少女牧場

crow mk.X

1st day

 少女牧場(仮) 


 波の音で意識が水の底から引き上げられる。眼を開くと雲ひとつ無い空の奥から、太陽の光が眼球を突き刺してきた。痛みすら感じる眩しさに耐えられず、目を細め手をかざして、水を吸った服で重くなった体をゆっくりと、起こす。

 痛む頭を抑えて、ここはどこだろうかと脳内のGPSを起動する。しかし頭の中の地球儀は、太平洋の中心の何もない場所にピンが立つだけで、現在地を教えてくれることはなかった。ならば、何か位置を知る手がかりでも無いかとあたりを見渡す。

ゴミ一つ落ちていない真っ白な砂浜がとても長く続いて。正面を見れば海底が透けて見えるほど青い海が地平線まで続き。上を見れば宇宙の果てまで見渡せそうなほど澄んだ、雲ひとつ無い青空。後ろを向けば緑の美しい平らな野原。そして私を観察するように囲む、裸の少女が幾人か。

なるほど。ここは天国か。

 一瞬だけ、そう思った。確かイスラム教における天国では、決して酔う事のない酒と好みの肉、いくら採っても尽きることのない果実を与えられ、美しい処女達に囲まれて永遠の時を過ごすというが。果たして私は、その資格があったのだろうか? 有り得ない。私は敬虔なムスリムでもなければ偉大な事を成し遂げた聖人でもない。悟りを開いた者でもない。宗教的な物言いをすれば、俗世に塗れ、欲に溺れた言わば俗物。日々上司に怒鳴られながら仕事をし、給金をもらい日々の糧を買い、酒と肉を食らい、休日は一日を寝て過ごす。極めて怠惰かつ一般的な社会人だった。そんな私が天国に居るなど。


 では、この状況は何なのか。水を吸って重くなった服、張り付いた砂の不快感、乾いていく塩の香り。美しい風景と、美しい少女たち。少なくとも私が知識として知っている地獄ではない。地獄はもっと苦しく、醜く、恐ろしい所だ。そして天国でも地獄でもないとなれば、消去法でここは現実。生者の世界ということになる。顔の向きを上から下に。視線を空から地上の少女たちに戻す。

 裸のまま、本来ならば衣服で秘され。そうでないとしても他人には見られるべきではない秘すべき場所を隠そうともせず、生まれたままの姿で向けられる、穢れを知らない無垢な視線。耐えられず、思わず目を背ける。しかし、逸らしたその先にも無垢な目が。彼女らを視界に入れないことは、諦めた。ここが英語圏であることを祈って。祈りを吐き出すように、言葉を吐く。ここはどこだ、と。やはり返事はない。端から希望など持っていなかったが、それでも気を落とさずにいられない。

 久々に得られた長期休暇で調子に乗って、旅行へ出ようとなどと思い立つのではなかった。いつも通り家で寢るか、酒を飲むかしていれば、こんなことには。

 後悔に目を伏せていると、不意に手を引かれる。華奢な見た目からは想像できない力強さと、意識が戻ったばかりで未だ覚束ない足取り。それに加え、足元は砂浜。驚くほど簡単にバランスを崩して無様に顔から地面に倒れ、今度は水ではなく砂に溺れる。

 すぐに起き上がり、口に入った砂を吐き出して、顔についた砂を払い落とす。少女たちの心配するような目線を受け、大丈夫だと笑顔を返す。それからまた手を引かれるままに、少女に野原の方へと連れられる。しばらく歩く内に、状況は飲み込めないが少しずつ落ち着いてきた。そしてこの島の自然に僅かな違和感を抱き、観察してみる。

 遠くに見える山はともかく、辺りの野原はやけに起伏に乏しく、稀に遠くへ地面から突き出た岩が見える癖に、裸足で踏みしめる柔らかな土には小石さえなく。パズルのピースから絵の全体像を想像するように、この島が自然に出来た物でない可能性を思いつく。今のところ目にした「人間」が低年齢の少女ばかりというのも、そういう目的のために作られた島であれば納得がいく。

 運悪く新品の個人用飛翔機が太平洋のど真ん中で故障して墜落して、運良く死を免れたと思ったら、実はやはり運が悪かったらしい。

「ー! ー!!」

 遠くを指差し、何かを伝えようと声を上げる少女。仕事で自動翻訳機片手に西へ東へと駆け回っていたが、それがなければ平凡な学歴しか持たない私に挨拶以外の異国の言葉を理解できるはずもない。

 だがジェスチャーでなんとなく「あっちを見ろ」と言われているのだろうと推察し、指差された方向を向いて、よく目を凝らす。直線距離にしていくらほどだろうか。ここから見ると極めて小さな、それこそ豆粒ほどのサイズの灰色の建築物らしいものがあった。遠くにあるからそう見えるだけで、近寄ればそれなりの大きさなのだろうが。

 原始的な格好の少女たちに、近代的……と言っていいのかどうかはわからないが、とにかく人工的な建物と、今のところ見るのは少女のみ。この状況に、あまりいい予感はしない。少女性愛者ならば諸手を上げて喜ぶところなのだろうが、残念ながら私にはその気はないし、あったとしてもこの状況を楽しむ余裕まではない。


 それからさらにしばらく、手を引かれるまま早足で歩く。時間にして大体十分程度。距離にして一キロかそこら。遠くに見えていた灰色の建築物はもう目の前にあり、彼女は目的とする場所に辿り着いたのか足を止め、今度は私の後ろにまわって背中を押す。私は碌に抵抗もせず、今度は押されるままに建物の中へと入る。悪い予感はどんどん増していくが、他に選択肢もない。

 太陽光が降り注ぐ眩しいほど明るい外から、目にやさしい人工的な光で満たされた空間。その中身を見た瞬間に、あまりの衝撃で思考が消し飛び、立ちすくむ。一分間ほどの間を置いて、見覚えのある光景にここがどういう施設なのか、どういう島なのかを確信した。

「……ああ、神よ」

 餌やり用の機械に、餌を求めて集る獣達。その獣が豚や牛、鶏などの家畜であれば、それは異常ではない。全く正常なことで、ショックを受けることもないだろう。だが今私の前にいる獣達は、本来ならば可愛らしい服を着て、皿に盛りつけられた料理をナイフとフォーク、あるいはスプーンでお上品に食べるのがお似合いのはずの少女たち。そうでなくとも、パンを食べるのならば手で持って食べるのも良しだろう。だがそれらは機械から吐出される餌に一切の羞恥心を持たず、顔を突っ込んで家畜のように食らう。否、家畜のようにではない。家畜そのものだ。神より霊長に与えられた偉大なる道具、手を使わない時点で、猿にすら劣る。私はこれをヒトとは認識できない、脳が認識を拒否している。これはヒトの形をした獣だと、そう認識する。そうでもしなければ正気を保てない。

 SF小説でもそうそう見ないような光景に衝撃を受け、目眩がしてきたので建物の外へ出て、壁に寄りかかって、地面に腰を落とす。

「……クソッタレ」

 今まで多少だらけてはいたが、それでも普通に生きてきた。酒を飲んで、うまい飯を食って、そんな普通の生活が送れたらそれでよかった。刺激なんてこれっぽっちも求めていなかった。ただ息抜きに、美しい景色を眺めて癒やされようと旅行に出ただけ。どんな人間でもその位思いつくだろう。それを思いついて、実行することのどこがいけなかったのか。咎められることなど何一つ無いはずだ。

 自分の身に降りかかる理不尽を悲しみ、足を抱えてうずくまること数分。今の時代ではなかなか耳にすることのない、ヘリのローター音が聞こえてきた。空を見上げれば太陽が眩く輝き、海のような青いキャンパスを雲の白が彩る中、黒い粒が徐々に大きく、近寄ってくる。どうやら牧場の主か、その使者が自分の持つ家畜に近寄る獣を見つけて様子を見に来たようだ。せめて牧場の主が、二重の意味で話の通じる人間であることを願うが、こんな異常な環境の主がマトモであるはずがない。虎の子が居る穴の主が虎でないことを期待するのと同じく、そんな願いを抱くのは愚かでしか無い。

 ヘリが徐々に高度を下げて、暴風をまき散らしながら降りてくる。風で舞い上げられた砂や草から顔を守るために、手で顔を覆い。わずかに開いた指の隙間から着陸するヘリを観察する。果たして、何を持って降りてくるのか。獣を狩るならライフルか散弾銃が妥当な所。話も聞かずに機関銃で蜂の巣にされるのなら、それもまた良し。こんな現世の地獄に居るくらいなら、本物の地獄へ送られるほうがまだショックが小さい。

 自棄になった思考をしていると、ヘリの足が完全に地面について、風も少しずつ和らぎだす。隙間から覗く景色の中でドアが開く。一体どんな凶悪な人相の人間が出てくるのかと、待ちわびる。

「なあテッド、こいつはお客さんに見えるかい?」

 ヘリのローターが風を切る騒音の中張り上げられた、聞き覚えのある言語。その言葉を話すのはどこかで見たことのあるような顔をした色男だった。

「水着を買う金もないような貧乏人がこの島に遊びに来るかよ」

「全くだ! それじゃこの貧相なオッサンは、近所で墜落した飛翔機のパイロットってことだな。よりによってこんな島にたどり着くなんて、運がいいんだか悪いんだか」

 ライフル銃を持った二人の男が、私を嘲りながらこちらに近寄ってくる。どうやらすぐに撃ち殺されるということはないようだ。ひとまずは命が助かったことに安堵し、胸を撫で下ろす。

「立て」

 銃は向けられないが、銃を持っている相手に反対するつもりはない。そうでなくとも、今は疲れきっていて反対する気力など残っているはずがない。

「乗れ」

 言われるままに、強風に逆らって風の発生源へと歩いて、段差を上ってヘリに乗り込む。その後すぐに銃を持った二人組も乗り込んで機体が上昇を始める。一体私はこの地獄からどこへ連れて行かれるのだろう。

 そんなのは決まっている。地球の中をどれほど移動したとしてもそこは地球なように、地獄の中をどれほど移動したとしても、そこは地獄だ。



ヘリに乗せられて、眼下で流れていく景色を眺めながらどこかへと運ばれていく。どこへ連れて行かれるのかはわからない。わかるのは、運ばれる先も下と地続きということだけ。

 しばらく景色を眺めていると、やがて緑色の大地は灰色のコンクリートで整備された地面に変わった。見渡すと、いくつかのビルが建ち、道が整備され、ずっと奥には空港のような建物も見えた。しかも、そこには今の時代では金持ちの道楽でしか見ることのないジェット機が何機か駐機してあり、この島がマトモかもしれないという、わずかに残っていた希望を粉微塵に打ち砕いてくれた。

そのまま数分間遊覧飛行を楽しんだら、今視界に入っている中で一番高いビルの屋上へとヘリが降りていく。着陸までの間に、心のなかでこの世との別れの挨拶を済ませておく。思い残すことといえば会社に残した仕事と、田舎の母を一人残して死ぬこと位。それほど大した未練でも、問題でもない。私一人居なくなったところで、会社はすぐに他の人員で穴を埋めるだろうし。母親は兄弟がなんとかするだろう。悲しいことに、私一人が居なくなったところで社会が困ることなど、ありはしないのだ。

 ヘリがビルの屋上に着陸し、ドアが開かれる。

「よし降りろ」

 背中を銃口で突かれ、急かされるままにドアから降りていく。足をついたのは、柔らかい土ではなくコンクリート。そこだけは故郷と変わらない、世界のどこへ行っても変わらない硬く冷たい感触に、わずかに安心できた。しかし少し安心したところで、ここから先に待つ自分の運命を考えれば気分は落ちる。

「なあ、私はこれからどうなるんだ」

 不安が高まってきたところで、自分の処遇を聞いてみる。

「とりあえず俺達の雇い主に会ってもらう。どうするかはあの人が決めるから、俺は知らん」

「少なくとも生きて島から出られるってことはないな。この島のお客さんは政治家やら俳優やら大企業の重役やら……揃って地位の有る奴ばかりだ。外部に知られちゃまずい」

 元居た所には戻れない。そう宣告されても、今更驚くようなことは何一つない。この島の客についても、何もかも予想通りだ。あまりに予想通りの事態に肩を落として、案内されるままに建物の中へと入り、急かされるままに通路を歩く。高級そうな内装のビルの中を、水を滴らせながら歩くのはどうなのかと思うが、これから死ぬ人間がそんな事を気にする必要もないか。

 階段を降り、廊下を歩き、エレベーターに乗って階を下る。しばらく無言のままに歩き続けて、やがて大きなドアの前にたどり着く。

「侵入者を連れて来ました。入ってもよろしいですか」

「入れ」

 歳を食った男性の、低い声。案内をしてくれた二人の手でドアが開かれ、中にいる人物の容姿が明らかになるかと思うと、窓を背にしていて、逆光のせいで顔はよく見えなかった。

「二人は下がれ」

「了解」

 私を連れて来た二人の人間が部屋から出ていき、部屋の主はデスクからよっこいせと立ち上がり、部屋の真ん中にあるソファに移る。場所を移動して光の加減が変わり、彼の顔が見えるようになっので、その容姿をじっくりと観察する。声から想像した年齢ほどではないが、顔に刻まれたシワの数からするにそこそこの歳なのだろう。顔に貼り付けられた笑顔のおかげで、一目見ただけでは穏やかそうな老人にしか思えない。しかし見た目は見た目、中身は別だ。こんな島の主が、正常であるはずがない。その証拠に目はしっかりと開かれ、私を品定めするように上から下まで眺め続けている。その不快な視線に顔をしかめると、こちらの気分を察したのかそれとも品定めが終わったのか、視点が私の顔に定まる。

「君のような人間を招いた覚えはないが、まずは挨拶を交わすのが礼儀だ。私はロバート・フィッシュ、ここ天国にいちばん近い島の管理人だ」

「ジョン・ドゥです。職業はただのサラリーマン。この地獄みたいな島に来たのは飛翔機がトラブルを起こして墜落したからで、こっちも招かれた覚えはありません。家に帰れるのならぜひ帰してもらいたいところです」

「名無しか。まあ、名前や職業は偽りでも何の問題もない。本題はここからだ。君はここで死ぬか、それともこの島で働くか。どちらがいいかね」

 何の前触れもなく、いきなり意図を考えるまでもない直球を投げてきた。企業面接のような遠回しな質問よりもずっといい。これが生死を分ける質問でなければもっといい。

「第三の選択肢で、ここのことは黙っておくから生きて祖国に帰らせてもらうというのは」

 無駄な問い。生きて島から出られることはないのは、わかっている。遊覧飛行中の景色から考えて、その結論は既に出ていた。警備員にもそう言われた。それでもわずかな可能性に縋りたい。

「残念ながら、初対面で堂々と偽名を名乗るような人間の言葉を信じろというのも無理な話だよ。まあ、いずれにせよ帰すつもりはないが」

「……ファック」

「ここで働くのなら、報酬としてここの少女を何人か好きにしてもいい」

 違う。今のはファックしたいという意味で言ったわけじゃない。

「ついてないな」

「ついてない? いやいや。君は最高についてる。本来なら君のような平凡な人間がこの島で生活する権利を与えられるなんて。世界の99.9% の人がこの島のことを知ることすらできないだから、それを考えればどれだけ幸福な事かわかるだろう?」

 余程自分の経営する島を愛しているのか、私の事を幸福、あるいは幸運であると熱く語り始めるこの島の経営者フィッシュ。当事者である私の心は、彼とは正反対に完全に冷め切っている。与えられた選択肢は二つ。故郷にも帰れず死ぬか、この地獄で予想もつかない仕事をしながら生きるか。とても冷静とは言えない精神状態で、どちらがいいかを考える。

「……質問をしても」

 考えたところで、一つ疑問が湧いてきた。

「構わないよ」

「なぜ私を雇おうと」

「暇つぶしとお詫びだよ。君が墜落したのは、この島が原因だからさ」

「なんと」

 衝撃の事実。いやしかし、それならば突然に飛翔機にトラブルが起きたのも納得も行く。私が乗っていた型の飛翔機でいきなり問題が起きて墜落するような事例は、メーカーが隠匿していなければ一つとして聞いたことがないが、原因が外的要因によるものならばいくらでもある。操縦者のミスであったり、運悪く隕石にぶつかったり、鳥がエンジンに吸い込まれたりと。そしてさらに稀なのが、紛争地帯を見学しようとした馬鹿が撃墜されるという例だ。しかし私のケースはどれにも当てはまらない。

「簡単に言うと、この島はVIP が集まるから、空も海もしっかり警備してるのだよ。某国の偉い人から型落ちの防空システムを融通してもらってね」

 そうとも知らずに島の近くを飛行したせいで、その防空システムに引っかかって、撃ち落とされたと。一度も警告せずに即撃墜とは、これほどひどい話もない。どれほど評判の悪い国でも、まずは最初に警告をするだろう。

「あのとき死んでればな」

 そうすれば今こんなに迷うこともなかっただろう。だが今更死ぬのは怖い。だが、地獄も嫌。生きるも地獄、死ぬも地獄。どっちの扉を開いても行き先は変わりない。ならどうすればいいか。どうするべきか。

 考えるまでもない。

「それで、どうする」

「働かせてください」

結局、死ぬのは怖い。そういうことで私は生きる地獄を選んだ。この先に待ち受けるものは、おそらく……否、間違いなく私にとって幸運、幸福とは言いがたいものだろう。それも、きっと心の持ちよう一つで変わる。かもしれない。希望は打ち砕かれるもの。そうとわかっていても、それに縋るのが人間という愚かな生き物だ。

「そう来なくてはな」

 差し出された手。それを取り、握手を交わす。書類はないが、これで契約は完了した。満足気な笑みを浮かべる老人に、腹の底から湧いてくる嫌悪感を隠しもせず、顔に出しながら手を放す。

 書類も何もない口頭での契約だが、悪魔はヒトではない。ヒトの常識は当てはまらない。これで十分なのだろう。

「ここで働くからには、まずはシャワーを浴びてもらおうか。磯臭いままでは客に不快感を与えてしまうからね」

 怪しさ何倍増の笑顔で、採用通知をもらってしまった。それなら最初にシャワーを浴びさせてもらいたかった。おかげですっかり、肝も体も冷えてしまった。



契約を交わした。シャワーを浴びさせてもらい、服も新しいものをもらった。契約内容の確認もした。この島で働くための準備を全て済ませたら、今度は仕事の中身を見てくるようにと命令され、今は従業員の控室のような場所で、案内人が来るのを待っている。

 一応軽く説明をされた時に調理、接客等と聞いたが、こんな島だ。どうせろくな仕事ではないのだろう。

「お前が新人の男か」

 ドアから入ってきた男を観察する。スキンヘッド、細い眉、深い彫り、針のように鋭い目つき。人を見た目で判断するのは良くないとわかっているが、私が抱く凶悪殺人犯の偶像とあまりに合致しすぎていて、どうしても警戒心と恐怖心を抱かざるをえない。

「そうだ。よろしく頼む」

 内心では怯えながらも、表情にそれを出さないように抑えこんで握手を求める。どうせこいつもマトモじゃないのだろうが、それならばより一層対応には気をつけなければいけない。下手に気分を損ねて、襲われてはかなわない。私はただの一般市民、銃を持った男に勝てるわけがないのだし。

「ああ、よろしく」

 笑顔と共に差し出した手を握られる。手は熱いのに、その笑顔を向けられてひどく寒気がした。口角を釣り上げ、目を三日月のように細め。灰色の瞳が、まるで底なし沼のように意識を吸い込もうとしているような、そんな錯覚。

 今ので確信した。予想通りこの男は、いやこの男もやはりマトモじゃない。正気のように振舞っているが、中身は対極。狂気の一色だ。この男が私の見ている前で何かをやらかしたわけではない。この男を深く知るような会話をしたわけでもない。だが、今まで私が一般社会で見てきた人間とは明らかに違うとわかる。

「俺のこの島での名前は、アンドレイ。お前は」

「ジョン・ドゥ」

 何も迷うこと無く名無しの権兵衛と名乗る。本名を名乗らないのは、正体を晒してしまえば、それを取っ掛かりに、向こう側へ引きずり込まれてしまうような気がするから。

「ジョンか。よくある名前だ。実はこの島にももう一人ジョンが居るんだが、二人いると紛らわしいな」

「好きに呼んでくれ」

「そうかい。考えとくよ。それじゃ案内するからついてこい」

 握っていた手を放して、歩き出すアンドレイ。放された手を、見られないようズボンの裾で軽く払ってから、彼の背中を追う。

「ところで、お前はどんな罪で死刑囚になったんだ」

「は?」

 あまりに唐突で、意味の分からない質問。私は模範的とは言えないが、普通の市民だった。気づかない内に何らかの軽い罪に触れることは有ったとしても、死刑になるような大きな罪を犯したことは一度もない。私にそんなことを聞くのか、わけが分からずに、言葉が詰まる。

「ああ、すまん。人に尋ねるならまず自分からだな。俺はちょっと厄介な病気で、下が役勃たずなんだよ。そんで気持よくなろうとあれこれ試してたら、サツに捕まって死刑になってな」

 ひどく軽い口調の自己紹介と、それに反比例する極めて重い内容。

『死刑になった』

その言葉から、『あれこれ』の内容を想像してしまい、返す言葉を失った。ただの殺人ではなく、性欲の代償、快楽を得るための殺人。そういった犯行は、プロフェッショナルであるはずの検察官さえも吐き気を催す凄惨な死体を生む場合が多いと聞く。こいつも例外ではないだろうか。だとすれば被害者達は拷問という表現すら生ぬるい苦痛を与えられ、命乞いの果てに殺されたのだろう。

 それをあれほど軽い調子で言い放ったところを見るに、笑顔を見た時からハッキリと感じていた狂気は氷山の一角で、その全体像は私の想像を遥かに超えるものだったのだ。こんな底なしのキチガイとこれからも付き合っていかないといけないとは、早くも心労で倒れそうだ。

「さあ、お前はどうなんだ?」

「私は……」

 どう言えばいいのか、激しく迷う。自分は違うと正直に言うか、似たようなものだと話を合わせるか。非常に不本意ながら、ここで働くと決めた以上こいつとはこれからもずっと顔を合わせることになる。関係のスタート地点を少しでも前に進めたいのなら、話を合わせた方がいい。どうせジョン・ドゥは架空の人間、私じゃないのだし、架空のプロフィールを作っても話しても何の問題もない。

「会社の同期を三人殺した。いつも見下されてて、ついな」

「なんだ。思ったより普通だな」

 嘘のプロフィールとはいえ、三人殺したのを普通と言うか。ならばこいつは何人殺したのか。

「三人で普通か。そういうお前は何人やったんだ?」

「俺は何人かって? 十から先は数えてねえな。まあ、多分二十三十以上は殺ってる」

 目眩がして、倒れそうになったのを壁に寄りかかって耐える。こんなサイコパスの手で、少なくとも二十人以上もの尊い人命が、想像しがたい苦痛と共に失われたという事実に吐き気さえ覚える。普通ならナイスジョークと笑い飛ばすところだが、こいつの底知れない狂気を感じ取った後では、とても冗談には思えない。 

「この島に来てからも、子供を定期的にやってるからもっと多いかもな」

 もはや何も言うまい。考えまい。一々反応しても疲れるだけだ。ここは今までの常識は通用しないと、いい加減に理解しろと自分に聞かせて、壁から体を離してまた歩く。


彼と一緒にまた少し進むと、何やら食欲をそそる臭いが漂ってきた。そういえば、まだ食事を摂っていない。ここでの食事はどのようなものなのか、今のところはそれだけが楽しみだ。これほどの地獄でも、食事くらいはマトモならいいのだが。

「ここはキッチン。お客様に出す料理を作ってる」

 扉を開かれ、招かれるままに中へ入る。

「ああ……」

 甘かった。せめて。せめて食事くらいはマトモなら、と願っていたが、その願いも無残に打ち砕かれた。

 寸動の鍋に入れられ、ことこと煮こまれている、人の手。人の足。

 赤黒い色をしたスープ。中身が何かは考えたくもない。

 部屋の中央に吊るされた、頭と皮と手足がなく、腹を縦に切り開き臓物を全て抜き出されたヒトガタ。そこからナイフを片手に肉を削いで、様々な方法で調理する従業員。

 衝撃。あまりに強すぎる刺激。平静を装うこともできず、カタカタと歯が鳴り始める。

「すまん、アンドレイ。トイレはどこだ」

「ここを出て、右側。看板があるからすぐわかるはずだ」

「ありがとう」

「マスをかくならちゃんとティッシュを使えよ」

 今は下品なジョークに反応する余裕などない。口を抑えて、入ってきたドアを乱暴に蹴り開き、言われた通り廊下を出て右側へ走る。トイレはすぐそこにあって、まっすぐそこへ駆け込み便器にしがみつく。そして、胃の中身を全て吐き出して、空になった胃からさらに強酸性の液体を絞りだす。度数の強い酒を飲んだ時と同じように胃酸が喉を焼く。酒と違うのは、胃に入るか、胃から出るか。

「うっ! おえ! げは、がはぁ……はぁ、あっ……うぐ。なんて、ひどい」

 口元をペーパーで拭い、拭いた紙は吐瀉物ごと水に流す。最初からマトモじゃないとはわかっていた。ある程度は予想して、予防線を張っていた。しかし、まさか人肉料理を出すほどとは思わなかった。思うわけがなかった。あの少女たちも、用途はせいぜい性処理用の人形位だろうと思っていた。実際はもっとひどいものだった。彼女は獣でさえない、家畜だ。

 従業員も客も少女達も環境も何もかも、この島の異常さは全てが想像の上を行く。どうしてあそこまで酷いことができるのか。どうしてここまで酷い島を作り、経営していけるのか。不思議でならない。いや、精神構造の根幹からして、私のような一般市民とは違うのだ。理解できないのが当たり前。彼らの思考を理解できるのは同類だけ。しかし日本のことわざにも『朱に交われば赤くなる』というものがある。私もこの島で働いていれば、彼らのような異常者に成り果てるのだろうか。そんなのは御免だが、死にたくもない。良心と生存本能の間の板挟み。しっかりと自分というものを握っていなければ、この狭い世界ではあっという間に汚染されてしまう。

 しかし、いくら自分を強く持ったところでいつまで耐えられるものか。強烈な異常を間近で見ていれば。強烈な異常に触れていれば、いずれ私も……。



 長い間便器にしがみついた格好で自らの選択を悔いていたが、そろそろ戻ろう。あまり長い間トイレに居ても怪しまれる。ふらつく体と痛む喉を堪えて廊下に戻る。見慣れぬロボットが前を通り過ぎたが、この島のことだ。今更驚くほどの事ではない。

 では、戻ろう。魔女の釜の置かれたあの厨房に。


「随分と長グソだったな」

 厨房に戻ってかけられた第一声がそれだった。見た目通りに下品な冗談を飛ばしてくるアンドレイは放置して、改めて厨房の中を観察する。壁は清潔感のある白い輝きを放っているが、コンロの近くはこびりついた油でわずかに汚れていて、長い間使い込まれたような雰囲気を感じさせる。整理された料理道具。せわしなく動き回る人。そして、コンロで火にかけられている鍋から突き出る、少女たちのものであろうヒトの手足。トイレに行く前に見た光景は幻覚でもなんでもなく、地獄のような現実だということを再認識する。

「料理長。こいつが件の新人だ」

 アンドレイの視線を追うと、ニュースで見た顔の男が居た。それから、アンドレイと最初に会った時の質問がどういう意味を持つのかを理解した。

 やはりこの島の経営者、フィッシュは頭がおかしい。

「やあ、はじめまして新人君」

 凶悪殺人犯らしからぬフレンドリーさで握手を求められる。数秒間迷って、その手を握る。そうと知っていなければ迷わずその手を握るかもしれないような、爽やかないい男。それが、この料理長と呼ばれた殺人鬼の第一印象だった。殺人事件のニュースで取材される人間が、口をそろえて「そんな事をする人には思えなかった」と言う理由もよくわかる。こうして対面しても、全く本性を匂わせない。

「名前はなんて」

「ジョン・ドゥ」

 先程も語った偽名を名乗る。

「偽名かい?」

「もちろん。ミスター・ヴァンパイア」

 ニュースで流れていた、犯行の手口からつけられた蔑称。これで反応すれば本物だ。本物とすれば、死刑になり牢屋へぶち込まれているはずだが……果たしてどうなのか。

「僕のことを知ってるのか」

「全米で報道された有名人だ。アメリカ人で知らない奴は、世間に関心の一切ない世捨て人か、情報を取り入れる道具を一切持たない田舎のホームレス位なもんだろ」

 女性を拉致監禁した上でレイプして、それだけでは飽きたらず血を注射器で吸い出して飲んで、最終的には失血死させるという斬新かつ残忍な犯行。その手口から吸血鬼とも呼ばれたその男が、今目の前に料理長という立場で立っている。ということは、こいつのつくる料理も……鍋を覗けば、やはり赤色。ここで出されるスープは血液。鉄錆の臭いをうまく別の香りで打ち消している。

「僕の料理に何か?」

「よくできてるなと思って」

 軽蔑九割、料理の腕への称賛を一割の割合でブレンドした言葉を贈る。吸血鬼と言われるだけあって、血の味をよくわかっているのだろう。だからそれを料理に使う事もできるのか。目を閉じて、香りだけを感じれば空腹を刺激する素晴らしい料理とわかる。

 具が人間であると知らなければ、ぜひ食べてみたいと思っただろう。

「これを客に出すのか?」

「そうでないなら、一体何のために作ったと思ってる。それとも客に出せないような仕上がりだとでも?」

 僅かな苛立ちを込めた返事。どうやら自分の料理を馬鹿にされたのだと感じたらしい。余程料理の腕に自信があるのだろう。でなければ、こういう反応は返ってこない。

「いや。客は材料知ってるのかなってな」

「知らない奴がこの島に来るわけ無いだろ」

 ああ、やはりこの島はカニバリストの島だったか。そうだよな。ただ少女を買うだけなら途上国へ行けばいくらでも買える。わざわざこんな太平洋のど真ん中に浮かぶ人工島にまで来てやる必要もない。だが、衛生的な調理施設、腕の良い調理師、そして高い秘匿性は途上国に求めるのは難しい。

「客はどんな層が居るのか、見せてもらっていいか」

「もうすぐ料理を出しに行く。その時にドアが開くから、そこから見るんだな」

「わかった」

 殺人鬼と言っても、マトモな判断が下せないわけではないらしい。凶悪犯罪者は皆理性も知性も自制心も欠片も無い、どうしようもない屑ばかりだと思っていたが、それはただの思いこみだったらしい。

 いや、犯罪を犯す時点で屑なのは間違いない。理性がない、という点だけが間違いだ。犯罪者にも理性的な判断は下せる。きっと話せば意思の疎通は容易だろう。でなければ、一人殺した時点で警察に捕まる。

 ということは、私がわざわざ軽蔑する屑のふりをしなくてもよくなったのか。偽のプロファイルで屑を騙っていたのだし、言動もそれに倣わなければと思っていたが。意外と理性的な犯罪者も居ることだし、素のままで過ごしても案外問題ないのではないだろうか。

「それじゃ料理を出してくる。客の顔、今覚える必要はないが、その内覚えろ」

「客商売だったから、人の顔を覚えるのは得意だ」

「頼もしいな」

 軽く言葉を交わし、吸血鬼が美しく盛りつけられた人肉料理を手に持って、厨房から出て行く。少し広めに開かれた扉から客の顔を覗く。元々目は悪い方でもないため、少し離れて楽しそうに食事と会話に花を咲かせるセレブ達の内一組の顔を、鮮明に捉えた。見目麗しい男女。見覚えがあると思えば、あれはハリウッド・スターではないか。そう思ったところで目が合って、微笑みかけられ、心臓を鷲掴みにされたような気分になり、扉が閉まる。

「どうした。客に惚れでもしたか?」

「いや。有名な映画女優がまさか食人鬼だったとは思わなくてな。ショックだよ。ファンだったのにさ」

 今まではスクリーン越しの、演技している姿しか見ていなかった。出演する映画の中で、彼女は主に清純な女性というイメージの強い役で有名になった。そんな彼女の演技ではない生の姿は初めて見るが、これが本性だとすると軽蔑せざるを得ない。こちらが勝手に、しかも一方的なイメージを抱いていただけで、そして勝手に幻滅しただけ。だが、あちらにも当然本性というものがある、常に演技をし続けろというのは、ファンの傲慢だろう。

「お前は薬をやらなくてもよさそうだし、接客も覚えてもらうことになりそうだな」

「なんだよ薬って」

「俺含めて、この島にゃヤバイ奴が居るんだよ。こう、ムラっと来たらバラして満足したくなるんだ。そのムラっと来るのを薬で抑えてる」

 なかなか恐ろしい告白に身の危険を感じて、一歩後ずさる。性欲の代償としての殺害衝動ならば、暴力が向けられるのは主に女性だろうが、それが自分に向くと思うと、身体が震えてくる。

「今は薬が効いてるから大丈夫だ」

 そうなると、薬が切れてる間は離れているべきか。薬が効いているか、効いてないか、見極めが肝心だ。

「じゃあ厨房は十分見ただろう。今度はプレイルームへ行くぞ」

「プレイルーム……ああ、お楽しみ会場か」

 きっとまたおぞましい光景が広がっているのだろうが、ここ以上に異常な光景はもう見られないだろう。この厨房は本来有り得ないものがあったから少しショックが大きかったが、お楽しみの会場はそういう場所だとはじめから予想がついている。家畜の屠殺場に行くのだと考えれば、まだ覚悟もできる。

では、新たな地獄へ足を運ぼう。連れられるままに。



 もう何が起きても驚かない。そんな覚悟を持って、さっきとはまた違う建物に入っていく。内装は自分がかつて仕事で泊まっていたビジネスホテルとは比べるべくもなく、素人目にも高級とわかる調度品が並んでいた。

 まあ、そんなことは利用者の層からして違うのだから当たり前なのだが。そんなホテルの裏口から入り、バックルームを通されて、AIを搭載されている幾多の清掃用アンドロイドとすれ違いながら監視室らしき部屋に入る。壁につけられた多くのモニタの中で、多くの客が行為を楽しんでいた。その中には私の知る俳優や政治家等も居たのは、もはや衝撃でも何でもない。ここはそういう島だ。お楽しみの内容は様々で、普通のプレイを楽しむ客。鞭を振って楽しむ者。振られて楽しむ客。ナイフを片手に、全身を返り血で真っ赤に染めながら楽しむ客。どれもさっき見た光景に比べれば、幾分温い。屠殺場に居るのだと自分に言い聞かせれば吐き気もしない。しかし、それでも背筋を撫でるおぞましさは消えない。感覚が麻痺していないのは良いことだが、いっそ麻痺してくれたほうが楽になれるのに、とも考えてしまう。

「ここでの仕事は客の監視。今まで一度も無かったが、備品を壊されたりしたら困るってことで誰か一人がこの部屋で見張ることになってる。客も勿論そのことは了承してるから、覗きだとかそういう事は気にしなくていい。合意の上だ。見てて興奮したならシコってもいいぞ、ただしティッシュはゴミ箱に捨てろ」

「やらねえよ」

 少なくとも、今しばらくはそんな事をする気分にはなれない。というか、下手をすれば一生そうなるかもしれない。果たしてそれはいい事なのか、悪い事なのか。良い方に取れば、彼らと同じ場所に堕ちずに済む。悪い方に取れば、適応できずにいつまでも苦しむことになる。

 果たしてどちらがいいのやら。それは未来の私に聞かないとわからない。

「いい子ぶって悩むのは止めて、慣れちまえよ。その方が楽しくなるぜ、殺人鬼」

 一人考えこんでいると、悪魔が囁いた。

「この島じゃ家畜相手なら何をしても許される。殺しても、犯しても。どうせお前の良心は法律を破っちゃいけねえって、下らねえ考えなんだろう? だがこの島じゃ俺達が法律なんだ。むしろ我慢する方が法に反してる」

 最初見た時と同じ。禍々しさを感じる笑顔。こんな笑顔をする男に言われるのは癪だが、言っていることは的を射ている。この島で行われている非人道的行為の数々。それらは全て、外の法律に当てはめれば何もかもが法に反している。しかし、その何もかもが許されている。俳優も政治家もスポーツ選手も、黒人も白人も黄色人も関係なく、全員が許されている。この島では外の法律は意味を成さないことの、何よりの証明だ。

 だが、生まれてからこの日この島に墜落するまでの間、ずっと外の法律に従い、外の法律に守られて生きてきた。ついこの前までゆりかごに揺られ、親の腕の中で育った乳飲み子が、いきなり過酷な荒野に放り出されて適応しろというのも無理な話。

「まあ、慣れたらな」

「そうか。慣れってのもあったか。ま、昨日まで牢屋の中にいたんだから仕方ねえよな。あんな禁欲的な場所にずっと居たらそうもなる」

 なぜだか同情の目を向けられる。私のことが郷に入っても郷に従えない哀れな人間に見えるのだろうか。

「大丈夫だ。少しずつ、慣れてきてる」

 この島に来てすぐなら、この光景だけでも吐いていただろう。しかし今は吐いていない。散々吐いて、吐くものが残ってないからでもあるが、吐き気もしない。それは自己暗示のせいもあるが、慣れてきているからだ。もっと慣れたら、この環境に適応してしまったらどうなるのか。アンドレイのように、この殺人鬼のようになるのだろうか。私が語った殺人鬼、ジョン・ドゥのプロフィールが現実のものになってしまうのだろうか。人を傷つけることに、人を殺すことに快感を覚える変態になってしまうのだろうか。

 そうなるのは嫌だ。私はマトモでいたい。

「いつになったら染まるかね。楽しみだよ」

「いつになるだろうな」

 私は怖い。自分が自分でなくなるのが。そうならないために、自分にだけは外の世界のルールを適用していこう。そうすれば、自我の延命はできるだろう。

 自我を保つのに一番簡単な手段は一つだけあるが、私はそれをしたくないがために抗っている。

「じゃあ、仕事の紹介もひと通りこれでお終いだ」

「仕事って、これだけか?」

 仕事が料理と客の監視だけとは、あまりに少なすぎやしないか。

「ほとんどの仕事は機械がやってくれてる。ヒトの手がかかるのは、ヒトにしかできない仕事だけだ」

「それが料理と監視か」

「そうだな。あと、客からの要望があれば接客もする」

 徹底した人の手の排除と、それに必要になる投入資金の額には感心する。島の外でもここまでの自動化はされていない。清掃用アンドロイドを揃えるだけでもかなりの額が必要になっただろう。だが必要になる金はそれだけじゃない。島の購入に、施設の建築と整備。世界的な大企業の社長でもない限り、個人資産ではまず不可能な金額だというのはどれだけの馬鹿でもわかる。おそらくは投資で資金を集めたのだろうが……そうなると、認めたくないが、フィッシュという男はとてつもない天才だということになる。その才能をもっと別の方向に、例えば慈善事業にでも活かせば、ノーベル平和賞くらいは軽くとれただろうに。

「それじゃ仕事の紹介もひと通り終わったし、オーナーとまた面会だ。仲間が増えるのを期待してるぜ」

 アンドレイとの会話が終わったら、今度は建物から出る。

 一人になって、深呼吸。疲れと苦しみを息と共に吐き出して、胸を張って身体を反らし、空気を吸い込む。空に顔を向けると、息を吐き出すのを忘れるほど綺麗な星空が浮かんでいた。都市でも随分空気の清浄化が進んでいるが、この島ほど空気は澄んでいない。

 そして思う。こういう星空をのんびり眺めたくて休暇を取ったのに、どうしてこうなったのだろうと。

 しばらく星空を眺めていると、勝手にアプリケーションが起動して、網膜に星座の解説が映る。都会で見る偽物の夜空ならばともかく、この島の美しい星空にそんなものは無粋でしかない。二度素早く瞬きをして終了させ、星の美しさにしばし現実を忘れて呆ける。

「何してんだ。行くぞ」

「すまん。今行く」

 悪魔の声に現実へ引き戻されて、また歩き始める。星空は名残惜しいが、生きていればまた見られるのだ。生きてさえいれば。



仕事の案内が全て終わった。その感想はと言うと、やはりここで仕事をするのは気が進まない。しかし働かなければ死ぬ。死にたくなければ働くしか無い。

 その点は外の世界とも変わらない。外の世界では働かなければ金がなくなって、乞食になるかいずれ野垂れ死ぬかの二択だが、こちらでは働かないことが即ち死に直結する。死ぬまでの時間が短いのと、選択肢が一つしかないのが外との差。

「さて、仕事場はどうだった」

 テーブルを挟んで向かい合う形で、ソファに座るフィッシュと私。

「やっぱり地獄は地獄です」

 いくら見て回ったところで地獄が天国に見えるようになるわけがない。

「感想も重要だが。君がこの島で働けるかどうかというのが聞きたいのだよ」

「そっちの意味でしたか。最初に言った通りですよ。ですが……もしもの話ですが。気が変わって、働けそうにないと言った場合はどうなります」

 実に愚かな質問だが、この質問の意図は答えを知ることではない。そんなわかりきった事を聞くためだけにわざわざこんな馬鹿な質問はしない。

 これは自分の意志を固めるため。あえて希望を断ち、地獄に身を投じる覚悟を持つための質問。

「あえて言う必要もない事だが、従業員の質問に応えるのは社長の義務だ。語らせてもらうよ。うちに適応できない従業員候補には、二つの選択肢が与えられる。と言っても生きている内にはない。死んだ後にだ。肉質が良ければ料理の材料になるが、悪ければ魚の餌になる。気は変わったかい?」

 完全に希望が断たれた。私に働く以外に生きる道は存在しないと、こうもハッキリ示されて決まらぬ覚悟も無いだろう。

「これからよろしく、オーナー」

 今度は自分から握手を求める。これで自分の意志を示したら、もう後戻りはできない。考えてみれば、戻る道なんて元からなかった。

 差し出した手をガッチリと掴まれ、数秒間視線を交わした後に笑顔でにらみ合い、どちらともなく手を解く。

「よろしく。ジョン君。では契約金として、早速君に給料を渡そう。こちらに来てくれ」

 フィッシュが立ち上がり、その後を追って私も立ち上がる。彼が歩けば私も犬が飼い主を追うように付いていく。一度部屋を出て、そしてすぐ隣りの部屋のドアロックを解除して、中に入っていく。私も付いて入ってもいいものかと入り口で悩んでいると、中から手招きされたので、少し迷って入室する。

「これが君の給料だ」

「……」

 言葉が出ない。何を言っていいのか、わからないから。さっきの部屋よりも貧相なソファにちょこんと座る、精巧な女の子の人形。よくよく注視すれば、それが人形ではないことがすぐに分かった。瞬きもするし、呼吸に合わせてほんの僅かだが胸と肩が動く。なぜこれを一瞬とはいえ人形と思ったのか。あまりにも生気というものが感じられなかったからだ。音にも反応せず、目の前で動く私達にも一切反応せず、ただそこに座って呼吸をしているだけ。人間ならば目の前を人が通れば必ず少しは反応するのに、その反応が一切ない。だから、人形だと思った。

「君はマトモな人間だから助けてもらった事に恩を感じているだろう……そう思って、君を助けた子を連れて来た。外見の好みを聞いていないからわからなかったというのもあるがね。もしも好みでなければ取り替えるが、どうする?」

 容姿が不満、ということはない。私の好みからは年齢層からして外れるが、十分可愛らしいと言える。だが、この娘が私を助けてくれた少女だと言われると、激しい違和感がある。化粧や衣服の有無、髪の長さもあるが、ここまで大きな違和感を生み出すのはそれではない。私が起きた時に、私を囲んでいた少女たちは、その何れも生気に満ち溢れて、動いていないと落ち着かないようにも見えた。一言で表すのなら野生、一文字で表すなら動。そんなものが感じられた。しかしこの少女といえばどうだ。野生とは全く正反対、人形のように静止している。

「この子でいい」

 彼女が何をされたかは知らない。だが、助けられたというのなら、私も助け返すべきだろう。

「では性格はどうする。好きな性格をインストールできるが」

「ああ……そうだな。マトモな、優しい子。それでいい」

 今更だが、やはりこの島は何もかもが異常だ。今得られた情報から立てた仮説が正しければ、この少女はあの放牧場から収穫されて、おおよそ人格といえる物を何らかの手段で抹消されている。そうであれば今の彼女の状態にも納得がいく。言うなれば、一枚の絵に真っ白なペンキで上塗りして、無理やりキャンバスに仕立てあげたような物。そこに客からの要望にマッチした絵、つまりは人格を描くと、商品の出来上がりだ。なんという非道。なんという外道。

 そして、要望を出した今この瞬間。私もその外道の仲間入りを果たした事になる。外ならば裁かれるべき重罪人。しかしこの島ならば裁かれることはない。外の法を守ろうと思っていた矢先にコレだ。だがこれで、肉として食べられる運命にある一人の少女の命を救えた。そう思えば、そう思わなければやってられない。

「名前はどうする?」

「名前か」

 まだ子を持ったこともなく、親戚から名付けを頼まれた事がないこの私が、こんなところで名付け初体験となるとは。

 名前、名前か。アジアでの名前とは、人にこうあってほしいという願いを込めて付けられるものらしいが。私はこの娘にどうあって欲しいのか。この娘に何を求めるのか。

 特に何かを求めるわけもない。こうあってほしいという願いもない。だが、とりあえず一つ浮かんだのが、死んだら天国へ行きたいというそんな自分の願い。そこから連想したのが、

「エンジェル」

 地獄の中の天使。自分を助けてくれた、心優しい天使。きっとこれからも世話になるだろう。

「HAHAHAHAHAHAHA!!」

 フィッシュがそれを聞いた途端、急に大口を開け、立派な腹を抱えて笑い出した。その笑い声には、アンドレイの笑顔に極めて近いものを感じる。あいつは隠そうともしていなかったが、こいつは狂気を善良そうな面で覆い隠していた。私の今の発言で皮が破れ、漏れ出てきたのだろう。

 面が歪むほどおかしいのは自分でもわかる。この島はフィッシュのような人種にとっては天国だ。彼らにとってはこの島の家畜全てが天使なのだ。その内の一人に『エンジェル』と改めて名前を付けるのは、最高に滑稽だろう。私からしても滑稽なのだ。地獄に天使など居るはずがないのに、天使と名を付けるとは、愚かしいにも程がある。

「はーぁーー……おかしかった。こんなに笑ったのは久しぶりだ。生まれて以来最高のジョークだったよ」

「それはどうも」

 こっちは大真面目に考えて……訂正しよう。そこまで深く考えたわけではないが、それなりに考えて出した名前なのに、それをこうも笑われては腹が立つ。その苛立ちも外の世界のマトモな労働で習得した営業スマイルで包み隠す。上司には逆らわない方がいい。外でもここでも、それはきっと同じだろう。

「では、名前に見合った性格に調整してインストールしよう。早ければ朝までに。遅くても明日の夕方までには終わるから、楽しみに待っていてくれ」

「楽しみにしておきます」

 心にもないことを、心からの発言のように錯覚させるように言う。

「今はまだ無理でも、いつかこの島が天国に感じられる日が来るといいね。それじゃあ、いい夢を」

 それだけ言って、少女、もといエンジェルを肩に担ぐ。担がれるエンジェルは、一切抵抗せず、されるがままに持ち上げられ、手足をだらりと伸ばしたまま。それを見ていると、一瞬だけこちらに眼球が動いたような気がした。きっと錯覚だが、罪悪感が胸を貫き、心臓を荒縄で縛り付けられた。苦しさに顔をしかめ、痛む心臓を抉りだすように鉤状に曲げた指を胸に突き立てる。しかし、鋭い爪を持った化物でもなし。いくら胸に指を押し付けても指先が白くなるだけで、心臓を抉りだす事は叶わない。


 フィッシュからこれからここで暮らせと与えられた一室。柔らかく、しかし適度に反発の有る一級品のベッドの上で一人夜を過ごす。部屋に備え付けの、音のしない時計を見れば、もうすぐこの島に墜落した最初の一日が終わる。

 私は外の世界ではどういう扱いになるのだろうか。脳内のGPSは相変わらず太平洋の中心を示し、島の名前は映し出されない。飛翔機に登録してある番号の信号がここで途切れたのなら、調査が来るだろうか。いや、きっと来ない。対空システムまで導入して島の存在を秘匿しているのだ、そこら辺の対策は万全だろう。おそらくは碌な調査もされず、事故で遺体は海の底。回収不可能ということで片付けられるだろう。そして私の両親には多額の保険金が支払われ、飛翔機メーカーへの訴えも行われずに事件は報道もされずに収束する。そういうシナリオになる可能性が一番高い。家族にはそれほど愛情をかけられていないし、金さえ貰えば追求はしないはずだ。保険金で残りの人生を謳歌するのだろう。

 まあ、どうなろうとも最早私には何の関係もないことだ。外の世界に戻ることは恐らく、生涯二度と無いのだし。会社や友人、家族に未練が有るわけではないが、そう思うと訳もなく悲しくなってくる。

 この感覚は、初めて親元を離れて都会で一人暮らしを始めた時のことを思い出す。あの時は最初の数日間こそ寂しいと感じていたが、それを過ぎてからは環境に適応し、一人暮らしの楽しさを見いだせた。ここでもそうなるのだろうか。そうなるのだろう。そうなってしまうのだろう。この異常な環境に適応し、ストレスを感じなくなる。それは恐ろしいこと。今まで積み重ねてきた人生の価値観が崩されて土に帰り、そこから新たな価値観が芽吹く。

それは恐ろしいことだ。

何故恐ろしいのか。

私が私でなくなってしまうからだ。

だが、そうしなくてはいずれ耐え切れずに自ら命を絶つか、使いものにならないと判断されて命を絶たれるかの未来しかない。

適応するのも怖いが、死ぬのも怖い。これが二律背反というものだ。

諦めてしまえば楽になれる。だがそうしたくはない。我ながら難儀な性格をしている。

「入っていいかね」

 ベッドの上で自嘲の笑いを浮かべていると、ノックの音とフィッシュの声が響く。頭だけ動かしてドアの方を見ると、動きに反応して空間ディスプレイが目の前に現れ、ドアカメラに映ったフィッシュともう一人少女、二人組の姿が現れる。拒否する理由もない。

「どうぞ」

 声に反応してドアのロックが解除され、二人組が入ってくる。ある程度近寄ると、枕元の電気スタンドに照らされたフィッシュの嬉しそうな笑みがよく見えるようになった。人を不愉快にさせる笑みだ。そしてその後ろ、フィッシュの恰幅のいい体の影に隠れ、その顔を窺い知ることは出来ない。

「上司が来たというのに寝たままか。態度が大きいね」

「前の会社でもこうだった。変える気はないからな」

「出世できなかっただろう?」

「機械以上の仕事ができるわけでも、有名大学を出たわけでも、重役の家族親族ってわけでもない。出世なんて頭の片隅にも無かったよ」

 だから日々こき使われ、不平不満を口にしながらもその仕事を続けていたのだが。それはともかく、フィッシュの影に隠れた彼女の事が気になって仕方がない。彼女は私が生まれて初めて犯した凶悪犯罪の被害者。彼女は私のことを恨んでいるだろうか。恩を仇で返されたことに怒っているだろうか。それとも、それすら感じないように設定されているのだろうか。

 いっその事糾弾してくれたほうが、気分も楽になるのだが。

「私は君に期待しているよ。珍しい常識派の人間だからね」

「悪いが期待には応えられんよ」

 常識派と言っても、漂着したばかりの今でこそだ。時間が経てばいずれ島の色に染まるだろう。そうはなりたくなくとも、いずれ避けられない。

「そうなるのを恐れているのが良い。この島の人間は全員が最初から壊れている。だが君はそうではない。外の常識を持つ人間が染まり、壊れていく様を見るのを、新たな楽しみにしているのだよ」

「……そうかい」

 壊れていく様を見て、楽しんで。それは自由だ。他人の娯楽には自分にかかわらない限りどうこう言うつもりはない。しかし私が完全に壊れたらどうするつもりか。壊れてはいけない、壊れたくない理由が一つ増えた。

「言い目だ。しかし、いつまで持つか」

「あんたが飽きるまで。持てばいいんだが」

 持たせてやる。そう言い切れないのが人間の弱さ。化物を前にすると、自信を持って自分は大丈夫だと言い切る事ができなくなる。単に私の心が弱いだけかもしれないが。

「長い付き合いになるといいね」

「そうだな」

 本当に。いつまで持つものか。

「さて、夜も遅いしあまり長話をしては睡眠時間が削れてしまって良くない。エンジェル。彼が君の主人だ。誠心誠意、尽くしなさい」

 フィッシュが小さな彼女の背中に腕を回して前、私の側へと押出す。スタンドライトの光が彼女の顔を照らし、気丈そうな顔を露わにする。若干丸みのある可愛らしい顔と、長さの整えられた金糸のような髪。ほんの少しだけ日に焼けた肌。目には前に見た時よりも力があり、比べるまでもなく生気に満ち溢れていた。もう人形には見えない。

「よろしく」

 右手を差し出す。すると、パシン、と軽い音を経てて手を弾かれた。驚いて一瞬固まると、彼女がようやく閉じていた口を開く。

「気安いわね。ケダモノ」

 侮蔑と拒絶。それを見下すような目つきと言葉、行動で示されて困惑する。

 注文と違う。

 そうフィッシュに視線で抗議すると、これまた不愉快になる笑みを浮かべながらこう言った。

「天使は人を導く存在で、悪魔は人を堕落させる存在。前者は人に厳しく、後者は優しい。君の付けた名の通り、天使のようにしておいたよ」

 私は君の注文通りに作ったよ、文句は無いだろう。そうとでも言いたげな顔だ。

「そうだな」

 しかし、これならこれでも構わない。依存するだけでは限界はすぐにやって来る。ストレスからの逃避として依存をするのなら、依存先はストレスの発散先にしかならない。しかし自分の求めぬ性質のものと一緒に居れば、それ以外での発散方法も模索する。考えることも刺激も増えて、限界も遠ざかるだろう。

「改めてよろしく。私はジョン・ドゥ。元サラリーマンだ」

 もう一度手を差し出すが、見向きもされない。

「自己紹介は無視せず返すのが礼儀だ」

「……名前はあなたが知ってるとおりよ」

「だとしてもだ。これは人間同士なら必要なことだよ」

 人間、という言葉を使い、彼女をモノ扱いする気はないという意志を示してやる。その気遣いが通じるかどうかはともかく。

「エンジェル。不本意ながらあなたの所有物になったわ」

 腕を組み、顔を背けて私を見ようともしない。苦笑しながら、また手を差し出すが、彼女の腕は引っ込んだまま出てこない。

「私は君のことを物とは思っていない。命の恩人を物扱いするような外道ではないからね」

 暗にフィッシュへの皮肉も込めつつ、彼女の気を緩めるためにアプローチを掛ける。

「記憶はないけど話は聞いたわ。恩人の人格、記憶を消して新しい人格を入れる時点で、十分外道と言えると思うのだけれど。外の世界の常識では、そうじゃないのかしら」

「やったのは私じゃない。なんて言い逃れをする気はない。手厳しい」

 実行したのはフィッシュでも、それを提案され、頼んだ時点で既に同罪。自分が凶悪犯罪者であることは自覚している。

 しかしこれだけ知性の有る会話ができるとなると、刷り込んだ人格ではなく本物の経験を積み重ねた結果、固定された人格を持つようになった人間を相手にしているようだ。

「それが売りだからね。人形を抱いてもつまらないだろう?」

 考えを見透かしたように、フィッシュが話し出した。

「その点に関しては、私は一切妥協していない。何千何万という人格パターンを組み合わせて、顧客一人一人に合ったオリジナルの人格を作り上げ、それを刷り込んで提供する。私が唯一人に自信を持って誇れる事だ」

「鬼畜の所業だな」

「私は従業員たる君の望みに答えるという義務のために行ったのだよ。それを忘れないでくれるかな」

「わかってる」

 わかっているとも。これから私もその行為の片棒を担ぐ事になるのだ。

「では、そろそろ失礼するよ。あとは二人でゆっくり親交を深めるといい」

 言いたいことは全部言ったのか、満足したような顔でフィッシュは部屋から出て行った。そして、枕元のスタンドライトだけが照らす薄暗い部屋の中で、私とエンジェルは二人だけになる。ベッドはキングサイズ、大人二人でも余裕のサイズだが、枕を一個掴んでそれから降りる。

「……」

 ビクリ、とエンジェルが震えて一歩下がる。それには触れず、まっすぐに部屋のソファまで歩いて、座る。

「怖がるな。手を出す気はない」

「本当かしらね」

 疑惑の視線。それを正面から受け止め、不安を解消してやるために自分の好みを言ってやる。

「俺は年上の方が好みだからな」

「そう」

「ベッドは譲ってやる。レディをソファで寝させる訳にはいかないからな」

 ソファの上に畳まれて置いてあった毛布を被って、枕を敷いて横になる。

「やったことは屑なのに、意外と紳士的なのね。少しでも点数を稼ごうって?」

「レディファースト。紳士でなくとも、常識の範囲内だ。それじゃ、良い夢を

「……おやすみ」

 電気が消され、真っ暗闇の中で目を閉じる。

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