3rd day

悪い夢を見て、目が覚めた。どんな夢かは覚えていないが、とてつもなくひどい夢を見たというのはわかる。その証拠に室内には快適な空調が効いているにもかかわらず、寒気がするほど汗をかいていたからだ。おかげで服が張り付いて気持ち悪い、シャワーをあびることにしよう。

 まだ日が昇っていない暗い部屋の中。静かな寝息を立てて眠るエンジェルを起こさないよう、明かりも点けず、できるだけ音を立てないようにシャワールームに移動する。服を脱ぎシャワーノズルの下に立ち、蛇口をひねると最初は冷たい水が出るが、すぐに熱い湯に変わり、気持ちの悪い汗を洗い流して冷めた体に熱を取り戻してくれる。

 少しだけ気分が良くなったので、シャワーを止め、体についた湯をタオルで拭き取り、仕事用にと用意されている綺麗な服に着替える。寝たらまた嫌な夢を見そうな気がするし、今夜はこのまま朝まで起きていることにする。

 着替えたらエンジェルが起きていないか見に寝室へと戻る。まだ暗いが、眼が慣れたおかげで少しずつ辺りが見えるようになっていて、幸運にもその可愛らしい寝顔を拝むことが出来た。付けた名前の通り、天使のような優しい顔に思わず微笑む。確実に磨り減りつつある心が少しだけ癒やされたような気がする。

 そのままベッドの横を通り過ぎカーテンとドアを開けてベランダに出て、手すりもたれかかる。夜風が涼しく、一度温まった体をまた冷やす。しかしそれは汗が蒸発するような不快感はなく、むしろ心地よい。目を細めて空を見上げる。深海のような青色の空は地平線の向こう側から少しずつ白さが混ざり、小さく光る星は段々と太陽の光に飲み込まれて消えていく。

 地平線の向こうから、太陽が少しずつ顔を出す。黒一色の海に光が反射し、景色に変化が生まれる。これほどまでに見難い島にもかかわらず、ここから見える景色は今まで見てきた何よりも美しく、感動した。その美しさに魅入られて、しばらく時を忘れて見続けていた。

「太陽を直接見ると、目を痛めるわよ」

 一体どれほどの時間見ていただろう。太陽の円が完全に地平線から姿を表したところで、不意に後ろから声をかけられる。意識が現実に引き戻された。

「おはよう、エンジェル」

「おはようご主人様。今日は早いわね」

 ご主人様、という声に、あまりにも露骨な嫌悪感が含まれていて、思わず苦笑する。嫌われているのも、それだけのことをしたのだから仕方がない。

「ああ、今日は君より早く起きれたよ」

「いつもこんな時間に起きるの? あまり早く起きられると、私が辛いのだけれど」

「いいや。今日は特別だ。夢見が悪くて起きただけだ」

 そのおかげで、こんなに綺麗な景色を見ることが出来たのだから、気分は複雑だ。喜んでいいのか、悪いのか。

「それと、別に君が私より起きたからって、私は何も言わないし、言う権利もない。君は独立した一人の人間なんだから」

「あなたはそう言うけれど、私はとても独立なんてしていない。あなたに守ってもらわないと、いつでも死んでしまう。ただ守られてるだけじゃ、それは一方的な依存。他人を導くようにと設定されている以上、そんな無様は晒せない」

 気丈なことだ。

「私も追い詰められれば、きっと君を頼るようになる。その時になったらきっと守った分以上に世話になるから、気にしないでくれ」

 この島に来てから、まだ二日。それほど短い時間しか過ごしていないにも関わらず、私の心は既に深く傷を負っている。内容は覚えていないが、あれほど汗を書くような夢を見たのだ。おそらく、傷は自覚している以上に深い。

 一体後どのくらい正気でいられるだろう。きっと長くは持たない。もしかすると、彼女が居なくとも崩壊までの期限だが、それでも彼女が私にとっての救いになることを祈っている。同時に、私も彼女の救いになれるように。


朝日を満足するまで眺めたら、今度は朝食のために部屋から出る。その後ろを、私が朝日を堪能している間に着替えていたエンジェルがついて出てくる。二人共部屋から出たら、部屋に鍵をかけて、今日は私が前を歩いていく。会話はなく、途中で清掃用のアンドロイド達と何度かすれ違い、食堂に到着する。ドアを開いて中に入るが、今日は時間が早かったのか、フィッシュ以外は誰も来ていなかった。

「やあ、おはようジョン。昨日の晩餐は気に入ってもらえたかな」

 紳士服を着た老人が笑顔で挨拶してくる。ここが外の、普通の街ならばこちらも笑顔で返せただろうが、今日は気分が悪い。

「死ねよ、人でなし」

 おはようございます、と言おうと思っていたのに、口から出てきたのは汚く、そして乱暴な本音。フィッシュが一瞬呆気にとられ、そして笑う。私の顔はきっと憎悪に歪んでいる。後ろに立っているエンジェルはどんな顔をしているだろう。一度咳払いをし、慌てることもなく、落ち着いて言い直す。

「おはようございます、オーナー。今日もいい天気ですね」

「上司に対して随分な挨拶だね」

「私は当たり前の挨拶をしただけですよ。聞き間違えたんじゃないですか」

 いつも通りの営業スマイルを顔に貼り付けて会話する。上司の前で、あまりひどい顔は見せられない。

「なら聞かなかったことにしておくよ。しかし、さすがに二日で壊れはしないか。一体後どの位持つかな。二日か、それとも三日か。あるいはもっとか……楽しみだよ」


 やはり趣味の悪い男だ。いや、趣味が悪くなければ、こんな島は作らない。薄気味悪い、引きつったような笑いを続けるフィッシュを放っておいて、私は朝食の用意をする。食パンの四枚切りを二枚取って皿に載せ、角砂糖を一つ入れただけのコーヒーを一杯、テーブルに運ぶ。それからまた新しい皿を一枚持って。サラダとスクランブルエッグを乗せて、ドレッシングを少しだけかける。それを持ってテーブルに戻る。用意したパンをトースターに入れたらコーヒーをスプーンでかき混ぜて、一口啜る。腹立たしい事に、やはりこのコーヒーは美味しい。

 それから取ってきたサラダを食べようと皿に手を伸ばすと、皿の上は既に空。乗っていた野菜と卵は、サンドイッチの具になりエンジェルの口の中に。文句を言おうと思ったが、睨まれたので、喉元まで出かかった言葉は音にせず、コーヒーと一緒に飲み込んだ。仕方ないのでもう一度、サラダとスクランブルエッグを取ってくると、ちょうどパンが焼けた。熱々のパンをフォークで突き刺して皿に移す。少々品のない行動だが、それを咎めるような人間はこの場に居ない。

「下品ね」

 一人居たが、気にしない。人の取ってきたサラダを勝手に食べるのと、パンをフォークで刺して皿に移すのと、一体どちらが品のない行動だろう。どちらも同じか。さらに取ったパンに、室温で柔らかくなったバターをたっぷりと塗って、一口かじる。美味い。

「美味しいかい?」

 美味しい朝食と、朝に見た綺麗な景色で良くなった気分も、たった一言で台無しにできるのはある意味尊敬に値する。嫌われ役としてはこの上ない才能だ、とても真似はしたくないが。

「まあ、外で食べていた安物よりはずっと」

 口の中に残ったお庵を、コーヒーで流し込んで返事をする。

「それはいい。じゃあ今日の仕事を教えよう。そのバターの生産工場の見回り。案内はテッド、身長は180cm近い、黒髪の色男だ。君を私の部屋に案内した男といえばわかるだろう」

「ああ、あの男」

 私をヘリに乗せてここに連れてきた男。あの時に一思いに打ってくれていれば、これほど心に傷を負わずに済んだのに。

 今になってはエンジェルが居るから死ぬ訳にはいかないが。ともかく、どうしてバターの工場の見回りになんて行かなければならないのだろう。ただのバターだろうに。まあ、仕事だというなら引き受けるしか無いのだが。

「工場見学は嫌いかね?」

「どっちでもない」

「そうか。まあ、人が食事をしているところや、セックスをしている所を見るよりは楽しいと思うよ。では私は寝坊している職員を起こしに行ってくる。ゆっくり朝食を味わいなさい」

 フィッシュが去ってから、パンに塗ったバターを見る。外で食べていたものとは明らかに味が違うこのバター。味が異なる原因として考えられるのは、製法。品質。そして材料の三つ。

「……まさかな」

 まさかとは思うが、こんな島だ。そのまさかも十分ありうる。その可能性を考えると、無性に吐き出したくなったが、そう都合よく吐き気など起きてはくれない。いや、だが予想があたっていたとしても、履くほどのことじゃない。人肉を料理している所を見たり、人肉料理を食わされたことに比べれば、ショックもまだ小さい。それに予想ができたということは、それに対する心の備え。覚悟もできるということだ。覚悟さえしていれば、受けるショックは小さくて済む。それでも、辛いものは辛いが。


放牧場と、居住区の境に作られた小さな工場。客の来る場所ではないため、あまり金もかけられていないのだろう、この建物は雨風さえ防げれば良い程度の非常に簡単な外観をしていた。

 その工場の中を、男二人で無言で歩いて行く。テッドと呼ばれた男と、私の二人だ。有機ELの優しい照明で照らされた廊下、その終わりに一つの扉があった。前を行くテッドが立ち止まり、扉の横についた機械に触れる。電子音が鳴って扉が開かれた。

 扉の向こうには、多くのパイプと、役割のよくわからない機械が並び、それぞれが少し気になる程度の音を立てながら稼働していた。テッドが先に扉をくぐり、壁にかけられた帽子と長靴を投げて渡される。

「異物混入防止用の帽子だ。ここらは外の工場と変わらない。あと機械には触れるなよ、誤作動したら困る」

 言われるままに帽子を被り、長靴に履き替えて中へ入る。工場といえば、もっと粗雑なイメージがあったが。実際は予想よりも清潔だ。

「ここらは居住区以上に衛生に気をつけてるが。ついてこい」

 施設を見回す私を置いて先に行こうとするテッドを追い、私ももう一枚、奥の扉をくぐる。明るい部屋から、照明の落とされた暗い部屋に踏み込む。途端に、不快な香りが鼻についた。反射的に鼻をつまむ。

 嗅いだ覚えのある悪臭。床にこぼした牛乳が完走したような、そんな臭い。

 部屋の暗闇の中でうごめく何かは、きっと牛ではない。空から見た限りでは牛などどこにも見当たらなかった。では、何がこの臭いを放っているのか。予想はできる。

「スイッチはどこだったか……あった」

 パッと部屋が明るくなり、一瞬目をとじる。そして開くと、予想通りの光景。


「はぁ……」

 あまりに予想と目の前の現実が合致しすぎていて、いっそのこと清々しくもある。気分は最低だが、こんな事を考えられる辺り、少しはこの島に慣れてしまっているのだろう。

 この部屋に居るのは、裸で、胸に機械を繋げられた少女たち。どれも目は虚ろで、宙を見上げたままこちらを見ようともしない。名前を付ける前のエンジェルを思い出す。しかし彼女たちの年齢は、エンジェルよりも上なのだろう。どの個体もエンジェルより体が大きい。餌やり場で見た少女達のどれも、ここに居る少女たちよりも小さかった。何故だろう。

「気になるなら説明するぞ」

 理由を考えていると、それを察したようにテッドが声をかけてきた。

「お願いします」

 知りたいと強く思ったわけではない。だが、少しだけ気になった。私の心には、まだその答えを受け入れられるだけの余裕があるので聞くことにした。

「こいつらは、旬というか。食べごろを過ぎた商品。言わば売れ残りだな。客に格安で体を提供させて、妊娠させて、次の商品を産ませる。産んだ後しばらくは母乳が出るから、それを有効活用しようって話だ」

「まるで乳牛だな」

「まるで、じゃない。そのものだ。ああ、いや。milk《乳》 cow《牛》じゃないからmilk《乳》human《人》か。語呂が悪いから乳牛でいいか」

 そういう問題では無いだろう、人を家畜と同列に扱うとはどういうことだ。などと言うのはきっと無駄だろう。

「こいつらは子を産んで、乳を出して。出産に耐えられない位に消耗したら、潰して腸詰めにする。ステーキにするには、出産したのは肉質が悪いからな」

「……解説ありがとう」

 実に最低な気分だ。この子らが哀れだとは思うが、私がしてやれることはそれ以外に何一つない。自分の心を守ることさえ満足にできないというのに、さらに他人のために動くことなど、とてもじゃないが無理だ。

「タスケテ」

 幻聴か。そんな言葉が聞こえた気がする。

「タスケテ」

 また聞こえてきた、救いを求める声。視線を泳がせると、乳牛の中から一本の手が伸びていた。細く白い、綺麗な手。

「ちょうどいい。仕事を見せる」

そういって乳牛たちをかき分けて、その手の主の下へと進んでいき、発砲音。白い手が赤い血で斑に汚れ、力が抜けた腕が落ちていき、見えなくなる。

「ここに来るのは人格を消されてるはずなんだが。まあ、たまーにこういう例外もある。そんな例外が暴れて、機械を壊したり他の乳牛を傷つたりする前に始末するのが、見回りの役目だ」

 返り血を手で拭いながら、これが仕事だと事も無げに私に言うテッド。いずれはこれもやることになるのだろうか。でっちあげた殺人の経歴が、現実のものになる時が来るのだろうか。やれるのだろうか、私に。やるだろう、きっと。心が壊れかけていて、エンジェルを人質に取られて。そんな状況で命令されたら、きっとやるに違いない。状況を免罪符にして、自分に責任はないと。

 自分の心を守るために少女を飼い。それを守るために違う少女の命を奪う。結局は自分のためだ。自分のために人を殺してしまえば、もう後戻りはできない。蓄積した悲しみが抑えきれなくなり、氾濫して、情動の濁流に正気が押し流されて消えてしまうだろう。

 そうなれば私という人格は、作られた殺人鬼のジョン・ドゥに取って代わられる。その後どうなるかは、想像もつかない。だが、そうなったほうが、耐え続けるよりも幸せかもしれない。

 そうだとしても、そうはなりたくないが。


 結局、バター工場の見学、見回りでは、心にそれほど深い傷を負うことはなかった。それはきっと初日に見た光景と、二日目の晩餐のおかげだろう。やはり、あれに比べると衝撃は小さい。

 傷を負わなかったことが良い事か悪いことかはともかくとして、今は何事もなかったかのようにパンとスープ、それとサラダを口に運んでいる。鍋に入った手足を見てゲロを履いていた初日からすれば、かなり大きな変化だろう。これも、良いことか悪いことかはわからない。

 自分にとって苦か楽かで良し悪しを判断すれば、これは良い変化だ。島に適応しつつあるならストレスも緩和される。外で培われた良心から判断すれば、悪い変化だ。良心が壊れつつあるということだし。

 しかし、この島にいると本当に何が悪くて何が良いのかわからなくなりそうだ。外の常識、法律ではなにもかもが許されないことなのに、ここでは何もかもが許されている。外での悪が、ここでの正義。ならまだ外の常識を捨てられない私は悪なのか。

「何を辛気臭い顔して飯食ってる。こっちの飯までまずくなるだろう」

「すまない。考え事をしてた」

 一見すればマトモに見えるこの男も、その内側を見れば外でいうところの悪。この島では正義。助けを求める少女を何の迷いもなく殺してしまえるような、殺人鬼。

「しかし、お前は本当に暗いな。外のルールに縛られずに済むのに、どうしてそんなに暗い顔ができるんだ?」

「そんなにひどい顔か?」

「鏡見るか、自分の顔触ってみろ」

 辺りを見ても鏡は無いので、とりあえず自分の顔に触れてみる。触った感じでは、確かにいつもの営業スマイルは剥がれていた。素顔を隠す仮面が剥がれていた。一体いつから仮面が砕けたのかは知らないが、それならもう一度仮面を被り直せばいいだろうと顔に笑顔を貼り付けて、パンをスープと一緒に胃に流し込む。

「ルールに縛られずか。そうだな……外の監獄暮らしが長くて、洗脳されてるんだろう」

 常識を洗脳と言い換える。こんな言い換え方は、普通じゃまず出てこないはずだ。つまり、私はもう普通じゃない? いや、そんな事はない。私はまだマトモだ。

「洗脳ね。まあ、ゆっくり慣れろ。そうすればその内解ける。それより肉はどうした。野菜ばっかりじゃないか」

 肉、と言われて昨日の夕食が頭をよぎる。味は覚えていない。思い出せない。思い出したくない。

「肉は、今は食おうと思わん」

「人の肉じゃないぞ? 従業員までガキの肉食ってたら、いくら産ませても足りないからな」

「そうだな……」

 気を紛らわすために、事情を少し考えてみる。人間は牛や豚、鶏ほど成長のスピードが早くない。何か特別な薬でも使っていない限りかなり時間がかかる。エンジェル位の大きさになるまで、十二年ほどだろうか。一体成長させるのに十年以上。それを日々どれだけ消費しているのかと思うと、嫌気しかしない。

「それでも今は気分じゃない。ところであんたは人肉は好きなのか?」

「あんまり好きじゃないな。女は犯して殺すもんであって、食い物じゃない。牛の赤身のステーキと並べられたら、ステーキを取る」

 前半さえ聞かなかったことにすれば、意外とマトモな発言だ。殺人鬼をマトモと言っていいかどうかはともかく。

「大体、俺の好みはあんな小さなガキじゃない。ストレートヘアをセンターで分けた美人だ。ガキを当てられても溜まる一方だ」

「あんたの好みはわかったから、つばを飛ばさないでくれ。サラダにかかる」

 被害者好みの特徴で思い出した。そういえば、こいつもこいつでなかなか世間を賑わせてた。ニュースで流れてたテロップは、第二のバンディだったか。

 思い出して、検索してみる。頭の中身埋められた機械がインターネットに接続して、そのワードで検索。トップに出てきた殺人鬼大百科というなんともそれらしいサイトに目当てをつけて、まばたきを一回。ページが一瞬で表示され、欲しい情報がピックアップされて表示される。

『本名――――被害者の年齢層は十代後半から二十代前半にかけて。髪をセンター分けにした女性ばかりを襲われたため、一時期は街からその髪型が姿を消したほど。被害者を鈍器などで殴って昏倒させた後に強姦、殺人、死姦などを行うのが特徴。また、その犯行から(※)バンディの再来と言われた。素顔はこちら。(※)セオドア・ロバート・バンディ(1946年11月24日 - 1989年1月24日)はアメリカの犯罪者、元死刑囚。電気椅子で処刑された』

 画像を注視してまばたきし、拡大表示された画像を目の前の男と重ねあわせる。髪型以外はほぼ一致した。本名と違うのは、この島では犯行の手口から名前が付けられているのだろう。ふと気になって、ロバート・フィッシュで検索してみる。合致なし。ロバート。ロバート、合致、ロバート・ベン……違う。フィッシュ、合致。アルバート・フィッシュ。こっちだ。プロフィールをさっと眺めて、まばたきを三度。ページを閉じる。

「じゃあ、溜まったのはどうやって解消してるんだ」

「最初にあてがわれた娘を一人やってからずっとご無沙汰だ。客に手は出せないしな」

「いくら溜まっても、俺は殺さないでくれよ」

「安心しろ。俺はゲイじゃない」

 殺人と性欲が結びついているのは、やはり異常だ。これと比べれば私はまだマトモだ、そう確信できた。

「そういうお前こそ、腹がたったからって俺を殺すなよ。いくら退屈でも、死ぬのは御免だ」

「余程のことがない限り大丈夫だ」

 昨日の夕食の件。エンジェルの件。人肉料理の提供。既に三つほど重犯罪を犯している。その中身と数からしたら、内二つは強制された事とはいえ、裁判で下される判決はまず死刑以外にないだろう。その点については私もこいつらと同類。違うのは、その行為に罪悪感を抱くかどうか。そこが正気と狂気の境界線になる。



 昼飯を食った後。工場の見回りを終わらせて、午後からは好きにしていいと言われたので、一人で島を歩いている。この島の全景は一度空から見ているが、地面を歩いて見る景色はまた違う。例えば、空からは胡麻粒以下のサイズにしか見えず、ただ人がうごめいていることしかわからなかったビーチ。これも地上から見れば大分違う。ゴミの無い白い砂浜に、地平線まで見える青い海。そこでバカンスを楽しむ、テレビや映画で見たことのある俳優、政治家達。景色と合わせれば絵になる輩ばかりという訳ではないが、絵になる輩の方が多いように見える。

 ところが内面を考慮すれば、景色に不釣合いどころか、美しい景色を汚し尽くす汚物にしか思えなくなる。彼らに抱いていた憧れや尊敬などは全て幻想で、真実を知ればそんなものは欠片も残らず消え去っていった。

嫌になりながらも、道を歩く。好きにしていいと言われても、こうして島の散策をする以外にやれることはない。いや、できる事は多いが、やる気にならないと言う方が正しいか。

 フィッシュはエンジェルを好きにすればいいと言って寄越した。好きにする、という言葉に含まれる行為は、お客様が島の商品に対して行うこと全て。それができる事だ。しかし私はまだ正気で居たい。正気で居たいから、それはできない。やってはいけないのだ。

 つまらない思考も一段落したので切り上げ、今度は景色だけを楽しむことにする。海からは一度目を離して、進行方向。道路上に目を移す。正面に二人、テレビで見たことのある議員が何かを話しながら、こちらに向けて歩いていた。あの顔は昨日来た客の中には居なかった。となると、少女の肉ではなく体を味わいに来たペドフィリア。普段はご高説を振りかざして対立する党を攻撃してばかりの議員が、この島でどんな話をしているのか。少しだけ気になって、横を通る際に注意しながら聞いてみる。

「――の島はいいですな。あなたには感謝してますよ」

「この島の事を知らないなんて、人生の大部分を損してますからな」

 普段から汚い部分をテレビ越しに見せつけてくれていたので、失望することも無かった。感想は、「ああ、やはりそんなものか」程度のものだ。

「ああ、そこの君」

「……私に、何か」

 不意に呼び止められて、足を止めて振り返る。するとなんともいやらしい、下心の見え透いた笑顔が。顔に出るほどではないが、不快感がある。

「君はどこの俳優だい? 良ければ握手をお願いしたいのだが」

「私は島の従業員でございます。俳優などと、立派な者ではございません」

 嘘をついても仕方ないので、正直に言う

。すると一瞬で先ほどの笑みは消え失せ、媚び諂うような視線から見下すような視線に変わった。票に関わらない人間の前ではこの態度。これがおそらくこの議員の本性なのだろう。評価はこれ以上無いというところまで落ちた。

「ああ、そうか。なら結構、早く失せなさい」

「何か御用がありましたら、お呼びください。失礼致します」

 内心では見下している、命令されたとおりに去っていく。呼び止めたのは、きっと私が俳優ならお世辞の一つでも言って票を稼ごうという魂胆だったのだろう。

 今の話をSNSに投稿したらどうなるだろうと思い、顔を背けて歩きながらページを開く。ページを開くのは開けた。試しにログインして、つぶやきを送信。エラー。再送信。エラー。

 考えても見れば自然なことだ。馬鹿なつぶやき一つで島を台無しにされては、いくらフィッシュでも笑えないだろう。あの笑顔をぶち壊してやりたい気持も無いこともないが、まだ死ぬには早い。死ぬのは頭がおかしくなってからと決めている。

「ジョン」

 歩いていると、また呼び止められた。そして今度の声には聞き覚えがある。つい昨日に聞いたばかりの声だ。忘れるはずがない。

「こんにちは、ごきげんいかが?」

「最高、の正反対ですね」

 今度は見知った相手だ。話をしたことも、一度だけだが在る。本性を知るまでは憧れすら抱いていた相手。それが水着姿で私に声をかけてくれている。本来なら喜ぶべきところなのに、感動は一切ない。むしろ放っておいて欲しい気分だ。無視して歩こうかとも思ったが、私はこの島の従業員で、彼女は客。客に失礼なことはできない。生きていたいなら、礼儀正しく。

「今は休憩中?」

「そんなものです」

「そう、じゃあ遊びましょう」

 宝石のような美しさと、花のような可憐さ。その両方を兼ね備えた笑顔で、手を差し出される。それでも心は全く揺れない。

「お誘いはとても嬉しく、ありがたいのですが、お断りさせて頂きます」

 差し出された手を、握らない。食虫植物に一度捕まれば、もう逃げられない。そのまま消化されて養分にされるだけだ。

「何故?」

「あなたなら、私よりももっと相応しい相手が居るでしょう。それもすぐ近くに」

 ビーチに群れている汚物たちを指さす。

「声をかければ、いくらでも応えてくれるはずです。同性愛者か、私のような臆病者でさえなければ」

「あなただから面白いのに」

「私は玩具でも、愛玩動物でもありません」

 だから、他を当たれと言ってやる。汚物は汚物同士で、仲良く戯れていればいい。

「ふーん、そう。じゃああなたじゃなく、あなたのかわいがってる子で遊ぼうかしら」

 日差しが痛いほど熱く照らしているのに、一瞬で寒くなる。心臓に氷のナイフを当てられたような気分。

「なぜそれを」

「面白そうだから、オーナーに聞いたの。それで、どうするの? 遊んでくれるかしら」

 下唇を噛む。自分の弱さに呆れてしまう。弱みを握られても、そんな事は知らないと言って逃げるだけの強さがあれば、こんな脅迫じみた要求も無視できるのに。

「……わかりました」

 渋々、了承する。

「ふふ、それでいいの。女に恥をかかせたらダメよ」

 恥をかかせるのはダメでも、脅迫はいいのか。言葉には出さず、飲み込んでおく。

「それで私は何をすればいいんです」

「ただ私の言うとおりにしていればいいわ」

 ただ、言われたとおりに。何をすればいいのか。何をさせられるのか。どんな要求をされても、私に拒否権はない。私にできるのは、彼女からの要求が、心を壊すようなものでないことを祈るだけ。



美しいが、醜い女性。綺麗だが、汚い手に引かれて人気のない人工林の中へと連れ込まれる。手を引かれる事に、抵抗はしない。できない。

「何をして遊びましょうか」

「考えてないなら帰らせてもらえませんか」

 一体何を命令されるやら、気が気でない。ただでさえ限界が近いのに、これ以上刺激をあたえないで欲しい。

「ダメよ。面白くない」

「あなたは一体、何がしたいんだ」

「ただバカンスを楽しみたいだけよ。そのために、あなたにも楽しんでもらいたい」

 ただの暇つぶし。それならば、私でなくとも良いのではないか。そう思っても、彼女には私で無くてはならない理由があるのだろう。私にはわからないだけで。

「苦しむ人を見るのもいいけど、楽しそうな人を見るほうが、こっちも楽しくなるの。あなたも、苦しむよりは楽しい思いをしたいでしょう?」

「いいえ。私はこの島を楽しいと思うような狂人にはなりたくありません」

 これだけは、いくら失礼でも言っておかなければならない。私の素性を知っている相手にだけは、誤解されないように。

「私が狂ってるっていうの?」

 ひどく意外そうな顔をして言うが、ひょっとして自分が狂っているという自覚がないのだろうか。

「マトモな人間が、好んで人肉を食うはずがない。狂っていなければ何だと言うんです」

 正常でないことを異常という。その概念は、全ての人間、現象に当てはまる。ハリウッドスターでも例外じゃない。

「じゃあ、あなたの言うマトモが異常ね。私にとってはこれがマトモ。だって私の周りは、あなた以外皆私と同じだもの。違うのはあなただけ」

 そんな事は知っている。この島に来る客は皆イカれてる。だがそれは正常である人間の総数からしたらほんの一部だ。

「外の法律では……」

「この島じゃそんな物は意味を成さないわ。そもそも、その法律が正しいと思ってるの?」

「……」

 もしも法律が正しくないのなら、私の信じてきたものは一体何なのか。私が守り、私を守ってきたそれが異常だとするなら、正常でありたいと思う私は。

「あなたもこの島に政治屋が来てるのを知ってるでしょう。あなたの信じる法律は、彼らが作ったもの。あなたが異常と思う彼らが作った法は、本当に正しいのかしらね」

「やめろ」

 見えていたが、あえて見ないふりをしていた事実を指摘され、口調が、仮面が崩れる。すぐに冷静になり、顔を手でなでて表情を戻す。

 一体この女の目的は何だ。何がしたくてこんな問答をする。

「ようやく素顔が見えたわ。素敵よ、その苦しそうな顔」

 唇が触れそうなほどに近寄られ、甘い香りのする吐息を吹きかけられ、首に手を伸ばされる。恐怖と不快感からその手を振り払おうとするが、空いているもう片方の手で掴まれ、止められた。そのまま首筋を指先でゆっくりと撫でられ、快感からか、背筋に寒気が走る。

「動かないでね。命令よ」

 蛇に睨まれた蛙のごとく、その場に固まる。私の手を握る彼女の手が離され、両手が私の首を撫で回す。

「自分で見つけた綺麗な宝石を、自分の手で壊す。最高の贅沢だと思わない?」

 手が止まり、そのまま両手で気道を締め付けられる。

「っーーー!」

 突然の凶行、苦しさにもがく。この状況で動くなという命令に従うのは、自殺するようなもの。私はまだ死にたくない。殺されたくない。

 なら、殺さないと。

 一瞬だけ、発作的に湧き上がったその思い。それに従うように、私の首を占める彼女の、その豊満な胸を全力で突き飛ばした。

 拘束が解かれ、圧迫されていた喉が解放された。途絶えていた酸素の供給を取り戻すように、深く早い呼吸になる。心臓の拍動も、死にかけた恐怖からか随分と早い。それとも、手に残るやわらかな感触に興奮しているのか。

「ふふ……あはは!」

 私が突き飛ばした彼女は、地面に倒れたまま笑っていた。何がおかしいのか。人を殺そうとしておいて、どうして笑っていられるのか。そういった怒りが胸の奥からこみ上げてくる。

お返しをしようか。そう思い拳を握り固めたところで、彼女が一掃怪しく微笑み、自分から水着のヒモを解き始めた。

「殴られるのは嫌よ。痛いだけで、気持よくないもの」

 その一言で、燃え上がっていた怒りが急速に冷めた。彼女は客で、私は従業員。手を出してはいけない。手を出せば彼女の思うまま。彼女の目的はアプローチの仕方こそ異なるが、フィッシュと同じだ。私が壊れるのを見たいだけ。わざわざこうして誘ってくるということは、私を壊す過程にその行為があるということ。

 はじめて話をした時に食虫植物のようだとは思ったが、行動を見れば彼女の在り方はまさしくそれだ。握った拳を開いて、背を向けてビーチの方へと戻っていく。

「どこへ行くの?」

「部屋に戻ります。あなたの遊びには、もう付き合えません」

 それ以降、後ろから何か言われても無視して一人で林を抜けた。しかし、島の様子を知りたいから出歩くなんて馬鹿なことをするんじゃなかった。おかげで、また取り返しのつかない過ちを犯すところだった。



「はぁ……」

ソファに腰を落として、ため息を一つ吐く。今日この日も、昨日、一昨日と変わず散々な一日だった。振り返れば昨日今日食べたパンに塗っていたバターが、少女たちの母乳から作られたものであることを教えられ。その生産工場では、乳牛のように搾乳される少女達を見せつけられ。その中に居た一人を、目の前で殺されて。客には殺されかけて。

 ふと感じたが、これを散々の一言で済ませられる私は、どうやらこの島にかなり慣れてしまっているようだ。慣れてたまるものかと最初こそ思っていたが、慣れてしまった。変わるまいと思っていたのに、変わってしまっている。

 天井を見上げると、昨日と変わらず高く、広い。この部屋に私自身が溶けてしまったとしても、薄まってしまい誰も気がつかないだろう。

「疲れた顔してるわね」

 ソファに座り、だらしなく四肢を投げ出す私に言葉を投げかけるのは、行儀よくイスに座り、背筋を伸ばしてこちらを見つめるエンジェル。はっと気付いて、散っていた意識をかき集める。

「……ああ」

 疲れたと言っても、吐くほどではない。この程度では吐けない。初日にもっと衝撃的な光景を見せつけられて、二日目には人肉を食わされたせいで、感覚が狂ってしまっている。だが、まだ大丈夫だ。客に言われた事で揺らぎはしたが、まだ私は何が間違っているかがわかる。環境に慣れはしても、まだ思考にまで影響は及んでいない。私はまだ、正常だ。

「バター工場、見たんでしょう」

「見た」

「あれが食べられなかった私達の末路。これえもあなたには一応感謝しているのよ。人としての全てを奪われて、家畜になるはずの私を人間にしてくれたんだから」

 ……本心からの言葉なら、彼女が私に心を許したのかと思うのだが。きっと心にもない嘘だろう。彼女は私の事を嫌っている。恨んでいる。私のしたことは決して感謝されるようなことではない。そして何より彼女らしくない。仕事で多くの人間を見てきた私の直感がそう言っている。

「フィッシュに吹き込まれたか」

「正解よ。こう言うように命令されたの」

「何のために」

「知らないわ」

 目的がよくわからない。フィッシュは何を考えてこいつに今のような事を言わせたのか。やはり狂人の考えはよくわからない……わかりたくもないが。わかるとすれば、それはきっと私も同じ狂人になった時だ。

「でも、本当に消耗してるように見えるわ。狂わないでね」

「少し感覚はおかしくなってるな」

 目の前で人が、助けを求める少女が殺されても、なんとも思わない程度には。正常から逸脱した、異常。強いストレスを受け続けたことによる障害。変化。振り返れば、島に来てからまだたった三日しか経ってない。なのにここまで変わってしまっている。果たしてこれでマトモと言えるのか。

 本当に、思考まで影響されていないのか。されていないと、思っておこう。こうして自問自答できる事が、その証明だ。

「あなたが死んだら私も死ぬ。それはわかってるわね?」

「大丈夫。頭はまだマトモだから、それはわかる」

 あの客に首を絞められた時、一瞬だけ頭をよぎった殺意。あれはまだ正常な部類に入る。誰だっていきなり首を締められたら怒るだろう。それがきっかけで人を殺しても、正当防衛が認められる。だからといって殺していいわけでも、殺したいわけでもないが。

「殺人はダメよ。何があっても」

「わかってる」

「自殺するのもよ。あなたが死ねば私は死ぬ。殺される。あなたの行動で殺されるのだから、あなたが殺すも同然よ」

「わかってる」

 まだ何もしていないし、自殺するつもりもないが、彼女の責めるような強い口調の前に私はそう言うしか無かった。

「人を殺したいと思うのもダメよ」

「……」

「その考えは、例えるなら銃の引き金に指をかけた状態。環境に慣れたなら、引き金はとんでもなく軽くなってるはずよ。それこそ触れただけで弾が出るくらい」

 なぜ今、そんな話を出すのか。私が今日、客に対して殺意を持ったことを知っているような口ぶりで。

「首のアザ」

 不思議に思っていると、彼女は自分の白い首を指さして言った。首を締められたのは少し前のことだし、、男を引っ張れるくらいの力で首を締められたら痣も残る。

 それを見て、一連の話をしたのか。よく見ている。私のことを嫌っていても、名前に負けないだけの行動をしてくれている。彼女には悪いが、エンジェルという名前を付けて本当に良かったと思う。これなら、私がおかしくなった時には必ず気付いて指摘してくれるだろう。

「なあ、私がおかしくなったら、誰かを殺す前に殺してくれないか」

 死は怖い。だが、死というのには二種類ある。体の死と、心の死。どちらも怖いが、どちらの方がより怖いかと言われれば、心の死と答えよう。私という心が壊れてしまえば、それはもう私じゃない。私は死んで、ジョン・ドゥという架空の殺人鬼のプロフィールだけが残る。そうなれば、私の意に反して罪を重ねるようになるだろう。そうなる位なら、そうなる前に肉体の死を迎えて罪にピリオドを打ちたい。

 そして、私の罪の被害者であるエンジェルに殺してもらうことで、犯罪を抑止し、同時に罪の償いもできる。意義のある死だ。

「他に頼みなさい」

 あっさりと、断られた。それもそうか。彼女にそんなことを頼んでも、YESと答えてくれるわけがない。

「わかった、そうする。変な頼みをして悪かった」

「私はあなたを助けない。それはしっかり覚えていなさい」

「天使は人を導く者。甘やかす者じゃないからな」

 私は弱いから甘えたくもなるが、彼女はそれを跳ね除けてくれる。その強い姿勢が、私の心を保ってくれる。



 今日の夕食はなんだろうか、と嫌になりながら、エンジェルを連れて食堂へ向かう。テッドは従業員の普段の食事に人肉は使われないと言っていたが、それでも昨日の今日で、あれほど衝撃的な出来事を忘れられるはずがなく。おかげで腹は減っても食欲は欠片も湧いてこない。

 しかし、何かを食わなければいずれ衰弱して倒れるだけなので、仕方なく食べに行くのだ。頭に浮かぶのは、野菜と穀物か粉物、あと魚介。それだけでも腹は満たせるだろうと、重い足を引きずって歩いて行く。

「こんばんは」

 そして角を曲がれば、会いたくもない相手に会ってしまった。胸から湧き上がる不快感を堪えて、挨拶を返す。

「こんばんは。また会いましたね」

 挨拶されたら、同じように返すのが礼儀だ。それが例え、どれだけ嫌いな相手であろうと。

「ねえ、知り合い?」

 エンジェルに袖を引かれ、耳元で関係を尋ねられる。

「さっき話した、昼に私の首を絞めてくれたお客様だ」

 わざと目の前の客にも聞こえるような声で話す。反応を横目で見るが、変わらず薄ら寒い微笑みを顔に貼り付けたままだ。何を考えているのか、全くわからない。ここは従業員用の施設、迷い込んだということは無いだろうし。こいつがここに居る理由は、誰かに会いに来たということ。その相手は、多分私だ。そこまではわかったが、私に会いに来た理由がさっぱりわからない。

 しかし、彼女の顔を見た瞬間に、条件反射で意識は警戒態勢に入ってしまっている。

「下がれ」

 エンジェルを庇うように、後ろに下げる。あの細い首を、私にしたのと同じ力で絞められれば、あっさりと折れかねない。それこそタンポポの茎を指で挟んで折るように、簡単に。あぶくを吐き、白目を剥いて、意識と力を失うエンジェルの姿を幻視。

 一瞬だけ浮かんだそのイメージを、頭を振って追い払う。

「可愛い子ね。食べちゃいたいくらい」

 微笑みをそのままで、舌なめずりを一つ。寒気がより一層増して、全身に鳥肌が立つ。

「……」

 エンジェルも私も揃って言葉を失う。外でなら何でもない冗談で済ませられるセリフなのに、この島で、この客に言われると、恐怖で背筋が凍る。恐れに飲まれないために、もう一度口を開く。

「何か、御用でしょうか」

 精一杯の気力を振り払って出てきたのが、そんな言葉。会いに来たのなら、何かしら用事があるのだろうから、この聞き方は正しい。声が恐怖で震えてさえいなければ。

「ディナーでもいかが? その子も一緒に」

「き、拒否は]

「認めないわ」

 即答。予想通りの返答。逃げられない。食虫植物の腕に、既に絡め取られている。

「安心して。ほんとうに食べたりしないから。フィッシュにも玩具を壊さないでくれと怒られちゃったし」

「人の首を殺す気で絞めておいて、よく言いますね」

「でも拒否はできないわよ」

 わかっている。拒否すれば、きっとこのまま付いて行くよりも恐ろしいことをされるに違いない。私はまだ死にたくないし、狂いたくもないから、付いて行くという選択肢を選んだ。

「仰るとおりに」

 頭を垂れて、恭順の姿勢を示す。もちろん恭順するのは姿勢だけだ。

「正気?」

「大丈夫だ。殺されはしないだろう」

「昼に殺されかけた相手の言葉を、よく信じられるわね」

「信じなきゃ死ぬんだし、嘘でも死ぬんだ」

 なら、嘘でない可能性を信じて行くしかない。信じる以外にも道はあるが、その道は崩れていて、進めば地獄へ真っ逆さま。そうとわかっているなら進めはしない。しかし、選んだ道にも、目には見えない地雷が埋まっている可能性がある。だがそれは確定ではない。埋まっていない可能性もあるのだし、それにかける。

「じゃあ、行きましょう」

 差し出された手を、握らない。すると客は一秒ほどその姿勢を維持した後に、手を引っ込め、不思議そうな顔をして私の顔を覗きこんできた。色が深すぎて、黒にも見える青い瞳から目をそらす。深海のようで、見ていると引きずり込まれそうになるからだ。

「どうして手を取らないの?」

「私なりの、想いの表現です」

 できる限りの嫌悪の表現。エンジェルが私の手を握らないのと同じ。触れたくもないほど、毛嫌いしているというのをわかってくれればいいが。

「わかったわ、愛しすぎて触れないのね」

「……」

 本当にそう思っているわけではないだろう。いくら考えが読めなくとも、このくらいは会話の流れでかる。だが、この状況での返事としてそれはどうなのか。エンジェルも後ろで呆れている。

「それじゃ、こっちに来て」

 昼と同じように。違うのは、手を握らずに。彼女の後ろを付いて行く。昼は林の中だったが、今度はどこへ連れて行かれるのだろう。



 連れられた先は、私達が住むのとはまた別の、客の宿泊する専用の建物。彼女の泊まっている部屋。そこは私の部屋よりもずっと広く、キッチンがあり、ダイニングがあり、ロフトもありベランダも有り。部屋というよりも最早小さな家と言ってもいいほどの物だった。

「ワイン飲むかしら?」

 部屋を見回していると、客がいつの間にか冷やしていたワインを取り出して、グラスに注いで、私の方に差し出してきた。酒は嫌いではないが、この状況で飲めと渡されても……正直言って飲みたくない。

「お気遣い結構」

 よって、断っておく。毒を入れられていないとも限らない。

「そう、エンジェルちゃんは?」

「お誘いは嬉しいけれど、まだ飲める歳じゃないから遠慮しとくわ」

「飲める歳ねぇ……アメリカじゃ21からだけど、この島じゃそんな法律はないわよ。それに、きっとその歳まで生きられない」

 微笑みを絶やさずに毒を吐く。確かに、私は一年どころか一ヶ月持つかどうかの状態だが、他人に言われると腹が立つ。不快な女だ。既に彼女への評価点はゼロなので、そこからさらに下がることはないが、もう二度と評価の点数は上がらない。何をしても、昔のようなあこがれを抱くことは二度と無いだろう。

「不愉快だわ」

 失礼な事を言うのをためらう私の代わりに、エンジェルが強く主張する。

「こんな気分にさせるために呼んだのなら、ご主人様を連れて部屋に帰らせてもらうわよ」

 体は小さいのに、これほどまでに気が強い。そんな彼女に比べて、私のなんと不甲斐ないことか。

「そんなつもりは無かったの。ごめんなさいね。今日あなた達を呼んだのは、つまらない男たちとの付き合いに飽きてきたから、マトモな人と話がしたかったの。あとは、来る前に話したディナーもね」

 本当にそれだけが目的なのか、怪しいものだが。疑っても仕方ない。

「ディナーって言うけれど、人肉料理なんて趣味の悪いものを食べさせる気? もう失礼無礼を通り越して野蛮だわ」

 エンジェルが怒っている。私以外に怒っている所を始めて見たが、そもそも私以外と会話をする所を見るのも始めてだ。どうやら彼女の厳しさは、私以外に対しても向けられるらしい。

「そっちこそ随分な物言いね。礼儀に欠けるわ。ご主人様を私に取られて嫉妬してるのかしら」

「馬鹿なことを言わないでくれるかしら。私は彼に正気で居てもらわないと困るの。狂気に引きずり込もうとするあなたとは利害がまるで逆なのよ」

 二人の間に剣呑な空気が立ち込める。身長の差から、片方が見下して優位に立っているように見えるが、言葉の勢いから感じられる精神状態は拮抗している。その証拠に、客の顔から微笑みが消え、真顔になっている。

「……やっぱりあなたも面白いわ。本当に、マトモにしか見えない。普通の気の強い女の子みたい」

「褒め言葉として受けとっておくわ。生まれも育ちも異常だけれど」

 会話に入っていかに私は、ただ言葉の刺し合いを続ける二人の様子を立って眺めている。エンジェルなら、私とは違い客とも立場は対等だ。好き放題、言いたいことを言える。うまくすれば説得もしてくれるかもしれないと、会話の行く末を見守る。

「本当、食べちゃいたい」

 ゆっくりと、客の手が伸びる。視線の先はエンジェルの首。最悪のビジョンが頭をよぎり、弾かれるようにエンジェルの前へと割り込む。

「いくらお客様でも、彼女には触れさせませんよ」

 彼女は私の心の殻だ。卵の殻のように、私の心を守っている。だが、その殻は、肉体は、歳相応の少女の物でしかなく、ひどく脆い。悪意を持って触れれば、いとも簡単に破れてしまう。だから、体だけは彼女よりも強い私が守らなければ。そんな思いが、一瞬で浮かんできたからこその、この行動。

「ちょっと撫でようとしただけよ」

「昼に私の首を絞めようとしたでしょう。あの時と同じ目つきでしたから」

 この期に及んで、まだ失礼の無いようにしながらエンジェルを庇う。彼女に死なれては、私はもう正気では居られない。それはつまり心の死だ。死にたくないという願いのためにも、彼女に触れさせる訳にはいかない。しかし、礼儀を欠くわけにもいかない。

「その子を愛してるのね」

「愛とは別、彼女を守るのは罪悪感からです」

 それと、最期に自分の心の保護のため。

「ふぅん……まあ、いいわ。そろそろ料理が来るから、一緒に食べましょう?」

 食人鬼との晩餐。これで二度目だ。この島は一体どうして私を追い詰めにかかるのか。泣きたくなるが、ここは我慢。相手の目を見据えて声を出す。

「先に断っておきますが、私は肉は食べられませんので」

 人肉でも、何でも。哺乳類の肉は食べられない。魚なら多分食べられるだろうが。

「私のお願いでも?」

「お客様の目の前で吐くなど、そんな失礼なことはできませんから」

 人の肉は嫌いだから食べたくない、素直にそう言って聞いてもらえるはずがないので、この選択が相手のためであるように話す。自分のためでなく、あくまでも相手のためというように。

 まあ、そんな子供だましの話術が通用するはずもないが。

「……仕方ないわね。じゃあ肉は食べなくていいから、ひとまず席についてね」

 言われたとおり、部屋の中央にあるテーブルに着く。エンジェルは私の隣に。そして対面に彼女が。気味の悪いほほえみは、相変わらず絶やさない。


 少しの間無言で待っていると、誰かが部屋の扉をノックした。部屋の主が許可を出し、扉が開かれると、女性型のアンドロイドが料理を載せたカートを押して入ってきた。それから一切表情を動かさずに淡々と、全く滞りのないスムーズな動作で料理を私達の前に並べていく。

「どうぞ、ごゆっくりお楽しみくださいませ」

 料理を並べ終えると、その言葉一つだけを残して、カートを押して部屋から出て行く。それを見送ってから、正面に視線を戻す。

「さあ、食べましょう」

 満面の笑みを浮かべる彼女に対し、私とエンジェルの気分はまさしく最低そのものだった。それでも観念して、料理を見つめる。メニューはシンプル。スープに、ステーキ、スライスされたバゲット、サラダの四点。その内私が食べられるのは二つ。パンとサラダ。それだけだ。

 ステーキは、焼けた鉄板に肉が乗せられ、その上からソースがかけてあり、肉汁とソースが鉄板で焦げて、とても胃を刺激する香りを立ち上らせている。食欲はなくとも、悲しいことに体は素直だ。目の前の肉を欲しがっている。それでも、食べない。その肉が何か知っているからこそ、食べない。

 次にスープ。こちらはまさしくだ。わずかに色づいた透明に近いスープの底に、何種類化の野菜と一緒に、腸詰めのような形をした肉が沈んでいた。よく見れば、それがぶつ切りにされた指というのがわかる。爪を剥がれて、中に入れられている。

 食欲は一瞬で消え失せたが、席は立たない。水で口の中を湿らせて、バゲットを齧る。表面は固い歯ごたえがあり、内側はもっちりとした柔らかな触感。美味い、のだが、美味くない。エンジェルも、実に不機嫌そうな顔をしてサラダを食べている。

 そんな私達に対して、目の前の女優は……

「……」

 スープの中に入っていた指を口に入れ、咀嚼し、食べやすいように骨が抜かれていたのか、骨を吐き出さず、そのまま飲み込んだ。

「ああ、美味しい」

 ため息を一つ。感嘆と共に、感想を一言。優雅な食べ方で、動作に不快さを感じる所など何一つ無いのに、ただただ気持ち悪い。昨日はなるべく見ないようにしていたが、目の前で見せつけられては嫌でも視界に入ってしまう。不快感が限界を超え、眉間にしわが寄るのを自覚する。

「あなた達は、食べないの?」

 既に味の付けられたサラダを、咀嚼する。味は、美味なはず。この島で出される品がマズイはずがないのだが、全く美味いとは思えない。感じない。何故そうかというと、やはり気分の問題だろう。

 本来食事とは、生命維持のための活動ではあるが、今の時代では娯楽としての一面も持つ。味を楽しむという娯楽だ。しかし、娯楽というのはやはり楽しいものでなければならない。しかしこうも最悪の気分では、楽しめという方が無理な事。

「美味しい?」

「美女とご一緒しての食事が不味いはずがありません……とでも、言えば満足していただけますか?」

 美女でも食人鬼と知っていれば。食人鬼が食べている料理の材料を知ってれば、一緒に食事を楽しむなどできるはずがない。自分が食われないか不安で、心配で、その状況で食事を楽しめるほど私は狂ってない。私は、まだマトモなのだから。



過去二番目に最悪な夕食が終わった後も、しばらく拘束されて他愛無い話を聞かされた。主に、身の上の自慢話を。正直耳に残るような中身ではなく、ただ単に向こうの暇つぶしに付き合わされただけだ。結局開放されたのは、夜遅く。午後十一時を回ってからだった。

 こんな時間といえば、もう外は暗く、外灯の灯りと、星と、月以外に地面を照らす物のない時間。外ならば、こんな時間に少女を連れて歩いていたら、お巡りに声をかけられるか、暴漢に襲われて有り金と少女を持っていかれるかの二択だが、この島ではそんな心配は無用だろう。犯罪者を取り締まる警察は存在せず、暴漢も餌を与えられて満足しているだろうから、襲われる事も多分ない。だから、庵して外を出歩けるかというと、そうでもない。人間は本能的に暗闇に恐怖を感じるようになっている。そこに何も居ないとわかっていながらも、物陰に恐怖を感じる。それに耐えながら、歩く。

「止まって。茂みでなにか動いたわ」

 エンジェルの言葉に足を止め、言葉を脳の中で反芻する。この時間に外を出歩く人間が居るとは思えないが。一応注視していると、確かに闇の中で何かが蠢いた。注意を向けていると、何か液体が滴る音が耳に入ってきた。

「この島に、人以外の動物は居ないよな」

「人の形をしていない獣は居ないわ」

 では、あのうごめく何かは人間ということになる。こんな時間に、暗い茂みの中で一体、誰が何をしているのか……誰が、という疑問も、何をしているのか、という疑問も、どちらも二択しかなく、組み合わせもたったの四通りしかない。

「引き返して、別の道を行こう」

 答えが何であっても、お楽しみの邪魔をするのは悪い。というのは建前であって、答え見るのも嫌なら傍を通るのも嫌だというのが本音。気付かれない内に退散しよう。

「見て見ぬふり?」

「……手遅れだ」

 首を振って、そう言う。悲鳴もない。暴れる音もしない。聞こえるのは水音だけ。なら私にできることは、被害者の魂が、この地獄から解放されて天国へ行けるように祈ることだけだ。

 エンジェルに動作でこの場を離れるように促し、道を引き返そうとした直後、茂みでうごめいていた何かが飛び出し、外灯の灯りに照らされた。

「……」

 外灯に照らされた男、らしい人物。らしいというのは、やはり辺りが暗いのもあるが、何より全身が血で染まっていたから。顔も、手も、足も、服も。全身が紅く染まり、その身長と肩幅でかろうじて男と判断した。

 獣の瞳が私を捉える。獣の視線と、私の視線が重なる。心臓を射抜かれたように、体が固まる。

 蛇に睨まれた蛙とは、この事を言うのだろう。数秒の間、呼吸をすることを忘れ、ただ怯えるだけしかできなかった。昼間に少女が目の前で殺されてもどうもなかったのに、自分に危険が及ぶと考えると、恐ろしくてどうしようもない。

「何を呆けてるの!」

 そこへ喝を入れられて、ようやく目を醒ます。同時に、目の前の獣も、音に反応するゾンビのように、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。

 一歩。命の危機を察知して、心臓が跳ね上がり、早く逃げろと急かす。無理だ。逃げられない。

 二歩。さっきより歩幅が増した。唾を飲み込んで、一歩後ずさる。

 三歩、四歩と、少しずつ歩みが早くなり、終いには走りだした。土壇場で使えるものがないかと、脳にインストールしていたデータを漁る。

「動きなさい! 死にたいの!?」

確か、治安の悪い場所へ出張に行かされた時にインストールしたものがあったはず。目を動かして一覧をスクロールし、目的のものを探す。あった。瞬きで選択して、起動。体のコントロール権を委任。許可。

 急に体が動きを止め、意志に反して構えを取る。目の前には、大口を開けて迫るケダモノが、もう。心臓が破裂するのではないかと思うほど、早く、大きく鼓動する。勝手に、というよりも、プログラムされた通りに体が動いた。迫るケダモノの鼻先に、固く握った拳を一直線に突き出し……強烈な手応え。突進の勢いが止まり、そのまま力を失って地面に倒れた。

 相手の無力化を確認したら、コントロールが戻り……途端に身体が震えだして、膝をついた。高い金を払ってこのプログラムを買った過去の自分を褒めてやりたい。もしも安上がりにデータだけで済ませていたら、きっと今頃、倒れているのは私だったろう。

「……もしかして、殺したの?」

「一発殴ったくらいじゃ死なない……多分」

ヘビー級ボクサーのパンチならわからないが、一般成人男性の体重じゃいくら勢いを乗せても、一発では死にはしないだろう。

 それよりも、せっかく寝てくれたのだから、早くここから離れるべきだ。体の震えを抑えこんで、立ち上がる。

「今のうちに帰ろう」

「……そうね」

 いつも通り、触れ合うこと無く一定の距離を保ったまま、部屋へ戻る道を歩く。

 人を殴り倒しておいて、何も感じない。倒れる男を見ても、不気味にしか思わない。正当防衛ではあるが、人を傷つけて何も感じないのは、一体どういうことなのだろう。そう疑問を抱けるなら、まだ異常の枠にはまりきっていないのだと、安心できる。

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