2nd day

柔らかな布団に包まれた快適な眠りから、目が覚める。まだ起きたくないと寝ぼけながらも、社会生活で身に染み付いた習慣が体を勝手に動かす。

出勤の時間になると、目覚まし時計が鳴るよりも早く勝手に目が覚めて、先に時計を止める。それから誘惑を断ち切って布団から体を引きずり出し、ベッドサイドに脱いだ靴を履いて立ち上がる。未だにぼやける視界で周りを見て、部屋の広さ、一級品の家具、高い天井に、住み続けた自分の部屋とは明らかに違うようなと感じ、そして一晩前の事を思い出した。ここは自分の部屋でもなければ、国際電話で予約をとった旅行先のホテルでもない。私が今いるのは、地獄だ。

「おはようございます」

 起きてからすぐに、美少女に挨拶される。夢でさえ見たことのない、夢の様なシチュエーション。言われた場所がここでさえなければ、この一瞬が天国とも思えただろう。本当に、この島でさえなければ。

 それにしても、こいつも随分と早く起きるものだ。寝る前に着ていた薄く透けているネグリジェはそのままだが、長い少し癖のあるブロンドの髪も、寝ていたにしては随分と整っている。私が起きる前に起きてセットしたのだろう。

「おはよう。早起きだな」

「奴隷が主人より早く起きるのは当然よ」

 私は奴隷として扱うつもりはないが、彼女の立ち位置は奴隷と表現するのが最も適している。プライドの高そうな話し方をする割には、随分とあっさり自分の立場を認めている。普通、こういう性格の人間ならば抵抗を覚えそうなものだが。完全に受け入れている。その上で、不自然なほどに自然な立ち振舞。人生を積み重ねた上に作られたとしか思えない人格。とても人為的にインストールされたものとは思えない。

「突っ立ってないで、身支度でもしたらどう?」

「そうだな。そうしよう」

 観察を一旦中断し、前の社会人生活と同じサイクルを始めよう。配置こそ変わっているが、やる事は変わらない。顔を洗って、髭を剃って、歯を磨いて。それから着替えて、朝の用意はおしまい。いつもは四枚切りのトーストを五分間焼いて、その間にやることは全部済ませて。終わったらテレビを付けて、ニュースで残虐な事件や、芸能人のスキャンダルを見て所詮は他人事だと無関心流しながら砂糖たっぷりのカフェオレを入れて、パンに安いマーガリンを塗って食べて、最後にネクタイを締めて出勤する。それが俺のいつもの朝。

 しかしこの部屋にはテレビも無ければトースターもトーストも無い。とりあえず、顔を洗って髭をそって、歯を磨いて。あとは寝ぐせを直すついでに髪型をオールバックに整えて、部屋に置かれた給仕服に着替えて。姿見に映る、見慣れない格好の自分に違和感を覚えながら、エンジェルの前に戻る。

「少しは見れる顔になったじゃない」

「どうも」

 高慢さの現れる笑みと、上から目線の言葉。本心からの行動、言葉のように感じるが、ただ書き込まれたプログラムに従って言葉と表情を操っているだけ。そう思うと腹は立たず、哀れみしか湧いてこない。

「何、その目は」

 感情が顔に出ていたのか、不満を口にされる。自分の顔に手で触れてみると、確かに顔の形がいつもと違っていた。そういえば寝起きだからか、ポーカーフェイスを保つのを忘れていた。表情筋をもみほぐし、いつもの営業スマイルを顔に貼り付ける。

「なんでもない。なんでもないとも」

「気持ち悪いわね」

 それで心が包み隠せるのなら、気持ち悪いと言われても構わない。この環境は、心を曝け出すにはあまりに過酷過ぎる。

「ところで、朝食はどこで食べるんだ」

 昨日案内された場所の中に、社員食堂のような場所はなかった。まさか客の食べるスペースで食事をするわけではないだろう。

「知らないの?」

「そもそも知ってたら聞かない」

 どうしてそれほど当たり前の事を聞くのか。

「それはわかるわ。なんでそこで私が知ってると思うの」

「てっきり脳みそに入ってる物とばかり思ってたが。知らないならまあいい」

 フィッシュにモーニングコールをすればわかるだろう。島の経営者だ、他の人間よりも早く起きていることだろう。ひょっとすると社長出勤で他より遅く起きるというのも有りえるが。

「まあ、知ってるけども」

 知っていたのならなぜ素直に話さなかったのか。それには彼女なりの理由があるのだろう、あえて追求はすまい。

 というのは建前であり、実を言うと一々追求するのが面倒くさいだけだ。

「なら案内してくれ」

「その前に着替えさせて」

「そうだな。常識で考えれば」

 確かにネグリジェのまま食堂へ行くわけにはいかんな。この島では今までの常識なんて何の役にも立たないただの荷物と思っていたが、その役に立たないはずの常識で考えればそうなる。

「馬鹿かしら?」

「否定しない」

 この島の存在を知る位に賢ければ、今頃はどこか違う場所でバカンスを楽しんでいただろう。そして、馬鹿な私の休暇は今日で切り上げ。楽しいか、楽しくないかはさておき、労働の開始だ。果たして何をさせられるのかは朝食の後に聞けばわかる。

「部屋の外で待ってる。急がず、ゆっくり着替えればいい」

 ネグリジェ姿の彼女は、好みから外れているとはいえ寝起きには少々刺激が強い。いつまでも見ていては心の毒。自分で決めた道を踏み外さないためにも、マトモな行動を心がける。

「……見ないの?」

「見て欲しいのか?」

「いいえ。屑にしてはマトモな行動だと感心しただけよ。見たくないなら出て行って」

 罵声を背中に受けながら、ドアノブを回して廊下に出る。

 屑、とは温い表現だ。今の俺の事を表現するにはあまりに意味が弱すぎる。一人の少女の人格を剥奪し、自分の理想像を押し付けて、上塗りする。屑の一言では足りない。人間の所業ではなく、人でないなら悪魔になる。それを越え、鬼の所業。つまりは鬼畜だ。

 そうしたいという欲求があったわけではない。そうしたいという欲求を持ったこともない。こんな状況を望んでいないのに、こんな事になってしまった。交通事故の加害者は、きっとこんな気持ちなんだろう。

一人不快な思いに沈んでいると、ドアノブが回る音がしたので、思考を中断してドアから離れ、後ろを向く。

「待たせたわね」

 少しだけ待つと、まともな服を着た少女が居る。

「いいや。これっぽっちも」

 かつて恋人としたやり取り。今と全く同じ言葉を言われ、今と一文字も違わない言葉を返した。その瞬間がフラッシュバックし、眉を顰める。思い出したくない事ほど強く記憶に残るものだ。あまり良いとは言えない記憶を昨日の凄惨な光景で上書きし、再び海馬の奥底に沈める。

「それじゃ、案内してくれ」

「普通は男性がエスコートするものだけれど」

「場所がわからないから仕方ない。あと、そのセリフはもう少し育ってから言うべきだな」

 少なくとも、今の彼女の歳で言うべきセリフではない。せめてあと五年か六年。その位でもまだ若いかもしれない。

「しかし、気味が悪いな」

 人は外見で判断すべきではない。それはよく言われることだが、どうにも気味が悪い。

「自分で指定しておいて……」

 私ではない。フィッシュが決めた人格だ。要望は出したが、その要望通りではない。だが、私の要望をフィッシュが解釈して設定したのだから、私が指定したも同じか。

「怒るか?」

「いいえ。皮肉なことだけど、あなたが居なければこの人格エンジェルは生まれてない」

 生む腹も、相手もないのに生みの親か。いくら技術が進歩したとはいえ、それは認める訳にはいかない。男が女に種を植え、女は体の中で種を育てて、実を落とす。それが自然であり、常識というものだ。

「お前は私の子供じゃない」

「知ってます」

 それで会話を打ち切り、先を歩き出した彼女の後ろを付いて、私も歩き出す。



自分よりも明らかに歳が下の少女に手を引かれ、エスコートしてもらう男性。それを他者が見て思う事は様々だろう。歳の離れた兄妹か、元気のあふれる年頃の従姉妹に引っ張りまわされているか、いたいけな少女を騙し毒牙にかけようとする性犯罪者か。それとも、美味そうな肉を他人に取られまいと確保している食人鬼か。

 実際は、そのどれでもない。食堂の場所がわからないから案内してもらっている情けない男と、それに人格を奪われた哀れな少女のセット。なんとも滑稽で、なんとも不思議な実情だ。

 さて。しばらく連れられて歩くと、昨日は案内されていないフロアに到着した。いくつかのテーブルが並べられ、椅子と料理がセットされている。そこには既に従業員らしい人々が着席して、食事をしていた。私が一歩その空間に交じると食事の手を止めて、新たに混じった異物、私とエンジェルに注意を向けた。

 いや、私とエンジェルに、というのは間違いだ。どの目もエンジェルにしか向けられておらず、そのどれもが、サファリパークで見たことのある目をしていた。野生味を出すために故意に餌を抜かれた肉食獣達の目だ。いつまでもここに置いていては、彼らの爪牙にかかり朝食にされかねない。そう思って、彼女に部屋に戻っていろと言おうとした。

「私はこの方の所有物です。手を出すと怒られますよ」

 その一言で、彼らの目にこもっていた熱が急速に冷めていく。他人の持ち物に興味はないのか、それとも人の物に手出しはしないという協定でもあるのか。何にせよ、これで心配事が一つ減った。私の心の拠り所として、彼女の意志も何もなく生まれたエンジェルを失う事はなくなった。

 おおよそ外道と言えるような手段を黙認してまで助け、心の支柱にしている彼女を一日と経たない間に失っては、その瞬間に狂気に落ちるだろう。ひとまず私の心は守られた。

「朝食はセルフサービスになってるから。要るだけ取って食べなさい」

 そこまでのことは、言われなくとも見ればわかる。ただ、セルフサービスにしても色々と種類がある。主食にしても、パンや米、シリアル、スパゲティなどの麺類など様々。副菜も、卵にソーセージ。フライドポテト、各種野菜のサラダ等。これほど選択肢豊富な朝食は他所ではとてもお目にかかれないだろう。

 だがあえて私はいつも通りの、パンとバターを選ぶ。四枚切りのパンを一枚オーブントースターに入れて、軽く焦げ目が付くまで焼く。その間にコーヒーを一杯淹れて、バターも用意する。パンが焼けたらバターを塗り、皿に乗せてコーヒーと一緒にテーブルへ持って行って席につく。ここからはいつもなら、神様に祈りを捧げてから食べるところだが。昨日の段階で神様なんて居やしないと確信したから、祈りもせずにパンにバターを薄く塗って、そのまま齧りつく。

「……」

 毎朝食っていたスーパーの特売品のパンより格段に美味い。添加物まみれでバサバサした食感と、雑味だらけの味とは大違い。とても一言では表せない旨味を感じた。勿論バターも美味い。特別な乳牛でも使っているのか、今まで食べたことのない風味だが、好きになれそうな味だ。黙々とパン一枚を平らげ、少し冷めて飲み頃になったコーヒーを口に入れ、水分を取る。これもまたいい香りだ。

 エンジェルも隣に座り、私と同じようにパンを食べている。ドリンクは私とは違い、彼女の飲んでいるのはコーヒーではなくミルクココア。歳相応、というか見た目相応の嗜好。過酷な環境に荒んだ心の大地が、少しだけ潤される。

 例え印刷された嗜好と思考だとしても、それは考えなければいいだけのこと。だが自分がどういう立ち位置に居るのかを見失わないためにも、頭の片隅に常に置いて、一日一度は思い出す必要がある。自分を見失えばあとは落ちていくだけだ。

「やあ、おはよう新入り」

 一枚では腹が満たされない、と席を立とうとしたところで肩を叩かれた。足から力を抜き、座ったまま後ろを向くと、昨日人肉料理を作っていた吸血鬼が。

「おはよう。吸血鬼のくせに、日が出ている間も起きてるんだな」

「そりゃ吸血鬼なんて言われてても、実際はただのヘマトフィリアだからな。太陽を浴びても、十字架をつきつけられても平気だが、夜になれば眠くなるし銀の銃弾や杭が無くても死ぬ」

 そんなことは知ってる。俺は別にこいつが本物の吸血鬼だとは思ってない。ただ冗談で言っただけだ。だというのに、まじめに返されてしまっては困る。

「まあそれはともかくだ。今日はお前にウェイターをしてもらうから、そのつもりで頼むぞ」

「研修期間は?」

「人が少ないんだ。一から十まで教えてる暇はない。目立った失礼や、あまりにも礼儀を欠く行動さえ無けりゃいい」

 吸血鬼の口から失礼や礼儀なんて言葉が出てくるとは驚いた。こういった思い込みが失礼に当たるのだろうが、まだ外の世界の常識が残っているために出てきた思考だ。適応すれば消えてしまう。ならこれも汚染具合の指標の一つとして意識していこう。

 さて、それはともかく。こういうのは得意な方だ。学生時代にバイトしていたレストランでもよくチップをもらっていた。だから任せてくれと、相手が吸血鬼、殺人鬼でなければ胸を張って言いたい。

「死刑囚なんて、世界中の牢屋に腐るほど居るだろ。どうして人手不足なんかになる」

「死刑囚で俺達みたいにマトモな性格してる奴は珍しい。それを頭に置いとけ」

「お前がマトモ? 面白い冗談だな」

 人を殺すような連中が、自分はマトモな性格だと言い出す。最高におかしな冗談だが、被害者のことを考えると最高に笑えない冗談だ。

「じゃあそういうお前はどうなんだ」

「お前と同じだよ」

 嘘。私はまだマトモだ。だが、同類と思われている方が都合がいい。一々事情を説明する手間が省ける。

「じゃあマトモだな」

 呆れた。今の会話の流れからどうしてそんな答えが出てきたのか、全く不思議ならない。

「おっと、今のはもちろん外での話じゃないぜ。この島での話だ」

「そういう事か。すまん、どうも外での常識が抜けきってなくてな」

「そりゃ一日二日で適応できりゃ誰も苦労しないさ。気長に付き合ってやるよ」

「ありがとう」

 心にもない礼を言う。正直放っておいて欲しい所だが、今日からここで働くのだし。会社での付き合いとして受け入れよう。相手は殺人鬼とはいえ、善意からの発言なのだし。

「それじゃ午前七時半になったら、またここに来てくれ。案内する」

「わかった」

 その言葉を最後に、彼は自分の席へと戻っていった。一つ言葉を交わす度にボロが出ないかと不安に思っていたが、なんとかやり過ごせたらしい。

「そういえば、エンジェル。私が仕事してる最中はどうするんだ」

「部屋で本でも読むわ。殺人に快楽を感じるような変態の元死刑囚がウヨウヨしてるような島で、私みたいな非力な少女が一人出歩けばどうなるか。考えなくてもわかるでしょう」

 言うとおり、考えるまでもない。彼らの餌食になる以外の未来が浮かばない。それだけ答えが出たら、そこに至る過程が自然と頭に浮かんでくる。

 この島の頭のおかしい男達の内の誰に襲われて、バラバラにされて食われるのか。犯されてからバラバラに引き裂かれて食われるのか。犯されながらバラバラに引き裂かれて食われるのか。それとも犯されながら食われるのか。過程は異なれど、悲鳴を上げ、苦痛に泣き狂いながら、折角助けられた命を狂人に奪われるという結果は変わらない。

「それはわかる。だが、ならどうして今彼らは襲ってこない」

「さっき私はあなたの所有物だと宣言したから、誰もあなたの前じゃ襲ってこないわ。誰だって死にたくはないでしょうし」

 なるほど、確かに私はあいつらと同類と思われている。つまり何かあれば躊躇なく人を殺せるような人間だと思われている。そんな奴の目の前で獲物を奪えば、報復として殺される可能性が非常に高い。それが怖いから、手出ししてこないと。

 遺憾ながら、第一印象を良くするために作った嘘のプロフィールが奴らに対する予防線になっているようだ。だが、もし目の前でエンジェルを殺されたとしても、報復に殺し返したりはしない。多分助け合った恩人を守れなかった事に罪悪感を感じて、自殺する位だろう。私に人を殺すような勇気はない。

「それなら、一緒に居る間は目を離さないようにする」

「そのセリフが恋人のものなら、とてもロマンチックなのだけれど」

「こんな島だ。恋人なんて諦めろ」

 しかし、恋愛に関する知識をインストールするとはフィッシュも性格が悪い。この島でそんな相手を求めるなど無意味に等しいだろうに。

 もしこの島の中の誰かに恋愛を求めたとして、恋とは何かや、恋愛をする幸せというものを知る前に天国へ送られるだけだ。



食事を終えてエンジェルを私の部屋まで送り届けた後は、道中で掃除用ドローンとすれ違いながら、少し早足で食堂に戻っていく。島の敷地は広く、私の部屋のある宿泊施設から食堂まで往復するだけでも結構時間が掛かる。七時には朝飯を食べ終えて移動したのに、戻ってみれば時間ギリギリ。

「時間ギリギリ。元ビジネスマンなら、余裕を持って行動しろって言われてないのか?」

 腕時計を眺めて、仏頂面で待つ吸血鬼に文句を言われてしまった。

「イタリア人なら一時間後集合二時間後出発だ。遅れずに来ただけでも良いと思ってくれないか」

 大体、五分前集合なんて日本人くらいしかしないんじゃないか。

「料理は十秒あれば味が変わる。余裕を持って動いてくれると助かる」

「了解、了解」

 軽い調子で返事をして、彼の後ろを付いていく。移動の時間は三分とかからなかった。どうもレストランの近くに食堂が作られていたようだ。到着したらすぐに給仕服を渡され、それに着替える。いつの間に採寸されていたのか、サイズはまるでオーダーメイドのようにぴったり。そして首から研修中の札を下げさせられる。

「よく似あってるぞ」

「どうも」

 今のセリフを言うのが美女だったなら、一体どれほど嬉しかったか。男、しかも吸血鬼に言われても全く嬉しくない。

「それで、客が来るまで俺は何をすればいい。フロアでテーブルのセッティングしてるアンドロイドの手伝いか?」

 フロアで忙しなく動くヒトガタ達を指さして言う。ぱっと見てもあれがアンドロイドとはわからないが、少し見てればわかるものだ。動きが規則的過ぎるのと、瞬きが一切ない。私があそこに加わっても邪魔になるだけだろう。そして、料理の仕込みなどもできるはずもない。

「あれは任せときゃいい。ほっときゃ勝手にやってくれる。俺は冷蔵庫へ行って、今日使う材料を取ってくるから、その間にそこの端末から給仕のマナーデータとレシピ一覧をダウンロードしとけ。必要になる」

 彼が示した方向を向くと、一台のパソコンから巻取り式のコードが中空に垂れ下がっていた。スクリーンを見つめて眼球を介した赤外線が利用できないか試してみたが、どうにも対応していないらしい。

「なあ、もしかして有線式か?」

「有線式だ。万が一にでも客にレシピをダウンロードされて、その客からこの島の情報が漏れたらマズイからな。有線は苦手か?」

「苦手だよ。自分の脳みそに針を差し込むみたいな感触がどうも好きになれん」

 後頭部に設置されたポートにケーブルの先についた針のような細い端子を接続して、直接情報をチップに送り込むのだが。これがなんとも言えない気持ち悪さで、例えるなら頭蓋骨に穴を開けられて、その穴から空気を吹き込まれるような。そんな圧迫感がある。勿論そんな事をされれば死んでしまうので、あくまで喩え話でしか無い。送り込まれるのは空気ではなく質量を持たないデータなので、害はない。

「俺は苦手でもないがな。まあ我慢しろ」

「やれって言うならやるがなぁ……」

 正直、気が乗らない。気分が悪くなるし。

「じゃあやれ」

「へい」

 強い口調で言われ、致し方なくケーブルを手に取り、後頭部、髪で隠されたプラグに差し込む。それからパソコンのスクリーンにタッチして、必要なファイルをダウンロードする。一瞬、本当に一瞬だけだが、頭蓋骨の内側に空気を吹き込まれるような気持ち悪さが。本当に耐え難い気持ち悪さだ。

 ファイルのダウンロードが完了したのを確認したら即プラグを引き抜く。

「あー、気持ち悪い……」

 空気を入れられる感覚は一瞬だが、気持ち悪さは暫く残る。それを我慢して、ファイルを展開して一流の職人の持つ知識を得ていく。

知識だけ得ても、職人の経験まではしていないので、体の動きまで一流という訳にはいかない。何も知らないド素人が、三流位の動きが出来る程度にしか反映されない。だがド素人よりはマシだし、料理やワインの説明など、必要になるのが経験ではなく知識のみの場合はそれだけでも十分だ。それに加えて、研修中のカードも首から下げている。余程のことがない限り、大目に見てもらえるだろう。

 ただ、相手も知識だけなら今私がしたのと同じようにダウンロードしている事もあるから、説明があまり求められない可能性もある。まあ、有れば便利程度のもので。

「戻ったぞ」

 声に反応して振り向くと、皮を剥がれ、内臓を取り出されて、さらに頭を落とされた少女の体のような物体。それを乗せた台車を押して戻ってきた。

 防衛本能からか、それが何かを理解した瞬間に全力で顔を背ける。だが、これからはこれが日常になるのだ。そう考えて、悲鳴を上げそうになる自分を抑えて直視する。

「ダウンロードは終わったか?」

 肉塊の首のところにワイヤーの付いた大きなフックを突き刺して、クランクを回して天井にぶら下げながら聞いてくる。本当に、なんてひどい光景だろう。まず人間のすることじゃない。

「終わってる」

「じゃあレシピのファイルを展開して仕込みを手伝え。野菜切る位できるだろう」

 肉の解体を手伝えと命令されないかと思っていたが、幸運なことにそれはないらしい。そう言われても多分、精神が耐え切れず、肉に刃を入れることも出来なかっただろうが。




十四時。レストランの裏で、一人ゆっくりと休憩をしている。朝の八時からついさっきまで、モーニングまたはランチを食べにやって来たセレブの皮を被った食人鬼達に、吸血鬼の作った人肉料理をひたすらに運び続けた。ただ運ぶだけではなく、全ての客が上流階級と呼べる彼あるいは彼女らが普段利用しているであろう一流レストランに劣らぬサービスをするために、インストールした知識の通りに体を動かされて、精神的にも肉体的にもひどく疲れてしまった。

だが、その疲れに見合ったサービスを提供できたかといえばそうではない。思い返してみても、一流と呼ぶにはあまりにぎこちない動きしかできていなかった。しかしそれは仕方がないことだ。知識だけあっても、経験と下地がなければそれを活かすことは難しい。一般人が格闘技の本を読んだだけではボクサーに殴り合いで勝てるはずがないのと同じだ。勉強で得た知識と、トレーニングによって作られた肉体と、試合の経験で培われた判断力。この三つの内二つが欠けている時点で、一流の動きができるわけがない。これといって目立った失敗がないのが、せめてもの救いか。

 これから経験を積めば、少しはマシになるだろう。希望的観測を込めながら空を見上げてのんびりとしていると、裏と表をつなぐ通路から足音が聞こえてきたので、そちらに視線を向ける。一体誰だろうかと。

「……おや」

 表から顔を出したのは、ランチに人肉料理を食べに来た客の内の一人。本性を知るまでは、私がファンだった女優。今更チップを渡しに来た訳ではないだろう、一体何の用事があって、この薄汚い路地に顔を覗かせたか。

 彼女は私を見るに、楽しそうに微笑んで路地に入ってきた。

「お客様。どうされました? お召し物に埃が付きますよ」

 休憩中だからとゆるめていた気分を、ネクタイを締めるかのように引き締めて、すぐさま頭の中にインストールされた知識からこの場面に適切な言葉を選択して声をかける。一流の動きはできなくとも、セリフは知識だけあれば言えるのだ。

「あなたに会いに来たのよ」

 いくら美女でも今は勘弁して欲しい。人肉を調理するシェフと、人肉料理を美味しそうに食べる客と。そのどちらもがおかしくて、おそろしくて。それを隠して接客するのに精神をすり減らし、休憩の間に少しでも心を休めようとしていた所にやってくるなんて。

「あなた新人でしょう?」

「はい。そうでございます」

 いつも通り、作り笑いで本心を覆い隠して。相手の気分を損ねないように丁寧に言葉を放つ。

「人喰いに恐怖を抱くってことは、ひょっとして前科がないのかしら?」

 貼り付けていた笑顔が一瞬で剥がれ落ちた。自分ではうまく隠していると思っていた本性を、一発で言い当てられて、大きく動揺する。

「いえいえ。そんな。私は同僚を三人殺して死刑になって、この島へ送られてきたのです。前科がないなど」

「演技してたつもりでしょうけど、私は演技でご飯を食べてるのよ? 素人にしては上出来でも、プロの目は誤魔化せない」

 どうやら、私の必死の演技は完全に無駄だったらしい。いや無駄ということはないか、一応、フィッシュ以外には素性を知られてないのだし。

「そうですか。で、それがどうかしましたか?」

「興味がわいたのよ。私達も含めて、異常者しか居ないはずのこの島にたったひとりだけ正常な人間が居る。屑石の山にハイキングに来たら、ダイヤモンドの原石が転がってたような気分よ」

 他人のことを屑石と表現するその思考には何も言うまい。理解したくもない。

「私はダイヤの原石なんて上品なものじゃありませんよ。せいぜいが火に放り込まれる石炭だ」

 磨かれて身につけられるよりも、使い捨てられるという意味ではそちらの方が近い。ちょうど、見た目もそれほど良くはないし。

「何にせよ、珍しいものを見つけたら観察したくなるでしょう?」

「珍しいものが見たいなら、動物園か未開発の熱帯雨林にでも行ってください。そうすればいくらでも見られますから」

 マトモという理由だけで目をつけられては敵わない。せっかく考えて名乗った、ジョン・ドゥという偽の名前。同僚を三人殺して死刑になった殺人鬼という偽の経歴を名乗っているのだから、そういう扱いをして欲しい。

「私はジョン・ドゥ。この島の、他の誰とも変わらない殺人鬼で、元死刑囚です。そういう扱いをしてください」

 そうでなければ、折角作った偽の名前と経歴も意味がなくなる。もしも周りに、私が人を殺したことのない健常者だとバレたらどうなるかわからない。どうにもならないかもしれないが、そこは狂人達の考えることだ。予想もつかない。

 そう言うと彼女は少し呆れたように肩をすくめ、こう言った。

「下手な演技じゃいずれバレるわよ。指導、してあげましょうか?」

「! ハリウッドスターの直接指導ですか。

それはまた、魅力的な提案で」

 本性を知るまでは、彼女のファンだったこと。プロ直々の指導なら、データをダウンロードするだけでは得られない何かも得られるかもしれない。その二つのおかげで、心が大きく揺れた。

 がしかし、相手がプロなだけに今の彼女も演技をしているのではないかと疑ってしまう。一つ疑ってしまうと、彼女が食虫植物のように見えてしまう。食虫植物が虫を引き寄せるために良い香り放ち、虫を誘き寄せて食べるように。彼女もまた魅力的な餌をぶら下げて、懐に入ったところを食べるつもりなのかもしれないと。その可能性を考えてしまうと、どうしても誘いに乗る気にはならなかった。

「折角ですが、遠慮させて頂きます」

 それに、異常者との関わりが深くなればなるほど、自分もその影響を強く受ける事になる。私はできるだけ長く正常で居たい。プロは騙せなくとも、騙さなければいけない対象は騙せているのなら、これ以上上達する必要性も感じられない。なら影響を避ける行動を取るべきだろう。

「それは残念ね。でも、気が変わったらいつでも指導してあげる。待ってるわ」

 彼女が少し残念そうな顔で言うと、極めて自然で、そして艶やかな手つきで名刺を私の胸ポケットに差し込んだ。

「シーユー、ジョン」

 あまりに自然な行動に、身動き一つ取れなかった私を一つ笑って、後ろを向いて路地から去っていく。

 しばし呆然と立ち、彼女の足音も聞こえなくなるまで待つと、体から力が抜けて壁にもたれかかってしまう。無意識の内に緊張していたのだろう。一つ息を大きく吸って、吐く。そして彼女の顔を思い出し、つぶやいた。

「全く。何考えてんだか」

 この島に落ちるまでは、拙いながらもビジネスマンとして様々な人間を相手にし、仕事をもらうために相手の考えを読み、求めるものを言い当てて関係を得てきた。

当然その中にも考えのなかなか読めない相手、読みにくい相手も大勢板。実力が足らず、考えを読みきれなかった事も多々あった。それでも全く相手の考えが読めないというのは初めての経験だ。さすがは、人を騙すことを生業にしているだけある。おかげでなかなか貴重な体験ができた。もっとも、この経験が今後役に立つかはわからないが。



 午後七時。この島に来る前は、仕事も終わって家に帰り、夕食の支度を始めている時間。

 この島に来て二日目のこの時間は、エンジェルを連れに、一度部屋に戻る事に使っている。自室の前に立ち、ノックを三度。ゆっくりとした間隔の、小さな足音が奥から聞こえてきて、やがて扉一枚を隔てた向こう側で止まる。

「どちら様?」

 襲われないためにどうしろとは一言も言っていないが、ちゃんと自分の身を守るための行動は取れるらしい。

「私だ」

「そう言って開けさせようとしたのが三人居たけれど。これで四人目ね。一応聞いておくけど、あなたは誰?」

 なんとまあ、それほどエンジェルを襲おうとした奴が居たのか。それともそれだけしか居なかったと言うべきか。猟奇殺人犯ばかり集めた島で、その人数は多いのか少ないのか。まあ、外の常識で考えれば一人でも異常といえるだろう。あの料理長は比較的マトモに見えたから、連中にも常識があるのかと思った矢先にこれだ。

「身元不明の成人男性の遺体。短く言うならジョン・ドゥ」

「死人が声を上げるものかしら」

「B級ホラー映画ならよくある事だ」

「ならこの島は何級ホラーかしら」

「さあな。それを決めるのは俳優じゃなくて観客だ」

 ちょうど昼間に話をしたあの女優のことを思い出し、まるで狙ったかのような話の流れにくすりと笑う。彼女が出演するだけで、どれほどB級映画によくあるような脚本でもA級の売上になるとまで言われているが。この島はどうだろう。もし帰れたとして、この島の事を本にしたらどれほどの売上が見込めるだろうか。

「その喋り方。間違いないわね」

 まず帰れないし、この島の客のことだ。出版以前に原稿の時点で握りつぶされた上で消されるのがオチだろう。そう思っていると、いきなり目の前でドアが開かれた。

「おかえりなさい」

 その隙間から、少女が顔を覗かせ、気丈な性格を表しているかのような鋭い目で私を見上げる。

「ただいま……というのはちょっと違うと思うんだが。ただいま」

 ここは私の家じゃないし、帰るべき場所でもない。迎えてくれる相手も、恋人じゃないし家族でもない。私の犯した罪の被害者。本当、この島は私自身を含めて何から何まで異常しかない。

 ともかく、いつまでも部屋の前で突っ立っているわけにもいかないので開かれた扉をさらに開け、部屋の中へと入っていく。奥に入ると、彼女は今朝使っていたベッドの端に座り、私はガラスの天板が載せられたテーブルの前のソファに座る。部屋の中は朝出て行った時とほぼ変わらず、変わっているのはベッドシーツの皺と、テーブルの上に置かれたテレビのリモコンの位置くらいか。およそ生活感というものが全く感じられない。

「碌な娯楽の一つもないから、退屈で死にそうだったわ。だからと言って外を出歩けば殺人鬼に襲われるし。ずっとそのベッドで寝てたの」

「そうか」

 確かに、この部屋の中におよそ娯楽といえるような物はテレビ以外に存在しない。そう言っても、アレ一つで過去百年以上に渡って上映されてきた映画、ドラマのほとんどが見られるのだし。娯楽がない訳でもないだろう。

 使い方がわからなかったのだろうか。まさか、いくらなんでもそれはあるまい。膨大なコンテンツの中から、自分の好みにあった作品を探すのが面倒だったのだろう。

「だから、何か話を聞かせなさい」

「童話でいいなら」

「本当は仕事の話がいいのだけれど。まあ、それでもいいわ。何を話してくれるの」

「青髭」

「……」

 無言で枕を掴み、投げられる。片手を上げて受け止め、床に落ちないようにしっかりと両手で持つ。

「冗談だ。そんなに睨まないでくれ」

 冗談半分、本気半分で言ったのだが、激しい抗議の視線を向けられたので冗談として取り下げる。しかしこの島で青髭の話をするのは、あまり冗談にならないな。もう少し考えてから話せばよかった。反省しよう。

「もう一度聞くわ。何を話してくれるの」

「そう言われても、何を話したものか」

 今日あったことといえば、気の狂った連中の相手をして疲れた位。そのくせ社会的地位は揃って高いから、前の生活の名残で変に気を使わされるせいで、余計に疲れた。

 そんな客の中でも特に印象に残るのが、あの女優。取るに足らないはずの私を目にかけ、わざわざ休憩中に声をかけてきた。それは私が以前は彼女のファンだった事を除いても、印象を残すには十分過ぎる。

「使えない男ね」

「いや。一つだけ。多分あまりおもしろくないと思うが、話せるような事がある」

 話したとして、エンジェルを満足させられるような話かどうか。きっと無理だ。当事者にとっては驚くべき出来事であっても、第三者にとってはつまらない話。それでも何も喋らないよりかはマシだろう。

 ギブアンドテイク。外の常識を持った人間と接することで正気を保つ。その対価に、彼女の要望に応える。罪滅ぼしの意味もあるが。

「話しなさい」

 話す前に、カップに水を注いで一口煽り、口の中を湿らせる。そう長い話にはならない。短くまとめれば二、三言で終わるような中身だ。改めて振り返れば、とてもつまらない。それでも彼女が聞きたいというのなら、話さねばならない。

「客の中に、前はファンだった女優が居た」

「それで?」

「接客中は他のイカれた連中と同じように見えるように演技してたんだが。勿論失礼のない程度にな。その演技を見破ったその女優が、休憩時間中にわざわざ店の裏に来て、話しかけてきた」

 そこで一度言葉を切って、エンジェルの反応を見てみる。ただ聞いているだけで、楽しんでいるようには見えない。やはりつまらない話だったか。

「それだけ?」

「それから少しだけ話しをして、何故か演技の指導をしてくれるという話になった」

「受けたの?」

「いや。受けなかった」

「どうして」

「今のところ、騙さなきゃならない相手は騙せているからこれ以上演技の技術は必要ない。相手が演技指導を餌に私を食おうとしていると思ったから。狂人に付き合って、こっちまで頭がおかしくなるのは避けたかったから。理由はこの三つだ」

 極めてマトモな理由だと思うが、彼女はどう思うだろう。先程から変わらない表情を見れば、簡単に察することができる。

「はぁ……」

 ため息。

「本当、つまらないわ」

「だから前置きをしただろう。面白くないと」

「そういう前振りをされるほど、期待するものよ」

 こんな私に何を期待するのやら。平均的な人生から不運の底に転げ落ちただけの男に。

「でも暇つぶしにはなったわ。だから許してあげる」

「それはどうも」

 どうやら許してもらえたらしいので、ソファから枕を持ったまま立ち上がり、彼女の座るベッドに近寄る。私の動きを警戒して見つめる彼女を横目に、投げつけられた枕を元あった場所に戻す。

「そろそろ夕食の時間だ。行こう」

 連れて行こうと手を差し伸べても、やはり合いの手は出されない。苦笑いしながら手を引っ込め、先に部屋から出ていく。その後を追って彼女もカードキーを持って部屋から出てくる。

「また案内が必要かしら」

「さすがに朝行ったばかりだ。忘れちゃいない」

 私がそう言っても、彼女は華奢な足。大人に比べれば狭い歩幅を早足で動かし、私の先を歩く。その後ろを、私はいつもより歩幅を狭めて。さらにいつもよりも少し遅めのペースでついていく。それでようやく付かず離れずだ。朝と同じように、彼女が前で私が後ろ。その立ち位置で、一定の距離を保ちながら食堂へと歩いて行く。




 朝と同じように、エンジェルと一緒に食堂まで歩いて行く。朝と違うのは、彼女が後ろで私が前を歩いているということ。

 食堂へ辿り着き、職員食堂用にしては豪華な作りの扉を開くと、既に朝見たほとんどの顔ぶれがそれぞれの席に座って待っていた。視線が朝と同じように、私とエンジェルに集まる。

 居心地の悪さに顔をしかめていると、食堂奥のテーブルからフィッシュが立ち上がり、こちらに歩いてきた。

「遅かったじゃないか。さあ、早くこっちに来たまえ」

 手を握られ、そのまま強引に引かれて奥のテーブルに案内される。エンジェルは私の隣に座った。

 席についたら、周りを観察する。島の外での生活で、こうして職員同士で顔を合わせて食事をすることはあったが、やはり雰囲気は異なる。はっきりと言葉に言い表すことはできないが、外とは温度が違う。そんな気がする。

「今晩は君の歓迎会なのだから、そんなに嫌な顔をしないでくれ」

「……わかった」

 顔を一度片手で覆い、一撫でしていつもの営業スマイルを貼り付ける。ヘラヘラと笑って相手に媚び諂うこの表情は好きではないが、思っていることを隠すのには実にうってつけだ。

 営業スマイルのまま辺りをよくよく見てみれば、ここに居る者達は皆私と同じように、穏やかな笑みを浮かべている。しかし私は誰も、彼もが狂人の本性を持っていると知っているがために、それがどうにも肉食獣が獲物を前にして牙を剥いているように見えて仕方がない。

「同志諸君。この日より、この島の従業員が一人増えたということは知っているだろうが、しかしあえて紹介しておこう」

 マイクを片手に、嬉しそうに話すフィッシュから目で立つように促され、それに従って立ち上がる。

「彼はジョン・ドゥ。前科は同僚殺し。牢屋ぐらしが長かったせいで外の間隔がつよく残っているそうだ。それのせいで変な行動を取ることもあると思うが、仲良くしてあげてくれ。挨拶を」

 フィッシュの体温が移った熱いマイクを突き出され、受け取る。挨拶するなど知らなかったせいで、全く考えていなかった。どうしたものかと思うが、とりあえず挨拶だけしようと口を開く。

「よろしく」

 営業スマイルを顔に貼り付けたまま、一声だけの短く、単純な挨拶をしてマイクをフィッシュに返す。それから椅子に座る。ギシリと椅子が軋む音が食堂に響き、直後に軽いブーイングが起こる。無愛想だと思われただろうか。そう思われても気にしない。狂人達との仲を深めたいとはこれっぽっちも思っていないのだし。

「彼はどうやら人見知りのようだね。まあいずれ打ち解けるだろう。では、お待ちかねだ。ディナーにしよう!」

 フィッシュが大げさな身振りで話し、手を二度叩くと、外からアンドロイド達が料理を載せたカートを押して入ってきた。料理は銀色のクロッシュで覆い隠され、その中身は知ることができない。その中身を想像すると冷や汗が出てきた。

 昼に自分が運んだ料理、それと同じ。あるいは近いものである可能性を考えると、今すぐここから逃げ出したくなる。

 しかしそれは許さないと言わんばかりに、エンジェルが人形のように無表情かつ無言で袖を掴んでいるために、動けない。

 何度かグイグイと引っ張って手を放させようとしても、全く放す気配がない。観念して立ち上がるのを諦め、料理が配られていく光景を黙って見つめる。カートが従業員達の前を進み、ついに私達の目の前に来た。人の肌と区別の付かない、人工の皮を被ったアンドロイドが、それらしい動きで料理を私達の前に置く。そして、クロッシュを外す。

 湯気とともに『肉』の香りが立ち上る。そして現れたのは、野菜と、ソースと共に一枚の皿に絵画のように盛りつけられた、肉料理。それは嗅覚と視覚の両方を同時に刺激して、巧みに食欲を引き出そうとしてくる。

 が、食欲は一向に湧いてこない。材料のことを考えてしまうと、どうしても手を出す気にはなれない。

「フィッシュ」

 ささやくように声をかける。他の席とは離れているため、小声で話せば周りには聞こえない。

「察しの通り、材料は今朝収穫してきたばかりのものを使っている。客に出すのと同じ出来のものを作れと命令してあるから、味は保証するよ。まあ、質が高すぎるから、君にそれがわかるかどうか」

 最後の皮肉はもう耳に入らなかった。絶望する事などもうありはしないだろうと思っていたが、甘かった。また絶望させられた。牛や豚、鶏など、一般的に食用として生産される家畜の肉ならともかく、人間の肉と知っていて食うのは、そうしなければ死ぬというような状況でなければ、必ず罪に問われる。

 私はまた罪を犯すのかと、心が沈む。私を助けてくれた、生気に満ち溢れていた少女。それと同じ娘たちを、こうして食らうのかと思うと、手が動かない。

「私はベジタリアンで……」

「食べないなら食べないでいいが、そうなると明日のランチに出るのはエンジェルになる」

「……」

 少しの間料理と睨み合っていると、隣からカチャカチャと食器の擦れる音がした。目を向けると、貼り付けていた笑みが一瞬で崩れた。エンジェルが切り分けな肉をフォークに突き刺し、それが小さな口に消えた。そして少しの間咀嚼し、そのまま嚥下した。

 それが何度か繰り返された後、彼女がこちらの視線に気付いた。

「私は今こうしているけれど、私達はこうなるべくして生まれ、育てられた。外での牛や豚と何一つ変わらない家畜よ。あなたは外では、一々肉を食べるのに罪悪感を抱いていたの?」

 家畜の肉なのだから、それを食べるのは当然と言い切った彼女の言葉に、思わず納得しそうになる。彼女は自分と同じ少女だったものを食べるのに、何の疑問も持っていない。割り切っているのか、それともそうプログラムされているからなのか、どちらかの区別は私にはできない。ただ、呆然とするばかりだ。

「食べなさい。美味しいわよ」

 わずかに開いた私の口に、切り分けられ、彼女が使っているフォークに刺された肉がねじ込まれる。

口の中に肉の味が広がり……そこから先は、あまり憶えていない。とりあえずなんとか完食した、ということだけは憶えている。




食べてしまった。最初の一口は食べさせられたとはいえ、それ以降は自分の手で、自分の口へ運んで食べてしまった。

 味は覚えていない。材料も自分て調達したわけじゃない。料理をしたのも自分じゃない。それでも材料になった少女たちの顔が、声が、脳裏にちらついて消えることがない。

 吐き気はしない。それでも気分は最悪。言いようのない不快感が、私の体をソファに縛り付けて離さない。見上げる天井は高く、私が新たに犯した罪を許容しているかのようで、これまた気分が悪い。背中に当たる柔らかいソファは行動意欲を奪い去り、ただ無意識に行われる生命維持活動以外の全ての動きを停止する。

「寢るならせめて服くらい着替えたら」

 シャワーを浴び、バスローブを着て浴室から出てきたエンジェルが、背中まで伸びる髪をドライヤーで乾かしながら、平然として言った。

「……君は、人間の肉を食ってなんとも思わないのか」

 私と同じように人の肉を食ったというのに、あまりにも平然としすぎている。人の肉を、それも自分と同じ境遇にあった少女たちを。つい昨日までは一緒に過ごしていたかもしれない少女の肉を食うことに、本当に何も思っていないのか。

「夕食の時に言ったはずよ。私達はこうなるべくして生まれ、育てられた。外での牛や豚と何一つ変わらない家畜。だから気にすることもないわ」

「そう言うようにプログラムされてるのか」

 夕食の時と、一字も変わらない答え。全く変わらない表情に、そう思ってしまった。する彼女は少しだけ考える素振りを見せ、返事をした。

「わからないわ。私は自主性が強く設定されてるみたいで、一回だけ楽しめればいいだけの人形よりも、人格が深く作りこまれてる。だから私自身で考えて答えを出せる。この答えも、自分で考えて出した物。でもその思考が誘導されていないとは言い切れない」

 つまり、どちらの可能性もあると。本当のことは設定した本人、フィッシュに聞かなければわからない。だが、そうまでして知りたい事でもない。自分の信じたい事を信じて、フィッシュを悪役に仕立てあげて、彼女を単に被害者として見て。彼女の思考が誘導されていなければ、きっと深く傷ついていただろうと、勝手な可能性を信じこむ。その方が気が楽だ。

 そういう風にプログラムされていて、本当の彼女の人格では食べたくないと思うに違いないと。そういう事にしておこう。本当の、大本の人格などもう有りはしないというのは考えずに。都合のいいことだけ見て、都合の悪いことは見ないフリ。

「よいせ……」

 話をしていたら少しは気が紛れた。彼女の言ったとおり、寝るにしても服を着替えてから。ついでにシャワーも浴びて寝よう。ソファから足をおろして、柔らかい絨毯を踏みつける。向かう先は昨日も使ったシャワールーム。施設を利用する客が客なだけに、これもまた広い。二人どころか、三人が同時に入ってもまだ余裕がありそうだ。服に手をかけて、さあ脱ごうとしたら、こちらを見る視線に気付いた。

「間違っても、溺死しようなんて考えないでよ」

「大丈夫。まだ、そんなことはしない」

 自分の犯した罪を残したままでは、死ねない。まだそう思えるだけの良心が残っているから、自殺はしない。できない。

「まだ……ね。脅してご機嫌取って、優しくしてもらおうと考えてるなら無駄よ」

「そんな事は考えてない。ところで、一緒に入りたいんじゃないならドアを閉めてくれ。抱きもしない女に裸を見せたくない」

「つまらない上に最低な冗談ね。抱く? 一緒に入る? 死んでも御免だわ」

 バタン、と乱暴に閉められた扉から、もう少し気の利いた言い方をすればよかったと今更ながらに思う。こんなことだから、外でも恋人の一つも作れなかったのだろう。

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