。違いはハードウェアが有機物か、無機物かだよ」

「違う」

「違うというのなら、尋ねようか。機械で人間の思考を再現できる今、人間を人間たらしめるものはなんだい?」

 予想外の鉄ガキ的な質問に、言葉が詰まる。どう返せばいいのか。返事が頭に浮かんでは、これではない。ああでもない。私も相手も納得出来ないと、言葉になる前に消えていく。言葉にすらならないうめき声を上げて抗議しても、それはフィッシュには届かない。

「私の答えは、人として生まれたかどうか、だ。彼女らは家畜として生まれ、家畜として育って、家畜としての役割を果たしている。だから、人間じゃない」

「じゃあ、人として生まれたロボットは人間なのか」

 苦し紛れに、論点をすり替えて反撃する。ロボットが人間として生まれるなど有り得ない。

「肯定だよ。人と同じ質感の皮膚でコーティングして、人としてコミュニケーション取れ、他人にそうと気付かれなければ、それは人と呼んでも差し支えない」

「狂ってる」

「正常とは、多数派のことだ。この島では君のような考えの人間は君一人。つまり、おかしいのは君の方さ」

「決めるのは私だ。お前じゃない」

 私はまだ狂っていない。正常と呼ぶには少々逸脱しているが、越えてはいけない一線は越えず、その手前で踏みとどまっている。

「……盛り上がっている所悪いけれど、話が脱線してるわよ。結局渡しは、外を出歩いてもいいのかしら」

「問題ないよ。彼がついていれば、客に手を出されることはない。従業員も、まあ多分大丈夫だろう。薬の摂取を厳命してある」

「じゃあいいわ。行くわよジョン」

 袖を引っ張られて廊下へと引きずり出される。彼女はそれほど外に出たいようには見えなかったが。一体どうしたのだろうか、と思っていると、人が居ないところまで来て立ち止まり、こちらを振り向いた。小さな体で私を見上げ、細い指を私の目に向けて、強い口調で話しだす。

「頭のおかしい人間と自分を見比べて、正気を保とうとするのはやめなさい。ニーチェの言葉を知っているかしら」

「……名前だけは聞いたことがあるが、言葉までは」

 時折、本の中に名前が出てくるから、名前だけは知っている。名前だけは。何を言ったのかは知らない。

「今のあなたの状況にぴったりな言葉よ。よく聞きなさい」

 それから一つ息を吸い込んで、口を開いた。

「怪物と戦うものは、その過程で自分自身も怪物にならないよう気をつけなくてはならない。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ」

 その言葉を聞いた瞬間に、今までの記憶がフラッシュバックした。私が彼らを見ている時、彼らも私を見ていたか? 確かに、見られていた。私が彼らを遠ざけようとするほどに、強く意識してしまっている。知らずの内に、影響されている。

「あなた、自分が変わって来てるってことは自覚している?」

「……ああ、自覚してる」

「いいわ。その感覚は大事にしなさい。自覚できなくなったら手遅れよ」

 その時は、私があちら側に落ちた時だ。



 突然に言い渡された休日。エンジェルの要求にしたがって外に出ることになったが、どこへ行くかまでは決めていないし、私自身もどこか行きたいところもない。それでもどこかへ行くのは決まっている。どこへ行くかは、これから決める。

 建物の外に出て、島の略図が書かれた案内板を見上げる。昨日散策したのはビーチ沿いの道。普通のデートに選ぶならまず候補に上がるであろう場所だが、一緒に歩く相手との関係は恋人ではなく、加害者と被害者。さらに言うと、つい昨日暴漢……否、暴女に襲われ首を締められた場所でもあるので、寄りたい場所ではない。

 他の施設は、空港。宿泊用のホテル。お楽しみ用のホテル。レストラン。病院。ちょっとした森林のある公園。

 空港。空港か。客の飛行機が停められてたな。行って、ハイジャックして島から逃げるようか……どうせすぐに撃墜されるだろうし、そもそもたどり着けるかどうかも怪しい。やめておこう。ホテルには用事もないし、ビーチと同じように寄りたくもない。何が悲しくて毒の沼に飛び込まなければならないのかと。

 レストラン。仕事でなければ、ホテルと同じように寄りたくはない。

 病院は……メンタルケアのできる人間、この際アンドロイドでもいい。が居ればすぐにでも飛び込みたいのだが、この島に精神科医なんて必要ないだろう。どいつもこいつも診察するには手遅れだ。むしろ医者が倒れる。

 となれば、残るは公園。地図の左上に描かれた円形のスペース。今日はそこで過ごそうか。見た限りでは、ちょっとした森林も併設されているようだし。人工だろうと自然の中でゆっくり過ごすのは、なかなか良い心の癒しになる。空中庭園なども人工の自然だが、それでも気分はかなり落ち着く。

「公園でいいか?」

 私が勝手に決めた目的地をエンジェルに伝える。嫌なら他の場所を提案してくれるだろう。

「悪くないけど。海はどうなの」

「お客様が水着で戯れてる」

「……やめときましょう」

 それが懸命だ。森にも人は居るかもしれないが、きっと海よりは少ないだろう。遊ぶなら森よりも海。私の勝手なイメージだが、二択でどちらがいいかとアンケートをすれば、海を選ぶ人のほうが多いだろう。

 なら、人が少ない方を選んだほうが、頭のおかしい奴らと接する可能性は低い。彼らの近くに居る時間が短ければ、それだけ正気でいられる時間が伸びる。

 彼らは猛毒。触れるだけで身を侵す。しかも吐息にまで微弱な毒が含まれるから、そばにいるだけで害がある。

 森林浴は、溜まった毒気を抜くのにちょうどいいだろうと思っての選択でもある。

「行こう」

「ええ。行きましょう」

 公園までの道のりは頭に入れてある。広い島だが、外の都市部の駅よりは構造が簡単だ。まず迷うことはない。


 言葉を交わすこともなく場所を移り、特に何事も無く公園の入口に到着した。目の前に広がるグラウンドには四百メートルトラックの線が引かれているが、そこには誰も走っていない。ただ、人が居ないかと言うとそうでもなく。客が一人、隅っこのベンチで裸の商品を自分の上に座らせ、野外で交尾を披露していた。私の視線に気付くと、興奮したのかまるで見せつけるように身体の動きを激しくし始めた。商品の喘ぎ声もまた激しくなり、獣の声が晴天に響き渡る。

 お楽しみのためのホテルがあるのだから、そこですればいいものを。わざわざ外でするなんて。

「まるで獣ね」

「まるで獣だ」

二人して全く同じタイミングで、全く同じ思いを吐き出す。珍しく意見が合い、僅かな共感を覚えるが、それは一時の事。あえてそう設定されているのだろうが、彼女と私の思考は根本的に異なる。

しかし、獣か。まるで、という表現は正しくない。客と、商品。そのどちらも、その有り様はまさしく獣。ケダモノだ。



 森の中に有る道に沿い、深くへ潜る。五分ほど歩けば、ほんの小さな。具体的には五メートル四方ほどの広場があった。その真中に、丁度屋根付きの木製ベンチが一つ置かれていて、そこで一旦休憩を取ることにした。私が一端に座り、その反対の端にエンジェルが腰掛ける。

 一つ、深呼吸。強張っていた身体から、吐息と一緒に気が抜けていく。緊張した筋肉が解れていくのが、なんとなくわかる。

「……」

 人が居ない。たったそれだけの事で、ここまで気が緩む。目を閉じてもう一度息を吸って、吐く。鳥の囀りと羽音、木の葉がこすれる音が鼓膜をくすぐる。不思議な心地よさに身体を抱かれ、眠ってしまいそうになる。

「人工の自然で落ち着けるのね」

 意識が落ちそうになったところへ、エンジェルの一言で目を開く。沈みかけた身体が、水面に浮き上がる。

「外でも、本物の自然の方が珍しい」

 外の世界を思い返せば、何百年単位で育ったような自然は、今や写真か保護されている地帯でしか見ることはない。どこも開発が進み、田舎にさえビルが並び立つ有様。

 まあ、そこら辺は置いておこう。私が生活していて触れるような自然は、せいぜいが街路樹か、ビルの空中庭園位。だからこういう人工的な物でも満足できる。

 例え、聞こえてくる鳥のさえずりや羽音が、スピーカーから垂れ流される偽物だとしても。鳥どころか虫一匹さえ居ない空間だとしても、形だけでも整っていれば私にとっては十分。

「そうなの?」

 首を縦に振り、質問を肯定する。

「じゃあ、君にとってはどうなんだ」

 彼女はこれ以外の、島の外の、本物の自然を知らないはずだ。知識としてインプットされている可能性はあるが、実際に見る経験はこれがはじめてのはず。その始めてが、偽物。鳥の雛が最初に見た動くものを親と信じるように、彼女もこれが本物だと信じるのだろうか。

「私にはこれだけよ。これまでも、これからも」

 返ってきたのは、本物も偽物もないという中身。確かに、彼女はこれから先、本物の自然を見ることは有り得ない。同様に、私も。本物の自然を見るためには、本物の自然を見せるためには、この島から逃れなければならない。しかし、どのような手段を用いたとしても、脱出は不可能。本物の自然を見ることも、見せることも、同様に。

「すまない」

 彼女にした、諸々の犯罪行為も含めて謝罪する。そういえば、これは彼女への最初の謝罪ではないか。あまりにも遅すぎる。そして、あまりにも心がこもっていない。目も合わせず、ただ横に居る彼女に向けて吐き出すなど。

「謝る必要はないわ。気にしてないもの」

「それでも謝らせてくれ。すまない」

 彼女は意図に気付かず困惑しているようだが、今度は目を合わせて、もう一度謝っておく。

「……あなたは私に謝って、私に何を許してほしいの?」

「許してほしいわけじゃない」

「謝罪は相手に許しを求める行為でしょう? ならどうして謝ったの」

「自分へのケジメ。とでも言えばいいのか……そもそも許してもらえるとは思ってない」

 今まで思っていたことを、声に出して伝えておく。すると、何か胸が軽くなったような気がした。悪いものは、ずっと抱え込んでおくよりも、吐き出した方が心が楽になる。ずっと昔、誰かが言っていた通りだ。

「もちろん許さないわよ」

 やはり、許してもらえないようだ。ああは言ったが、僅かに期待していたのだが。

「あなたがこの島に来なければ、私は心を持つこともなく、いずれ他の子と同じように消費されていたはず。今みたいに死を恐れることも無かったし、窮屈な部屋に押し込められて、退屈な時間を過ごす事も無かった。中途半端な倫理観や良心で助けられるくらいなら、いっそ見殺しにしてくれたほうがまだ良かったわ」

 ……私が謝罪したのが始めてなように、彼女も始めて死ぬのが怖いと口にした。今までの他人への態度から、死ぬ事が怖くないのかと思っていたら、そうではないらしい。

「すまない。私のエゴで生かしてしまって」

「いいのよ気にしなくて。あなたのおかげで私という人格はあるんだし」

 彼女の人格の存在自体が罪なのだから、許してはもらえない。

「償いたいなら、できるだけ長く生きなさい」

 その罪に対する罰は、苦しみ続ける事。正気で居続ける事。いっそ死刑にしてくれた方がまだ楽な、厳しい罰だった。


 二人で静かに森林浴を楽し……楽しむという表現が正しいかはともかく……ただ何もせず、何も考えず、何も話さず。ひたすら変わることのない目の前の景色を眺め続けて、どのくらい時間が経つだろう。

 なんとなく影を見下ろせば、傘のちょうど真下近く。ということはもう昼か。どうりで少し腹が減ってきたわけだ。

「エンジェル」

 下を向いたまま声をかける。

「……」

 返事がない。頭を持ち上げて首をひねり、隣りに座る少女を視界に入れる。こくり、こくりと船を漕いで、小さな寝息を立てていた。この情景だけを切り取れば、歳相応の普通の少女のようにも見える。名前の通り天使のような可愛らしさだ。起こすのは憚られる。

 しかし、それとは関係なしに腹は減る。飯を食いに行くにも、彼女を一人置いていくわけにはいかない。二人の仲がもう少し健全なものであれば、背負って行くという選択肢もあったのだが、彼女は私のことをひどく嫌っている。私に触れられれば、強く嫌がるに違いない。気持よく眠っている所を起こされるのも不愉快だろうが……嫌がるとわかっていることをするのは心苦しいが、仕方がないのだ。もう一度、少し大きめの声で名前を呼ぶ。

「エンジェル、起きろ」

「……何」

 片目を薄く開き、その向こうにある青い瞳で私を覗く。やはり気分を害したか、声には少しどころではないトゲを感じる。

「そろそろ昼食だ」

「はぁ……そういう事。じゃ、戻りましょうか」

 欠伸を一つして、ベンチから跳ねるようにして立った。私も釣られて、どっこいせと掛け声を上げて膝に力を入れる。

 それほどの歳ではないはずなのに、どうも身体が重い。どうも、ここに来てから心が一気に老けこんだらしい。

「先に行くわよ」

 私より先に歩き始めたエンジェルの背を追って、私も道を進む。彼女に合わせて早足で。

 それから数分経たず、公園に出た。ここに来た時に盛っていた客と商品の姿はなく、彼らの座っていたベンチには血痕だけが残っていた。一瞬だけ目を取られたが、この島でそんなものは一々気にしていられない。無視して元来た道を辿る。


「昼は何だろうな」

「楽しみなの?」

「まさか。肉以外で、腹が満たせるメニューがあればいいんだけどな」

「どうかしらね」

 もし肉ばかりのメニューなら、最悪パンとコーヒーだけで済ませてもいいだろう。一度や二度不摂生したところで身体を壊したりはしない。

 しかし、心は一度や二度の不摂生で簡単に壊れてしまう。一度衝撃を受けて罅が入ってしまったが、それでもギリギリ耐えている。ただ、二度目はもう耐えられない。だから肉は避けていく。


 またしばらく。腹の虫がやかましく主張し始めた頃に、食堂へ辿り着いた。そこには既に見慣れた顔が何人も居り、それぞれが違うメニューの食事を摂っていた。その中には魚料理もあったので、これはいいと、私も同じものを食べようと決めた。

 まずは手を洗ってから皿を取り、バイキング形式に並べられたメニューを眺めていく。

 イタリアン、フレンチ、中華、和食とあるが、今日は中華を選ぶ。衣をつけて揚げた魚に、何種類かの具が入った餡をかけた料理。あとは、ライスとサラダ。適当な量を取ってテーブルに置いてから、コーヒーを淹れる。そして中華にコーヒーはミスマッチだと気付いて後悔。淹れてしまったものは仕方がないので、それとは別に水を二人分入れてテーブルに運ぶ。コーヒーは食後に、冷めてから飲むことにする。

 エンジェルは先に席について、私と同じ料理を食べ始めていた。彼女の正面に座り、水で口を湿らせてから料理に箸をつける。

衣が餡の水気を吸ってふやけているが、それは味が染みているということ。身も火が通り過ぎず、柔らか。口に運んで咀嚼する。餡がからんだ衣と、ふっくらとした身が混ざり合い、美味。これを外のレストランで食べようと思ったら、一体いくら掛かるか。

 無言で箸を勧める。内臓は抜かれているので、骨とヒレだけを避けて食べていく。舌休めに適度にライスとサラダも口にして、量を減らす。どれも美味しい。どう美味しいかは、食通ではないのであまり詳し語れないが。

 ひたすら咀嚼と嚥下を繰り返して、皿の上に乗っている物が骨とヒレだけになったところで箸を置く。ライスも一粒残さず、サラダも破片一つ残さず。水で後味を洗い流し、そこへ冷めたコーヒーを注ぐ。

 ほのかに残った魚の香りも、コーヒーのそれでかき消された。余韻も何もありはしない。



 昼食後、これから一体何をしようかと思い、エンジェルと食堂の一角を占拠して考えていた。そこへ肉料理を皿に山盛りにしたフィッシュが現れた。奴は私達を見つけると、ニンマリという擬音がよく似合う、吐き気がするような笑みを浮かべて私達の座るテーブルにやってきた。

「ここに座っても構わないかな」

「駄目だ。他にも座る場所はあるだろう」

 他の連中はもう飯を食い終わって、自分のやるべき事、社会的にはやるべきではない事をやりに行った。おかげで食堂はガラガラ、座る席などいくらでもあるので、そこに座るように促す。

「じゃあ座らせてもらうよ」

 しかしその返事は無視され、許可を出していないのに私達の前に座られた。これではまるで質問の意味が無い。そして見せつけるように肉を食らう。一体何なのだこいつは、私を不快な気分にさせてそんなに楽しいのだろうか。楽しいのだろう、私が狂うのを今か今かと楽しみに待っているような屑だ。私が不快に成ればなるほど、こいつは楽しむに違いない。

 フィッシュのニヤついた顔に、テーブルの下で握っている拳を叩き込みたくなるのを必死で我慢……するのも辛いので、この場所から離れようと思い立ち上がる。

「部屋に戻ろう」

「あなたにしては珍しく良い提案ね。そうしましょう」

 私に釣られ、エンジェルも。二人でフィッシュの居るテーブルから離れる。

「午後二時に健康診断を実施する。二人でまたここに来なさい。拒否しても迎えに行くよ」

「……了解」

 午後の予定がこれで決まった。非常に、嫌な予定だが。



 それから、少しだけ部屋で過ごしてまた食堂へ戻ってきた。もう何人かはアンドロイドの指示に従って列を作り、自分の番が来るのを待っている。暇なのか、アンドロイドに話しかけたりもしている。聞いていれば返答は低品質AI特有のテンプレートなものばかりで、やはり暇そうだ。新しい話し相手に私を見つけ、寄ってくる。関わりたくないので無視していると、彼の番がやって来てカーテンの向こうへ消えた。

 さらに、しばらく待つ。私と、エンジェルの番が来た。呼ばれるままに、二人でカーテンで仕切られた入り口をくぐり抜けて中へ入る。その中には、フィッシュと、アンドロイドが一体。

「医者はどこだ?」

「医者の代わりに、私が居るじゃないか。下手な医者よりは人間の体に詳しいから、安心したまえ。それにどうせ、今日するのは免許のいらない物ばかりだ」

 あまりにも笑えない冗談に、頬が引きつって背筋に汗が伝う。猟奇殺人鬼に体を診られる。そう考えるだけで、あまりの恐ろしさに身体が震えだす。それにこいつはどちらかと言うと、健康を守るというよりは跡形もなく破壊する側の人間だ。現に私の心の健康は木っ端微塵に打ち壊され、今は接着剤で固めてダクトテープで巻き、かろうじて形を留めている状態。マトモな医者に診てもらったら、間違いなく休養を勧められるに違いない。

 そんな私の心中を知る事もなく、フィッシュは淡々と診療の用意を始める。

「上半身裸になってくれ」

 ここまで来てしまった物は仕方がないので、本当に仕方なく服を脱ぎ、肌を晒す。冷房のきいた、少し冷たい空気が体を撫でる。全身が一度震えたのは、冷えか恐怖か。おそらく後者。

「アウトローだった訳ではないのだね。傷が一つもない、綺麗な体だ」

「ふざけてないで、真面目に診ろ」

 聴診器が右胸に当てられる。

「息を吸って、吐いて。吸って、吐いて」

 何度か位置をずらして音を聞かれ、今度は後ろを向くように指示される。全く無防備な背中を向けるのは嫌だったが、今はエンジェルも居る。変なことをしようとすれば、止めてくれるだろうと思って従う。

「異常なし。血圧を測るから、腕を出してくれ」

 また前を向くと測定用の機械を腕に巻かれ、空気が入り圧迫される。腕に神経が集中して、圧迫感もだが、拍動も強く感じる。脈は少し早いような気がする。

「上が196の、下が114。脈は83。緊張しているのかな? それとも何かしら持病でもあるのか」

 間違いなく緊張だろう。一体誰が殺人鬼に体を触れられて、平常心で居られるものか。

「持病はない。健康そのものだ」

「なら結構。機械を渡すから、後で部屋で測って夕食の時にでも記録と一緒に返してくれ。あとは身長と体重を測って、いくつか質問をしてお終いだ。そこに立って」

 測定器に背すじを伸ばして立ち、数秒。すぐに結果が出た。身長は以前測った時と変わらず、体重はニキロほど減った。きっとストレスのせいだろう。

「今まで大きな病気で治療したことは。あと服用中の薬とかは」

「無い」

「睡眠はしっかり取れているか?」

「嫌な夢を見る程度だ」

「受け答えも問題なし。健康なようだね。お疲れさま。君の番はお終いだ」

 脱いだ服を着なおして、席を立つ。

「次はエンジェル、君だ」

「ついこの前までタグを付けて監視、管理されてたのに、今更必要なのかしら?」

「経過観察といったところだよ。さあ、座って、服を脱ぎなさい」

「……わかったわ」

 エンジェルは顔に出る嫌悪感を隠そうともせず、声にも出して、それでもフィッシュの前に座った。殺人鬼の手の届く所に彼女を置くのは非常に不安なので、フィッシュの動きを指先に至るまで監視する。

「検診以外は何もしないよ。安心しなさい」

「殺人鬼が言っても説得力は皆無ね」

 全くその通りだ。だからこうして監視の目を向けている。

「……」

 一度こちらを振り返り、ため息を付いて服のボタンに手をかけ、上着を脱いだエンジェル。それからシャツの裾に手をかけて、動きが止まる。一度深く息を吸い、肩が上下した。

 瞬きする間に、ほとんど日に焼けていない、綿のように白い肌が顕になった。白い大地を金色の皮を流れるように、長く真っ直ぐな髪が背筋に落ちる。下着は必要ないからか付けておらず、首から肩にかけてのなだらかな曲線を隠すものはない。

 胸を指先でなぞられるようなくすぐったさと、首を絞められるような息苦しさを同時に味わう。手を伸ばしたい、触りたい、そんな衝動がふと湧いてきた。それに身を任せることはせず、胸に手を当て、深呼吸を何度か。拍動は落ち着き、息苦しさも少しずつ収まる。なんとか理性が勝った。

 しかし、思考では理性が勝っても体はそうはいかないらしく、上着を膝にかけて少し前かがみになる。これは仕方がない事だ……刺激されたら反応するのが肉体だ。

「触れられた痕すらない。君は紳士なのだね」

「私が紳士なら、外じゃ大半の男が紳士になるな」

 私にもっと語彙があれば、もっと洒落た皮肉を返せたのだが。小説家でも多読家でもない私にはこれで精一杯。

「褒めているのだから、素直に受け取り給え」

「じゃあ素直に言おう。シリアルキラーに褒められても全く嬉しくない」

 むしろ気分は下がる。

「そうかい」

 残念そうに返事をされたと思うと、エンジェルの座ったイスがぐるりと回り、彼女の体を正面から見せつけられた。ほんの僅かな時間、驚きに身体が固まり、瞬きすらも忘れ……気がついて、慌てて目を閉じ顔を背ける。それでも見てしまったものはしっかりとまぶたの裏に焼き付いて、消えない。

「紳士だが、紛れも無い男だ。我慢せずに手を出せばいい。甘い甘い果実が、手を伸ばせば届く所にあるのだよ。きっと美味しい。いや間違いなく美味しい! 私が丹精込めて育てた果実だ。美味しくないはずがない!」

「黙れ!」

 考えないようにしていたこと、見ないようにしていた部分をえぐり出され、本性を暴かれる。それを嫌がる私の脳は、防衛行動として声を張り上げる。動物の威嚇と同じ。客は獣で、私がしている行為も獣の物。客も、私も、根は同じくヒトという名の獣。

 それを認めたくないが故に、反論しようと目を開く。なんと、視界いっぱいに猟奇殺人犯の顔が。脊髄反射で頭突きをくれてやった。

「ぐっ! 痛いじゃないか……」

 鼻を押さえ、よろめきながら下がるフィッシュ。ざまあみろ、という思いとともに僅かな爽快感が胸に浮かんで、フィッシュの恍惚とした表情を見て裏返った。

「私の受けた苦痛の、何万分の一だ」

「もっとしてくれ」

「死ね変態!」

 息を荒げ、目に恐ろしい輝きを宿し、苦痛と悦の混ざった理解不能な表情を浮かべ、さらには瞳孔を開かせて詰め寄られたら、私でなくとも同じセリフを吐くだろう。触れたくもないが、それでも気持ち悪いので両手を使って押し返す。この男、歳の割に力が強い、押し返すにも、なかなか疲れる。

「人のご主人様に嫌がらせをしないでくれるかしら。変態さん」

 いつの間にか服を着直したエンジェルが文句を言うと、一瞬だけ彼の注意がそちらへ向く。その隙に頬を右手で殴り飛ばす。不安定な姿勢だったせいで力はあまり入らなかったが、うまく顎の先に当てられたのか、またふらついて尻餅をついてくれた。その間にエンジェルの手を引いて部屋から逃げ出す。

 しかし、この部屋から逃げたところで、島にいる限りはフィッシュの手のひらの上だ。島の中にいる限り、フィッシュから逃れることは出来ない。

 奴が本気で追うならば、私たちはまず逃げられない。本気でないことを祈るしか無い。



 私がいつもベッド代わりに使っているソファの端に深く腰掛ける。反対の端にはエンジェルが座り、クッションを抱いて足をぶらつかせながら、二人でコメディ映画を眺めている。映画と言っても、大物俳優の出ない、所謂B級映画というというもの。やはりそれらしい安っぽさはあるものの、それでもいかにして観客に娯楽を与えるかと練りに練った努力の跡がそこかしこに浮かんでいる。俳優のやや大げさな演技もまた。

 一時間半ほど見続けて、笑って、時折つまらない場面に欠伸を出しながら、いよいよクライマックス。主人公が思っている女性への告白シーンがやってきた。普段はだらしない、髭にぼさぼさの寝癖がいつも立っているような主人公が珍しく格好をつけている。髪をセットし、髭も剃って、糊のきいたタキシードにネクタイ、艶のある革靴を履き、胸には大きな花束を抱いて。これからの告白に緊張しているのか、やや口元は硬い。目当ての女性の後ろ姿を見てにやけ面になると一度大げさに顔を売り、崩れた髪を撫でて整えて、再び引き締まった表情で歩き出す。

 女性はまだ気づいていない。友達との楽しいお喋りに夢中になっているようだ。BGMに混ざって入る効果音、心拍の音は、二人の距離が一歩、また一歩と縮まるごとに早まり、彼女の後ろに立った時には400mを全力で走り切ったようなペースで心臓が波打っている。

 男が女の名前を呼ぶ。女が振り返る。

「私と結婚して下さい」

「ごめんなさい、黙ってたけど私レズビアンなの。でも気持ちはありがたくもらっとくわ」

 絶望が色濃く表情に出ている男性から花束を奪い取ると、さっきまで話していた友人らしき女性に渡した。二人の顔がアップで映るが、男性とは対照的になんとも幸福に満ち溢れた顔だ。

「私と結婚して」

「喜んで!」

 そして二人仲良く手を繋いで去っていく。前半にあった濃厚なベッドシーンは何だったのかと思うほど、衝撃的かつ急な展開に唖然としたまま固まる。取り残された男の顔にカメラが移った。人生のすべてを失い、この世を呪い、悲しみ、希望もなくして膝をついて泣きわめき、最終的にヤケになったのか笑い出した。そこへバラを咥えた男の友人が颯爽と登場し、男の方を抱いて慰め始める。

 この流れはもしや、と嫌な予想が浮かんだところで場面が変わる。喫茶店のベランダから、人であふれる境界に。その人々の視線の先には二組のカップルが。真っ白なタキシードに身を包んだ男が二人。同じく純白のウェディングドレスを来た女性が二人。それぞれが神父の言葉とともに、熱い口づけを交わしたところで盛大な拍手が鳴り響き、閉幕。画面が暗転してスタッフロールが流れる。

「まあまあ楽しめたわ」

 珍しく、笑顔だ。いや、珍しいどころか、今まで彼女の笑顔を見たことは無いような気がする。ひょっとすると、これが始めてではないだろうか。貴重な瞬間を残しておくために、資格情報をデジタル処理して、脳のチップに刻みこむ。一瞬で保存が終わり、何時でも思い出せるようになった。

「趣味に合ったようで何よりだ」

 彼女の本当の好みなのか、それとも植え付けられた好みなのかは考えないでおく。

「次は何を見る」

「あなたが観たくないものを」

 私が見たくないものか。外にいる間は、時に好き嫌いなく観ていたが……今見たくないものといえば、スプラッタ系の映画。こと最近の映画はCGの質が良く、恐ろしくリアルで、まるで目の前で本物の人体が破壊されているかと錯覚する程の出来の物ばかり。とは言っても、やはり本物の方が残虐。だからと言って見たいかと言われると、間違いなくNOだ。

「スプラッタ系だな」

 正直に答える。彼女がそれを見たいというのなら我慢して付き合おう。できる限り、彼女の要望には答えていく。それが私にできる、数少ない贖罪なのだし。

「それは私も見たくないわ。他にないのかしら」

 他に、と言われても。思いつくものは彼女も見たくないであろうものばかり。

「どうして私が嫌がるものを見たいんだ」

「それを見て、嫌がるあなたの顔が見たいのよ」

 やられた事への意趣返しとも取れる発言。私も随分と嫌われたものだ。それだけの事をしてしまったのだから、仕方ないと言えばそうなるが。

「他に見たくないものなんて、ポルノ位だぞ」

「モラルもなければデリカシーもないのね。最低だわ」

 蔑む視線と、罵る言葉。嘘はつくまいと正直に答えたのが仇になったらしい。

「そんなのは今更だ。おとなしくコメディを見よう」

「しょうがないわね」

 つまらなさそうな顔をして、渋々頷いてくれた。きっと面白い映画を見れば気分も直るだろう。そうであって欲しい。



 映画を見ている途中、部屋に設置されている古典的な置き電話が鳴り響いいた。エンジェルに一端映画を止めてもいいかを尋ね、許可をもらってからリモコンのスイッチを推す。映像と音声の両方が止まり、フィルムの中の時間が止まる。ソファーの上にリモコンを放り投げたらベッド脇の電話機まで歩き、受話器を取って耳障りなベルの音を消し、代わりに耳に当てた受話器から流れる声に意識を傾ける。

「もうすぐディナーの時間だよ。出ておいで」

 昼にも効いた不愉快な声。いや、声そのものは低く、歳相応に落ち着いていて、聞いた相手を落ち着かせ。それでいて慈愛も感じさせる、素晴らしいとしか形容できない美声だ。きっと奴の素性を知らない人間がオンライン放送などでそれを聞けば、十人中九人が声を売りにした職業につくことを勧めるだろう。そして顔も……テレビのコメンテーターに居そうなそこそこ整った顔つき。不愉快だが、見てくれは良いのだ。

 しかし、その内面を知れば、あの女優と同じくすべてが獲物を安心させ、引い寄せて食らうための疑似餌としか思えなくなる。実際にそうだった。私も奴への第一印象は、ただの大人しそうな老人にしか見えなかった。だが皮を一枚剥がせば、すべてが間逆に感じる。低い声は腹をすかせた肉食獣の唸り声。温厚そうなほほ笑みは、牙をむき出しにし、肉に食らいつく一秒前の顔。たった一枚の化けの皮を剥がすだけで、これほどまでに醜い真実が見えてしまう。私が今井家されているのは、単なる気まぐれ。人間特有の娯楽からである事を、今思い出す。

「わかった」

 不快で、恐ろしい。しかし飯を食わなければ人は死ぬ。ならば行くしか無い。了承の返事をして受話器を置く。もちろん壊れないように、そっと。

「夕飯だとさ」

「面白くなってきたところなのだけど」

 まrで子供のような物言いに、苦笑いとともに形容しがたい苦しみが胸にこみ上げて、引きつった笑顔になってしまう。この苦しみはきっと、彼女の人格が、あのケダモノの手によって作られたものというのを意識しているから起きるのだろう。意識しなければ楽なのに。

 どこにも粗の見つからない、完璧とも言える人間らしさ。これが作り物とは思えないし、信じたくもないが、事実だ。一枚の絵の書かれたキャンパスに白いペンキをぶちまけ、そのういぇに完璧な絵を書いた。おそらく、これ以上非道な行いは存在しないだろう。あったとしても、私の貧弱な想像力ではとても思いつかない。

 そしてその一端を、ほかならぬ私が持っている。言い逃れのしようがない、重大な犯罪行為。それが私を苦しめ、同時に救っているのだから、皮肉なことだ。

「どうしたの」

 こんな屑を心配して、私の罪が声をかける。胸の内の苦しみが増し、表情筋のコントロールがきかなくなり、完全に顔が崩れた。

「や……」

 やめてくれ。と言いかけた口を閉じる。彼女を拒絶してはいけない。私にその権利はない。彼女から全てを奪い、都合のいい偶像を押し付け、演じさせている私には。

「いや……なんでもない。ありがとう」

 崩れた表情筋を、なれた形に整える。何千回と繰り返し、形を筋肉が憶えているはずなのに、違和感がある。

 エンジェルの深海のような蒼い瞳に私の顔が映り込む。口角だけが釣り上がり、とても笑顔とは言えない。どうやら私は、笑顔の作り方まで忘れてしまったらしい。一度顔を背け、手でもみほぐし、いつもの何も考えてない、素の表情に戻す。

「……ならいいわ」

 異常に気付かれているのはわかる。しかし、あえて追求せず見て見ぬふりをしてくれる優しさ。それも設定されたもの。そうと考えるだけで吐き気がする。では考えないようにすればいいのではないか、と自問するが、頭のなかの私は即座に「それができれば苦労しない」と、自答した。

 しかし、少し話をしただけでこの有様。午前と午後の休憩は一体何だったのか。大火事に対してバケツ一杯の水程度のものでしか無かったのか。きっとそうなのだろう。

「何してるの。行くんじゃないの?」

 一人で思考の渦に飲まれていると、不意に意識を現実に引き上げられる。

 考えるのは良くないな。正気を削るばかりだ。しかし何も考えず歩いていれば、いずれ地雷を踏む。地雷を踏めば正気どころか命も一度に吹き飛ぶ……案外そのほうが楽かもしれないが、エンジェルを残して死ぬ訳にはいかない。

 考えるのも寿命を縮め、考えなくとも寿命は縮む。進むも退くも、立ち止まっても地獄だ。それでも時間は無慈悲に素数だけ。私の意志とは関係なく。

「そうだな」

 自分の意志で、部屋を出る。晩飯と言っても、肉さえ食わなければ問題ないはずだ。


 途中、何体かの清掃用アンドロイドとすれ違いながら食堂へ。今の気分を代弁するかのように重い扉を押し開き、中へと入る。本の数秒間、私とエンジェルに視線が集まり、すぐに興味が失せたのか各々好きなことをし始める。ルービックキューブをトキだしたり、本を呼んだり、ポルノ雑誌を眺めたり。どうやら料理はまだ来ていないらしいが、全く楽しみでない。果たして今夜のメニューはなんだろうか。魚料理なら問題ないのだが、肉料理ならサラダだけ食った後部屋に還ってからチョコレートを齧って飢えを凌がねばならない。

 一度視線を泳がせ、周囲にできるだけ人の居ない席を探す。この食堂はそこそこ広いが、コンサートホール程ではないのですぐに見つかった。目当ての席に着き、再び周りを観察する。

 目についたのは、食堂の中央に置かれた、これまた骨董品らしい柱時計。時間は短針と長針の指している時刻が正しければ、午後八時十五分。頭のなかの電波時計とずれはなし。どうやら正確なようだ。正確でなければどうしたというのか。逆に正確だからどうしたというのか。

 そんなのはどっちだっていいではないか、ズレていたとしても私に害があるわけではないのに。大体、時間が狂っているとしても、他の事だって何もかもが狂っているのだから今更だ。



夕食として出された魚料理を平らげてすぐ、寄ってこようとしたフィッシュから逃れるように部屋へと戻った。追ってはこなかったが、嫌悪と恐怖の混ざったわけのわからない色の感情に支配されて、ひたすら走って戻ってきたせいで少し苦しい。

 外では立ち仕事よりも座り仕事をしている方が長かった私には、ほんのわずかな距離であっても走れば汗をかき、息を荒げてへばってしまうほど体力がない。部屋に戻り次第真っ先にソファに体を投げ出すありさまだ。

「体力ないわね」

「外の大人は大体こんなものだ」

 私とは違い、エンジェルは涼しい顔で私を見下ろしながら言葉を放つ。見下すでも、軽蔑するでもなく、純粋にあきれたような視線と声が胸に刺さる。咄嗟に口から出た言い訳は適当なもので、私を勝手に平均値として定めた信憑性のかけらもないデータ。データとも呼べない何か。

 もしかすると私が特別体力がないのかもしれない。学生時代には運動部など糞くらえ、とまで思っていたほどだ。そんな学生が大人になって、体力がつくものか。否、つくわけがない。

「体力がないのはいいけど、シャワーくらい浴びなさい。汗臭い男と一緒の部屋で過ごすなんて不快不愉快きわまるわ。あなたと一緒に居るってだけでも嫌なのに」

 いつも通りの鋭い言葉に口元を緩める。正常な思考に触れていると安心できるから、だろうか。正常に見えてもどこかおかしいのかもしれないが。

「そうだな。そうしよう」

 心臓の鳴りも穏やかになり、息も整ったところで立ち上がる。少しだけふらついたが転びはしない。自分でもあきれてしまうほどに、深刻な体力のなさだ。

 脱衣所で服を脱ぎ、体温よりも高い温度の湯を頭から浴びる。体の奥に漂っていた何かが熱い湯に溶かされ、皮まで浮き上がり、毛穴から出てきたソレが熱い湯に打たれて流れ落ちていく。気分は、やはり冴えない。当然だ、シャワーを浴びたところで、問題は何一つとして解決しないのだから。その問題を解決する手段は私にはなく、問題は時間とともに増殖し、大きくなるばかり。抱えきれないほど大きくなったとき私は押し潰されるのだが、それを避ける道はない。

 ああ、まるで十三階段。あるいはグリーンマイルか。一分一秒ごとに絞首台、あるいは電気椅子が、音を立てて歩いて迎えに来ているような気分。外の世界ではそうなるのが妥当、当然、必然。そうなるべきではあるのだが、まだ死ぬわけにはいかない。死んではいけない理由がある……エンジェルだ。彼女を残して死ぬわけにはいかない……本当は、彼女を言い訳にして生きたいだけ。自分が死ぬのが怖いだけなのだが……

「はぁ……」

 自分の屑加減にため息をつく。多くの心が溶けた吐息はシャワーのざあざあという音に混ざり、部屋に漂う湯気に包まれて消えた。

 目を閉じて、息を吸って、吐く。それから動く。頭を洗い、体を洗い、髭を剃ってからシャワーで全身を流して、湯を止める。少しだけ、冷える。気分は多少ましになった、かもしれない。気分がよくなったと思い込めば、本当にそうなる。偽薬を使った対症療法とて馬鹿にはできないものだ。

 温まった体が冷える前にタオルで体の水気を拭き取り、ドライヤーで髪をしっかり乾かして。パンツとシャツ、いつもの寝衣を着て部屋に戻る。エンジェルは私の体を見て顔をしかめるが、ここ数日で見慣れたものだ。もう何とも思いはしない。

 そのまままっすぐソファへと進み、腰を落とす。やわらかいソファは自分の形に合わせて沈み込み、わずかな抱擁感を与えてくれる。安心感はないが。

「私もシャワーを浴びてくるわ。覗いたら刺すから」

「誰もそんなことはしない」

「昼間に人の裸を見て股座をいきり立たせてたのは誰かしら。説得力がまるでないわよ」

 事実を持ち上げられては否定のしようがない。

「レディがそう下品な言葉を使うもんじゃない」

「一体誰が気にするのかしら。品を持った人間なんてどにも居ないのに」

「私が気にする」

「じゃあ、私を女として認識してるのね」

 ただでさえ不快そうな顔が、これでもかという程に嫌悪の色にゆがむ。もともとが端正な顔つきなだけに、胸の苦しさも倍増だ。

「揚げ足取りはやめてくれ。キリがない。覗かないと言ったら覗かないから、早く入ってこい」

「そうするわ」

 長めのスカートを翻して、シャワー室へと入って、場たりと扉が閉められた。あの口ぶりと、行動からして、彼女もストレスを感じているのだろうと解釈する。どうも、私は私のことばかりで、彼女のことはほとんど考えられていない。昔、短い間だったが付き合っていた女性にも、「あなたは自分の事ばかりで、私の事を少しも見ていない」と振られたのを思い出す。その時から何一つとして成長していない。いや、こうして自覚できる分は成長しているのだろうか……しかし自覚したところで、他人を見る余裕など一分たりともないから、成長の意味などないに等しい。

 相変わらず、屑は屑のまま。そんな屑でも、この島の連中よりはましと思える。それだけが島の人間が居て良かったと思える点だ。自分より下がいると安心でき、そうなりたくないという念も強くなる。

 私はすでに落ちるところまで落ちているが、まだ最後のラインで踏みとどまっている。社会的生物である人間と、ただの動物であるヒトとを分かつ一線。倫理という最後の一線を超えれば、人間は獣になる。

 そして獣達はすでに足に食いつき、あちら側に引きずり込もうと躍起になっている。私はまだ人間で痛いのに、もがけどもがけど牙は離れず食い込むばかり、痛みも増すばかり。耐え切れず膝と付けば、獣は喉に食らいつき、致命傷を与え、引きずり倒して食い散らし、私を同類に変えるだろう。それ以外の未来が私の脳には浮かんでこない。

 避けられぬ死、というものだ。それを目の前に突き付けられるなど、外で暮らしていた時には想像もできなかった。そんなもの、フィクションの中だけのものだと思っていた。

 フィクションと違うのは、自分が主人公であり、何もかもがそう上手くはいかない点。助けてくれるヒーローもヒロインもおらず、自分で状況をどうにかすることもできない。

 苦しい。じわりと出血は増え続け、苦痛も増す。逃げ出したくなるが、逃げ道にはエンジェルがいるせいで通れない。彼女のおかげで正気を保てていると同時に、罪を直視し続ける苦しみを抱き続ける事にもなる。

 義務のために苦しむか、義務を放棄して楽になるか。考えてはいけない。罪は償うものだ。逃げてはいけない。


 考え込んでいると、シャワールームの扉が開く。音に反応し、視線が無意識にそちらへ向く。いたのは当然だが、エンジェルだ。数日の間、着ているものは当然違うが、似たような恰好。素肌が透けて見えるほど薄いネグリジェ。下着は上下共につけていない。さっきまでまじめなことを考えていたのに、それが一時的に頭から失せるほど、美しく見えた。汚したい、と一瞬頭に浮かんだ不穏な欲望を追い払う。

「もう少し刺激の小さい服はないのか?」

 いくら好みの年齢ではないとはいえ、昼間と同様、刺激されてはどうしても反応してしまうのは、生物として避けられぬ事だ。目を閉じて刺激をシャットアウトして悪あがき。放っておけば落ち着くだろう。

「私もこんな服は嫌よ。でも他にないから仕方なく着てるの」。フィッシュに頼んで、ほかの服をよこすよう言ってくれないかしら」

「自分で言ってくれ。あいつとは話したくない」

 嫌悪と恐怖。他にも色々な理由はあるが、この二つが、あいつに会いたくない最大の理由だ。

「私の言うことが聞けないのかしら」

「……わかった。明日頼んでおく」

 私は彼女に逆らえない。逆らってはいけない。

「じゃあ、頼んだわよ。おやすみ」

 エンジェルがベッドにもぐりこみ、ライトを消す。それから私も、真っ暗な中でソファに横になり、目を閉じる。

「おやすみ。良い夢を」

 きっと良い夢は見られないが、言うだけは言っておく。地獄の中でも天国を夢見られるように、と祈るのは自由だろう。

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